ひそスレやそのほか雑誌等から得た情報を元に自分なりに総合してみた。
UFA(アップフロントエージェンシー)
細川健が創立したプロダクション「ヤングジャパン」が前身。
しかし細川は膨大な借金を残したまま、経営を山崎に譲渡。
以後は山崎が代表取締役としてトップに君臨する。
山崎は細川の残した借金の返済を果たし、
現社長の瀬戸を事実上のプロデューサーに据えた森高千里で儲けたりし、
そしてモーニング娘。で巨大な利益を上げ、芸能界の一大勢力となった。
山崎直樹
昭和24年生まれの思いっきり団塊の世代のおっちゃん。
明治大学中退後、エレックレコード入社。
その後細川の招きでポリスターに入り、取締役制作部長を務めた。
そして昭和61年UFAに取締役として入社し、昭和62年4月からは代表取締役社長に。
のち、UFA社長の地位は瀬戸に譲り、自身は会長、
その後、「アップフロントグループ」代表に就任。現在に至る。
雑誌サイゾーのインタビューでは、
「娘。の事実上のプロデューサーは自分」というような意味の発言をしていたが、
実際はバーニング、電通らとのしがらみの中に彼は位置しているようだ。
バーニングや電通たちとは、後藤加入の頃には彼らに全幅の信頼を置いていたが、
バーニングらに後藤を持っていかれる、と不安に思ったためか、
中澤を脱退させることで、後藤のソロを潰そうとしたらしい。
けど、市井の復帰ライブにバーニングの河西部長が招かれていたりしているのを見ても、
けしてバーニングらとの関係を絶とうとはしていない様子。
彼らと一定の距離をおいた、ないしは一定の発言権を持とうとしたと言うことか?
しかし、後藤卒業等のいわゆる7.31について、個人的には反対であったにもかかわらず、
結局「後藤卒業」を目指すバーや電通らにこれを押し通されており、まだまだ、辛いポジションにあるようだ。
「守銭奴」とヲタの間でのけして評判はよくないが、
自分の事務所に所属するタレントは最後まで面倒を見ようとするなど、
なかなか人情味に熱いところもある。「個人商店主」タイプとの評価が多い。
また、和田マネージャーの話によると、映画や舞台製作が大好きらしく、
福田明日香の脱退のさいには「伝説になるぞ!」という名台詞を残したとされる。
個人的に見て、結構調子のりのおっちゃんのように見える。
瀬戸由紀男(1)
UFA代表取締役社長。
ワーナーミュージック出身。
ワーナーでは元ちとせらを擁する「オフィスオーガスタ」社長森川欣信と同期だった。
なお瀬戸は年齢が不詳だが、
同期の森川が昭和27年生まれであるところから推測すると、それに近い年齢か?
YMOの細野晴臣のファンであるらしく、
瀬戸が実質的プロデューサーを務めた森高千里のアルバム「Lucky7」の中で、
細野のアルバム「はらいそ」から「今度はモアベターよ!」のセリフをパクったらしい。
瀬戸と細野の二人は、森高がローソンCMに出演し細野と共演した際に初対面。
その時に「Lucky7」でのパクりの話をきっかけに盛り上がって
意気投合し、その後のプロデュースにつながったそうだ。
そんな森高のプロデュースについて瀬戸は、
アイドルかアーティストか、という区別はあまり考えずに、
「今の森高にとって何が面白い事なのかを考えて、
彼女が好きに出来る環境を作ってやるのが僕の仕事だと思ってるんですよ」と語り、
「特にシングルに関しては“売れないもの作りますよ”なんて、事務所の社長(山崎)にも言ってるんですよ。
そうすると社長も “おお、いいよ”なんてね(笑)」
などと事務所(山崎)の理解の深さが大きかったことを語った上で、
「だから、シングルヒットを出す為の戦略、ノウハウを持ってなかったんですよね。
それに、芸能界的なやり方もしたくなかった。その結果、今のようなやり方になった、という感じです」
としている。
また、この当時和田薫が森高のマネージャーとして働いており、
瀬戸の「基本的に仕事はノーから始まる」
即ち、「ノーから始めてどういう風にアーティストを出していくか」
というプロデュース方法に和田は大きな影響を受けたとされる。
(つづく)
瀬戸由紀男(2)
娘。のプロデュースについて瀬戸は、
「自分の仕事はファミレスのFCビジネスみたいなもの。
自分の考え、というより会社全体でどうなのかと考える。
つんく♂は素晴らしいメニューを生み出す名コックで、僕はそれをどう運用するのかを考える」
と語っている。
「企画の山崎、実務の瀬戸」
といわれるのは瀬戸のこの姿勢の影響が大きいためか?
