そこは質素な部屋だった。
小さなベッドと、飾り気の無い机。
壁際には小箪笥が置かれ、その上で写真立てが埃をかぶっている。
「お前達はこの部屋で待て」
市井は手拭で剣に浮いた魔物の体液を拭いながら言った。
先程のホールを通るルートは使えない。
ここまで退却した事で、真里達との差は開いている。
一刻も早く合流するには、自分一人でさらなる別ルートを駆けるしかなかった。
「ここならば万一魔物が来たとしても扉だけ守ればいい。あたしが迎えに来るまで
絶対にここを動くな。二人を、頼んだ」
最後の一言は傷ついた兵士に向け、市井は剣を鞘に収めると、扉を開き出て行った。
残された三人は扉に鍵をかけると、緊張から開放されたように絨毯の敷かれた床に
へたり込んだ。
「市井さん……」
加護は心配そうに市井の出て行った扉を見つめながら、朦朧としたままの辻の手を
そっと握り締めた。
ヒュオッ!
鋭く大気を引き裂き振り下ろされた大鎌を、真里は紙一重でかわす。
そのまま体をひねって石川の顔面に蹴りを放つが、すでにそこに石川の姿は無い。
石川は鎌を振り下ろしざまに真里の横に周りこんで第二撃を放とうとしていた。
そのスキを兵士の剣が捉える。
ギィンッッ!
が、素早くその気配を察知し、勢い良く引き戻した石川の鎌が、剣とぶつかり鈍い
金属音を響かせる。
「邪魔よっ!!」
標的を真里から兵士に変えた石川の体がふわりと宙に舞う。
と同時に鎌の先端が煌く。
「っ!」
一閃。
壁に灯った蝋燭の光が反射し、一筋の線が見えたかと思うと、兵士の右腕が肩口から
切り跳ばされた。
「ぁあああぁぁ――――っ!!」
激しく血を吹く肩口を押さえ叫ぶ兵士。
だがその時すでにその頭上には石川の鎌が迫っていた。
ザヴァッ!
「――っ!」
藁束を切り裂いたような音と共に、兵士の絶叫がかき消される。
ぐらり。
縦に真っ二つに割られた死体が、支える力を失って崩れ落ち、その血と臓物を
周囲に撒き散らした。
「うっ!」
それを見てなつみは胃から逆流しそうになる物に耐える様に口を抑えると、
目をそむけた。
まさに一瞬の出来事だった。
なつみが癒しの力を使う間も無く、その命は失われた。
天使の力は万能ではない。
傷ついた者を癒す事はできても、失われた生命を再び呼び戻す事はできない。
もっとも、石川もその事を知っていたからこそ、なつみに介入する隙を与えぬ様、
止めをさしたのだろうが。
「……まず一人」
何時の間にか兵士の死体から距離を置いた所にいた石川が、微笑みながら呟いた。
その様子に戦慄を覚えながら、真里はゴクリと唾を呑み込んだ。
――強い。
解りきっていた事ながら、真里は改めてその事を思い知らされていた。
同時に二人を相手にしながら、尚且つこちらに反撃の隙も与えぬ間に、一人を
絶命させる。
その恐るべき反射速度と戦闘能力は、まさに魔と呼ぶに相応しい。
(……格が違いすぎる……)
余裕の表れからか、鎌を軽々と振り回しこちらをニヤニヤと眺めている石川を
睨みながら、真里は心の中で舌打ちした。
真里とて多少の体術は会得している。
魔術師にとって、戦いにおいて最大のネックとなる物の一つに、呪文の詠唱時間の
長さが上げられる。
体内の魔力のみで発動する、詠唱無しの魔術もあるが、それでは多少魔術への耐性を
持つ者にはたいしたダメージは期待できない。
そこで魔術師は、動きを鈍らせる程度に相手を痛めつける為、体術を駆使する事になる。
詠唱無しの魔術、体術、そして詠唱魔術。
この三つを使い分けるのが、魔術師の戦闘方法である。
だが、真里が帝国の魔術師団の頂点に立った存在とはいえ、相手は、石川は戦闘の、
殺戮の専門家というべき魔人である。
当然真里の、常人からすれば脅威となるその体術も、石川から見れば遊戯に等しい。
真里本来の実力とも言うべき魔術を使う隙を見出せない限り、勝ち目は無いだろう。
その為に前線で敵を食い止める肉弾戦のエキスパート、剣士や騎士が、市井がこの場に
いないのが悔やまれる。
(なんとか……石川の動きを止める方法はないか……)
ゆっくりと、畏怖すら覚える美しい微笑を絶やさぬまま、石川が間合いをつめてくる。
「ふふ……打つ手無し、ですかねー。なら……」
膨れ上がり、鋭く身を引き裂く刃のような殺意。
魔界の殺戮自動人形が、獲物を狙う狩人の様にすっと目を細めた。
通路を自分の駆けぬける足音が甲高く響く。
(! 見えた!)
市井の視線の先に、上へ続く階段が見えてきた。
魔物達のひしめくホールを避けた為、随分と遠回りになってしまったが、目前に迫った
階段を昇り角を曲がれば、謁見の間へ続く通路に出るはずである。
市井の足が更に加速する。
そのまま一気に階段を駆け上がり、躍り場を織り返し――その足が止まった。
「おいおい。せっかく君の為にホールに魔物達を用意しておいてあげたのに、戦わずに
別ルートを来るなんて反則だよ」
おどけたように肩をすくめる影が、階段の終わりを塞ぐ様に立っていた。
「……はっ、悪いけど、あたし達はやる事があってわざわざここまで来たの。あんたの
お遊びにつきあってる暇ないんだよね」
「ふふ、そう言うなよ。あの時言ったろ? 帝国で待ってる、って」
階段の上から市井を見下ろし、影が、吉澤が笑った。
「……ここは狭いな。君もこんなところで死ぬのは本望ではないだろう?」
吉澤が腕を振るう。
ゴッ!
風が、闇の圧力が大気を震わせる。
「っ!」
どっ、と市井の体が踊り場の壁に激突する。
闇の圧力はそのまま市井ごと壁を押し潰すかのように迫り、壁が音を立ててひび割れる。
ガゴォッ!
壁が破裂するように外に崩れ落ちた。
「!」
一瞬の浮遊感と共に市井の体も城外に弾かれた。
落ちる――!
市井がそう思った次の瞬間、市井の下には地面があった。
いや、そこは屋上だった。
中二階程度の高さの、城から突き出したテラスのような場所。
紫色の空を仰ぎ、市井は体を起こす。
強い風に闇色のマントをはためかせ、崩れた踊り場の穴から吉澤が出てくる。
「ふむ。ここもさして広いとも言えないが、剣を振るう隙間もない階段よりは全然マシだろう?」
「……わざわざどうも」
市井は憮然とした表情で吐き捨てた。
吉澤を警戒しながら、素早く周囲に目を走らせる。
二十メートル四方程度の、石造りの屋上。
当然柵など無く、高さは十四、五メートルといったところか。
落ちても運が良ければ死にはしないが、逃げ道にはならないだろう。
つまり――。
「結局あんたを倒さなきゃ、先には行けないってわけね」
市井が剣を抜く。
「そうだね。でも、それも不可能だよ」
それを見て、吉澤が嬉しそうにマントから両腕を出し、構える。
「君は今から私に殺されるのだから、ね」