また、瀬戸はUFAの外交担当としての仕事も果たしているそうで、
バーニングや電通らとの交渉も彼の仕事のようだ。
一説には「あいーん体操」は、
瀬戸出身のワーナーが元々ナベプロ出資の会社であった為、
ナベプロ社長でイザワオフィス社長の井澤健から
「志村けんとの共演」を依頼され、結果あのシングルが発売されたとされる。
「企画担当」山崎に比べ謎の多い人物で、評価を下すのは難しいが、
「実務担当」として、大きな影響力を持っているのは間違いないだろう。
なお、瀬戸は経営者としての顔を見せる反面、
森高のアルバムにはベースやパーカッションで参加したりしており、
とミュージシャンとしての才能も持っているようだ。
また、「モーニング娘。×つんく♂」のあとがきで、インタビュアー能地祐子は
「いつまでもちっとも変わらないロックンロール精神にリスペクトです」
とその印象を語られ、瀬戸自身も
「35歳過ぎたら感性がついていかない、とされていたが、歳は関係なかった。
逆に感性が磨かれて、前より楽しいね」
と語るなど、ミュージシャン・プロデューサーとしての熱い魂を忘れる事もないようだ。
なんか長くなったんで疲れた。
周防や電通についてはまたの機会に。
>>378-382 お疲れさま
しかし、これだけ見てると山崎も瀬戸も全然悪いイメージが湧かないな
むしろ良いイメージさえ持たせる。
この2人を持ってしても7・31は防げなかったのか
お、これはきれいにまとめられてて参考になるね。乙
バー絡みの推測部分がちょっと電波な雰囲気漂ってるけど
>>384 バー絡みの部分についてはひそスレでもダメポスレでも意見バラバラだったからね。
個人個人の理解の仕方によって見え方が変わってくるだろうね。
>>383 >この2人を持ってしても7・31は防げなかったのか
彼らは何から7・31を防ごうとしていたんだ?
バーや電通からか?
むしろ彼らが7・31の主導者だったんじゃないのか?
であるならば、良いイメージなど持ちようもないが。
逆であるなら同意かな。
周防郁雄とバーニング(1)
周防郁雄は昭和16年千葉県生まれ。
県立市川高校卒業後、衆議院議員浜田幸一の運転手を勤め、
その後ナベプロ入りし、新栄プロに移ったとされる。
(これには諸説あり)
昭和46年バーニングプロを設立。
南沙織のマネジメントから身を起こした。
当時の有名なエピソードにこんなのがある。
このころの周防の状態を垣間見ることができるかも知れない。
南沙織のスキャンダルがある週刊誌に報じられたのだが、
これに怒った周防は単身週刊誌の編集部に乗り込み、
「お前ら、ナベプロのタレントのことだったらこんな事を書かないんだろう!
見てろ、いつかお前らをひざまづかせてやる!」
と吐き捨てたと言う。
この当時、芸能界ではナベプロ(渡辺プロダクション)が最大勢力として君臨しており、
周防のバーニングプロは弱小プロの一つに過ぎなかった。
そのために、週刊誌でスキャンダルを報じられてしまったのだ。
現在の周防は「最大最強の芸能プロダクション」を率いる、とされるが、
こういう過去の思い出があったことも忘れてはいけないだろうし、
また、こういう出来事が彼を今の地位にのし上げる大きな原動力の一つになったのではないか、
と個人的には思う。
周防郁雄とバーニングプロダクション(2)
周防はその後、かなり強引な力技を駆使する事で、
その勢力を拡大していった。
「札幌のクラブ歌手だった細川たかしをスカウトして以来、
芸能界の一角に身を置くことになった」とされるが、
当時人気絶頂だった郷ひろみをジャニーズ事務所から引き抜いた事ことを筆頭に、
その後も次々に有力タレントを引き抜いていく事で、事務所の力をつけ、
細川たかし、内藤やす子、高田みずえ、石野真子など4年連続して
バーニングプロ所属歌手がレコード大賞新人賞を受賞した。
また、ナベプロを独立し、アミューズを設立した大里洋吉には資金援助をしたそうで、
その見返りに、サザンオールスターズの曲のいくつかの版権を譲り受けた、とされる。
ただし大里はのちの取材で、
「周防さんから資金援助を受けたのは事実だが、
既にそれは返済しており、今は関係ない」
と語っている。
尾木プロダクション社長尾木徹にも同様のような事があったらしい。
周防郁雄とバーニングプロダクション(3)
周防は、版権ビジネスに目をつけて金を儲け、
また、その金をメディア、政界、財界から暴力団ら闇勢力にまでばらまくことで、
幅広い人脈を構築し、それらを背景に芸能界に強い影響力を持つことが出来た、とされている。
また、その強い影響力をバックに、
自分の事務所や系列の事務所に所属するタレントらをメディアにごり押しして出演させたり、
ワイドショーや雑誌記事などを通じ、バーニング系のタレントを「礼賛」する内容を書かせるなどし、
「バー系のタレントがさも人気があるかのように一般人を“洗脳”する」戦法を取る、ともされる。
そして、自分たちに逆らうタレントや勢力についてはスキャンダル攻撃をすることで、
潰しにかかる、とも言う。
ただし、このやり方は周防から始まったものではないようだ。
かつてのナベプロが非常に似た戦法を使っている。
周防郁雄とバーニングプロダクション(4)
周防が自分の誕生日に開く「ピンピン会」というゴルフコンペがあるが、
ここで、周防は有名タレント・スポーツ選手や芸能関係者、
メディア関係者などを招待して、接待をしているようだが、この開祖はナベプロである。
ナベプロが昭和37年8月に当時の自民党有力者佐藤栄作(まだ総理になっていない)をはじめ、
財界人、メディア関係者を招待したプライベートコンペ(渡辺プロ杯)をきっかけに、
毎年一回コンペが開催されるようになり、
ナベプロ創業者で当時の社長渡邊晋が死去する昭和61年までこれが続いているのだ。
ナベプロの場合も周防と同じく、このゴルフコンペを通じての人脈構築と接待が目的だった。
(元々渡辺プロ杯は佐藤栄作を招待する前から開かれていたようだが)
また、いわゆる闇勢力との関係についてだが、
ナベプロは直接の関係を持つことは嫌ったが、
大物興行師で、当時の山口組組長田岡一雄の叔父(杯関係)に当たる永田貞雄を結託。
彼を闇勢力との仲介人とすることで、闇勢力とのトラブルを回避しようとしている。
この永田貞雄という男は田岡一雄の芸能ビジネスの顧問的な立場にいたような人物で、
他にも大物右翼児玉誉士夫や政界財界にも太いパイプを持っていて、「興行界のドン」とも呼ばれた。
ただし、芸能人らへの接し方は紳士的であったそうで、
そのためにナベプロの信用を得る事が出来、仲介者としての立場を得たらしい。
田岡も永田の影響を受けているのか、興行におけるタレントへの接し方は極めて紳士的で、
客の入りがよかったりしたらボーナスを弾んだりするなどしており、
タレントからは大変好感をもたれていたらしい。
周防の場合はどうやらこの永田貞雄に当たる地位にいるようだ。
永田ほどの強い影響力を闇社会の人間に持っているかどうかは疑問だが。
周防郁雄とバーニングプロダクション(5)
周防の闇社会への影響力というのはさほど大きくないものと思われる。
彼らとのつながりは大切に思っているのだろうし、
また、そのつながりを自分が引き受ける事によって、
(言い換えれば芸能界代表的なポジション)
それを芸能界での強い影響力の背景にしているようだ。
ただし、永田ほどの影響力を持っていないためか、
周防は関東の闇勢力に金を撒いてはいるが、どこもかしこにも配る為に、
「周防はどこにもいい顔をする」と彼らからはあまりいい評価を得ていないらしい。
かつては山口組若頭宅美勝が周防の有力なバックとしていたが、
彼は殺され、代わりに山口組関東ブロック長代理後藤忠政がその後ろ盾となったが、
宅美の死をきっかけに、関東の暴力団は周防に対し、
「お前を助けてやるから、我々にもおいしい思いをさせろ」
と迫ったようで、周防は後藤以外とのつながりにも難渋している様子。
そして、「周防のお金をみんなで平等に分けようじゃないか」と、
闇勢力は一人の暴力団組長(稲川会系?)を、代表の回収者としたが、
この組長が周防の金を皆に配ろうとしなかったために、
組長は殺され、そして周防の事務所にも「警告」の銃撃がなされたようだ。
また、「闇のフィクサー」といわれるが、
実際はただの詐欺師と言っていい許永中にもおいしい話を持ってこられて迫られ、
危うくその被害に遭いそうになったり、
(許は相手においしい思いをさせると言って引き込み、最後はその相手の財産を全て奪う)
と、周防闇社会においては、なかなか微妙な位置にいるようだ。
周防郁雄とバーニングプロダクション(6)
ナベプロとの類似の指摘を続ける。
版権ビジネスについてだが、これもきっかけはナベプロからである。
昭和37年に設立された「渡辺音楽出版株式会社」がそれだ。
当時、レコード一枚の利益のうち50%をレコード会社がもっていき、
ナベプロは歌手印税の1%今日しか入らなかった。
この状況を打破しようとナベプロは、
原盤を自分で制作し、それをレコード会社に貸し出す、
という形を取ることにした。
レコード会社から徴収する「原盤使用料」で利益を上げるわけだ。
ただ、この方針はレコード会社の反発を買う事は必死であろうから、ナベプロはなかなか動かず、
昭和41年に草野昌一が「バラが咲いた」の原盤を制作したことをきっかけに、
昭和42年、「小指の思い出」をその方針で売り出した。
また、当時著作権というものに対する認識が低かった日本では、
第三者が仕事のために日本全国のどこで演奏しようが、レコードを使用しようが、
作曲家や作詞家には著作権料は一銭も入らなかった。
そこでナベプロはコンペを通じて深い仲になった佐藤栄作を通じ、
昭和46年に著作権法を改正させ、第三者が使用する場合でも、著作権が認められるようになった。
結果、カラオケ等からも著作権料を徴収する事ができるようになり、
「小指の思い出」では100億以上の利益を上げた、とされる。
これは当時の業界では「革命的」な事だったらしく、
この「革命」をきっかけに、ナベプロは巨万の富を得ることとなったようだ。
周防郁雄とバーニングプロダクション(7)
メディアに大量露出させ、知名度を上げる、
という商法も元はナベプロが得意としていた。
自分たちで番組を制作し、自分の事務所のタレントを大勢登場させ、
知名度を上げるだけでなく、番組の制作料までも得る、というやり方だ。
ただし、このやり方は「電波を丸々買い取ってしまう」ようなやり方なわけで、
しかも、ナベプロの場合、その制作した番組がすごい人気が出てしまったものだから、
メディアに対する発言力が強まってしまい、
「メディアがナベプロに土下座しないといけない」ような関係になった、とされる。
これに反発したのは日テレで、番組の放映時間に関するナベプロのトラブルから、
日テレはナベプロのタレントを一掃、
他の事務所のタレントを使った番組を制作し、それを成功させた事で、
ナベプロの牙城を突き崩している。
バーニングの場合、メディアを使いタレントを売り込みはするが、
「制作」にまでは深入りせず、よって「電波買取」というようなやり方はとっていないようだ。
メディアの反発を恐れてのことだろうか?
周防郁雄とバーニングプロダクション(8)
芸能レポーターらに対する接待攻勢もナベプロと同じ。
接待し、自分らの味方につけることで、芸能マスコミを宣伝媒体として利用しようとした。
ナベプロの場合、そう言った人間を引き連れ、
銀座のバーやクラブを4、5件ハシゴしていたという。
味方につけるだけでなく、いろいろな情報を仕入れることも目的だったようだが。
それと、自分たちに逆らったタレントを潰すのも同じ。
ナベプロは森進一が独立しようとした時、
地方巡業を休みなく大量に入れ、森進一をつぶそうとしている。
また、伊東ゆかりが金銭トラブルから独立した際、
(父親とナベプロがケンカになり、強硬に独立させたらしい)
伊東が出演しようとする番組からナベプロは一斉にタレントを降板させ、
番組を成立できないようにした。
メディア側は伊東一人のために番組を潰すわけにはいかないから、
ナベプロに味方し、結果伊東は完全に干されてしまっている。
これは鈴木あみの状況と酷似している。
周防郁雄とバーニングプロダクション(9)
バーニングとナベプロとの類似点ばかりを指摘してきたが、
この両社には決定的な違いが一つある。
ナベプロは「一社独裁」の形を取ったのに対し、
バーニングは「系列化・グループ化」の形を取っているのだ。
これは、ナベプロが一社独裁の形、
即ち、社長渡邊晋を頂点にした独裁体制に反発する人間が、
ナベプロを離れ、おのおの独立プロダクションを経営するようになり、
(アミューズの大里洋吉などはその典型)
ナベプロが弱体化する大きな原因となったからだ。周防はこれを怖れたもの、と見られる。
周防の場合は「バーニングプロダクション」という本丸を中心に、各プロダクションを傘下に押えた。
ナベプロの場合、最高意思決定機関は社長渡邊晋であったが、
バーニングの場合、各タレントの売り方は、それぞれの事務所に任せ、
周防はそんな彼らのバックアップ役に回り、「政治的影響力」を駆使しているようだ。
「自分は裏方」と語る周防の姿勢はこういうところに現れているのではないだろうか?
そして、数多くの傘下のプロダクションを持つだけでなく、
UFAなど他の独立事務所とは自分が持つ政治力を背景に、
言わば「同盟関係」を結ぶことで、自身の影響力を維持してきていたようだ。
基本的にナベプロのやり方を踏襲しつつ、改善すべき点は改善し、
「見てろ、いつかお前らをひざまづかせてやる!」と怒鳴った男は、芸能界のドンと呼ばれるまでになったようだ。
「負けず嫌いの僕だから、人の倍努力し、人の倍誠意を尽くした」
とは音事協で出版された冊子での周防の発言。
この言葉に周防郁雄という男の全てが表れているような気がする。
周防郁雄とバーニングプロダクション(10)
では、この芸能界のドンは娘。とはどのような関係にある、というのか?
後藤真希の加入については電通と組んでこれに影響した、とされ、
市井紗耶香の脱退トラブルに際しては、UFAを手助けし、
そして、傘下の芸能プロダクションである「プロダクションオーロラ」に
娘。のプロモート権を委譲させた、とされる。
そう言えば市井紗耶香の復帰ライブでは堀内孝雄から
バーニングの河西部長が紹介されていたりもする。
ただし、市井紗耶香卒業の5.21のビデオにはオーロラの高木貴司の名前は見当たらない。
現在のチーフマネージャー常盤杉衛はオーロラの人間だ、とされるが。
一体どれだけの関係にあるのか、類推の域を出ないが、
個人的には、
「電通と結託して、後藤を卒業させたいために、ハロプロ改革を提案した」
というのは納得がいく。
例え最近、銃撃事件や脱税の摘発で周防が落ち目とは言え、
彼が芸能界での実力者である事に変わりはないわけで、
この方面からの「要望」があったならば、山崎らとしても嫌、とは言いづらいと思うからだ。
ともかく、UFAとどういう関係にあるかは諸説あり過ぎて、想像もつかないが、
大きな影を投げかけている事だけは間違いないのだろう。
周防郁雄とバーニングプロダクション(11)
あと最後に周防のエピソードをいくつか。
まず彼は下戸である。
飲み会ではいつも牛乳か烏龍茶を片手にしているのだという。
また、無名だった頃の島谷ひとみが、
関西テレビの島田紳助の番組の企画で、演歌を歌う事になった際、
周防は紳介あてに本番中に直接電話。
「島谷をよろしくお願いします」と挨拶し、紳介が直立不動になったというエピソ−ドもある。
内田有希の結婚式の際は、
周防は彼女の手をひき、バージンロードを一緒に歩いたらしい。
この人物に評価を下す事は難しいが、こういうエピソードもある、と言うことを知っておいて損はないと思う。
以上、長くなったが、周防郁雄とバーニングに関してまとめてみた。
>>386 >むしろ彼らが7・31の主導者だったんじゃないのか?
>であるならば、良いイメージなど持ちようもないが。
主導者が誰かはよく知らんが、いろいろ利権が絡んだ結果だったんじゃない?
400
>>399 いろいろ利権が絡んだ結果なら
>この2人を持ってしても7・31は防げなかったのか
という意見は成立しないし
すべてが利権で動いているわけでもないと思うがね。
裏事情がわからない以上、7・31の責任は
表面上は会長及び社長に帰結されるのは当然の流れだな。
>>401 それはあなたの言うとおりじゃないの。
大体利権がらみの裏事情があろうとなかろうと、
山崎らに責任なしってのはおかしいと思うしね。
>>402追加
ただ、山崎らにだけ責任押し付けるのは違うような気はするけどね。
7.31でも、その他娘。関係の見方でもそうなんだろうけど、
「裏事情」を含め、どういう風に自分の中で「物語」を組み立てているかによって意見は変わるんだろう。
最初の頃、ダメポスレで事務所叩きをしていた人は
「山崎らが全部決めてるから悪いんだ!」って思っての結果だろうし、
「山崎だけじゃない。実はバーや電通が云々」とか言う人は
ひそスレ見るなりして情報を仕入れて、そこから自分なりの結論を出した人だろうし。
このスレで言うと、
>>383は、
「7.31は山崎らは反対だったが、電通らの陰謀があったため」との見方をしている人のようで、
だから「この二人でも防げなかったのか?」って結論に達したんだろうし、
>>386は自分でも言ってるように、
「山崎や瀬戸たちが主導者だったんじゃないのか?」との見方をしているから、
「7.31を何から防ごうとしたのか? むしろ二人は主導者だったんじゃないのか?
だとしたら、何で良いイメージが持てるんだ」
という意見を出してる。
どっちが良い、悪いと言うのは真相を知りえないからわからないが、
ただ、この両者が討論しあっても、
根本的な見方が違うから決着がつかず、泥沼になるだけだろう。
電通(1)
1901年(明治34年)7月1日創業の「日本広告株式会社」が前身。
光永星郎が創業者。
しかし、この当時は広告代理店と言っても一人前の商売として認識されず、
新聞等の媒体の「寄生虫」のように見られており、
言わば「賎業」とでもいう扱いだった。
光永にとってこの広告代理業は金稼ぎの為の一手段であり、
最終目的は通信社の創設にあった。
「新聞社と広告主の共同的性格を持って、
一方で通信社を起こしてニュースを提供し、他方広告代理業として広告を供給する。
こうして、新聞社から受け取る通信料と新聞社に支払う広告量を相殺する方法を思い立った」
のがこの光永だった。
そして同年11月、日本広告株式会社に併設する形で「電報通信社」が設立され、
1906年(明治39年)10月、日露戦争で好景気となった時期に、
日本広告株式会社と電報通信社を合併。
通信と広告を一本化した「日本電報通信社」が設立された。
しかし、昭和11年、戦時体制を着々と整えつつあった日本では、
報道管制を敷くことを決定し、
それまで数多くあった通信社を国営の通信社に一本化。
社団法人同盟通信社が創設され、この時から電通は広告代理業専業の会社となった。
通信社の創設に力を入れていた光永はこれにはひどく落胆したようだが、
このとき、一人の男は精力的に動いた。
電通中興の祖であり、「広告の鬼」と呼ばれる吉田秀雄である。
電通(2)
昭和16年の太平洋戦争開戦後、厳しい統制政策が敷かれる中、
「賎業を正業に」と、広告業の実業化に燃えていた吉田は、
新聞の広告料金の公定価格の導入を商工省に働きかけ、広告料金の準公定価格の導入に成功。
これにより、定価取引・正札取引が可能となり、
それまでの「飲ませろ・抱かせろ・握らせろ」によっていかようにも変わった広告料金に大革命をもたらした。
また、広告代理店の統廃合が国策によって推進され、
それまで186社あった代理店が12社になったのだが、
この統廃合劇の裏側で暗躍したのも吉田だった。
統廃合は東京6社、大阪4社、名古屋・九州各1社の計12社になったが、
内訳は、
東京: 日本電報通信社・博報堂他4社
大阪: 大阪電報通信社・近畿広告社他2社
名古屋: 名古屋電報通信社
九州: 九州電報通信社
となっていて、電通だけが全ブロック残り、電通だけが全国制覇を果たした。
吉田のこのやり方には当然他の会社からの抗議も当然あったが、
戦時立法などの手助けもあって、吉田はお咎めなしに終わりこの体制は維持された。
戦時体制を電通の巨大化の為に吉田はフル活用したのだ。
事実、このとき築かれた基盤がのちの電通の巨大化の大きな礎となっている。
電通(3)
昭和20年8月15日終戦。
玉音放送を本社で聞きながら、当時常務だった吉田は「これからだ!」と叫んだという。
そして、昭和22年5月、当時の社長上田碩三(第3代社長)が公職追放により社長職から離れると、
吉田は晴れて電通の第4代社長に就任した。
ここからの吉田の働きは凄まじい。
旧軍人、軍属、旧満鉄関係者の幹部クラスの人間を含め、大量に採用し、
また、公職追放となった政治家や財界人、新聞人のために「旧友会」を結成、
その後、旧友会のために「ユニバーサル広告社」という会社までを設立している。
吉田は終戦後余ってしまった優秀な人材を確保する事で、
電通の近代化をはかろうとし、
また、幅広い人脈を築こうとしたのだ。
そして、「新体制」と幅広い人脈を背景に吉田は、一大プロジェクトを始動する。
民間放送の実現を目指したのである。
電通(4)
昭和20年9月25日、内閣はGHQの意向を受け、
「日本放送協会のほかに、新放送会社の設立を認可する」と決定。
「新放送会社は広告料金によって運営する」とし、
東京商工会議所会頭藤山愛一郎や船田中ら財界人が中心になって、
新放送会社設立の為のプロジェクトを始動、
「広告収入でまかなうと言ってもどうしたらいいのか?」
と、新会社のあり方のノウハウがわからない彼らは、吉田を助っ人として呼んだ。
吉田はこのとき、読売、朝日、毎日、日経などの新聞社にも協力を要請しているが、
彼らは自分たちの会社の建て直しに必死で、新放送には全くの興味を示さなかった。
さらには、昭和22年の公職追放により、藤山や船田が追放されると、
財界では途端にこのプロジェクトに対する熱が冷めてしまい、吉田一人が完全に孤立してしまっていた。
電通(5)
しかし、新体制と幅広い人脈を背景に、吉田は民間放送実現の為孤軍奮闘する。
特に、旧満州の人脈が活躍をしたようで、ここから、GHQに対し独自のパイプを築き、
また、日本政府、特に電波関係の行政に強い政治家らとも吉田は度々会談し、
新放送会社設立の為の工作をしている。
そして吉田らの働きの甲斐もあって、新放送会社がいよいよ実現しそうになると、
それまで無関心だった新聞社が「自分の所で」と主導権争いを始めたが、吉田はこれを調停。
そして朝日、毎日、読売、電通四社合併の形で「ラジオ東京」を設立した。
これが日本最初の民間放送である。
吉田はこの後もこのラジオ放送には力を入れ、数多くのラジオ会社に経営参加し、
当時800万台普及していたラジオを広告媒体として利用する事に成功したのだった。
ちなみに、テレビへの参加は、
吉田が当時まだテレビの可能性に懐疑的であったため、若干遅れたが、
それでもテレビが爆発的に普及していくと早速テレビにも参加していっている。
電通(6)
ラジオを成功させたことにより、
言わば、戦後日本のメディアと広告システムを作り上げた電通は、以後急成長していく。
そして昭和37年には日本の総広告の4分の1を電通が占めるようになり、
電通の地位は不動のものとなった。
電通はこの間、「マスコミ懇談会」を設立、
主要なマスコミと財界の人間が対話する場を設け、電通はその主催者となり、
反安保を唱えた朝日系列のメディアには圧力を加えたとされる。
また、時の総理池田勇人との関係を吉田は密にし、
吉田は「電通が影の情報省になる」ことをめざし動いたとされる。
しかし、昭和38年、吉田はガンの為59歳で死去している。
電通(7)
しかし、吉田の死後も電通の勢いは衰える事はなかった。
第5代社長日比野恒次は集団指導体制を敷き、
東京五輪、大阪万博等の巨大プロジェクトを成功させ、
また、その後を継いだ中畑義愛の時には、電通は取扱高で単独世界一となり、
これは今なお変わっていない。
(グループでみると第4位)
そして、1985年(昭和60年)に第8代社長に就任した木暮剛平の時代には、
前社長田丸秀治が目標としていた「売上高1兆円」を達成している。
この働きが大きいのか、木暮は1993年(平成5年)電通初の会長に選出されている。
木暮は第9代社長成田豊との2トップ体制を敷き、
歴代トップの中では、吉田秀雄に次ぐ12年の長期政権を維持(吉田は16年)した。
97年(平成9年)に木暮は相談役に身を引いているが、
しかし、電通新社屋の起工式にも姿を現しているし、
また、日本広告業協会(広告会社の社団法人)の会長として、
理事長成田の上にまだ現役として君臨している。(平成14年度)
さらにいうと、電通の歴代社長は皆勲章を受章しているが、
吉田秀雄をはじめ皆が勲二等瑞宝章ないしは勲二等旭日重光賞の受賞だったのに対し、
木暮はそれより上位の勲一等瑞宝章を受章。
これは成田らの官邸サイドへの働きが大きいともされるが、
ともかく、吉田を凌ぐ「勲一等に値する」とされ、また歴代初の会長に選出されるなど、
特別ずくめの木暮剛平とは一体いかなる人物だったのか、興味を抱かせることと思う。
電通(8)
電通の歴史を長く書いたが、
電通は戦時体制、戦後GHQとの深い係わり合いから、
「戦後日本の民放を作り上げ、広告システムを築き上げた」ということがわかる。
そのためか、この電通の持つ影響力というものはきわめて大きいと言う。
ゴールデンタイムの広告の大半を電通は押えていて、
「築地編成局」とあだ名され(当時の本社が築地だった)、
「メディアの真の編成権は電通にある」とされ、
そのために広告収入に頼るメディアからはタブー視されると言い、
広告主でも電通に対しては一目置く、ともされる。
また、最近では小泉総理のメディア戦略には電通が関与しているともされている。
事実政府広報が大半を電通が押えているそうだ。
他にも電通が社内に非公式ながら、「中国研究会」なる組織を発足させ、
田中角栄が日中国交を回復する前にそのことをこの研究会がつかんでいた、とか、
右翼と、とある企業のトラブルに電通が仲介・調停した、など
きな臭い匂いをぷんぷんさせているのだが、その実態は全くわからない。
さらに言うと、
地方局の社長や役員には電通出身の人間が多く「天下りさせている」と言われ、
また、有名企業社長の御曹司やメディアトップの親戚等を自社に引き入れるなどして幅広いネットワークを構築、
それを背景に今なお強い影響力を維持しているのだともされる。
とにかく諸説言われるが、
戦後の広告システムを電通が築き上げた経緯から判断しても、
メディアに対し極めて大きな影響力を持っている事は間違いないと思う。
電通(9)
では、芸能関係ではどうか。
かつてはナベプロとの親交が深かった。
広告に生かせる駒を生み出してくれる大事なお得意様だからだ。
社長渡邊晋は一回電通で講演をしたこともある。
現在はバーニングとの関係が濃密とされ、
郷ひろみの路上ゲリラライブを敢行した際は、警察ざたになった。
娘。関係では、娘。の結成当初から影響力を持っていたとされ、
後藤真希の加入に際しては、平尾正晃ミュジックスクールにいた後藤を引き抜いたと言う。
7.31では、後藤ソロを実施する為に、大改革を山崎らに提案、実行させたともされる。
もっとも、これは噂の域を出ないので判断の仕様がない。
ただ、一つ個人的に思うことは、この会社の歴史や規模から考えると、
バーニングやUFA、娘。を利用する事はあっても、心中することはないと思う。
彼らがダメになったら電通は新しい金のなる木を探せばいいだけのことで、
言い方は悪いが電通にとって娘。もUFAもバーニングも皆、駒の一つに過ぎないだろう。
メディアを押え、政財界に幅広いネットワークを持ち、闇社会ともただならぬつながりを持っていそうな会社だ。
規模があまりにも違いすぎる。
その証拠にサンデー毎日はバーニングの特集記事を連載した事があるが、
このとき電通のことについてはほとんど触れていない。
娘。を非難する記事を書く文藝春秋が電通のことを取り上げているのも見たことがない。
電通(10)
とにかく謎が多い会社で、現状に付いては自分は何とも言えない。
ただ、過去の歴史から、この会社の持つ影響力を考慮し、
娘。においてもどのような働きをしているのか想像してもらうのがいいと思う。
今回はこれにて終了。
なんか電通とバーについてはカナーリ長文になってしまった。
面白くなかったら申し訳ない。
ただ、こう言った勢力が娘。と関係しているんだ、と考えた時、
山崎らのポジションは極めて微妙なものになるんじゃないか、と自分は思う。
だから、「7.31を電通らが山崎らに提案、了承させた」っていうのはしっくり来た。
もっともこれは、
>>404の言葉ではないが、
自分なりに物語を組み立てた結果だが。