里沙は頭の中で、圭織に出会った時に聞くべき事と、言うべき事を整理していた。
今回はここから逃げ出す計画までは、練っている時間がないだろう。
里沙の記憶は曖昧な状態で、外へ通じる道が思い出せない。或いは、はじめから知らないのかもしれないが。それに関しては、今後、ムロイに協力してもらうしかない。
まずはお互いの無事を確認すること。
それが一番重要なことだ。
しかし、ムロイはちゃんとメモを渡してくれただろうか……
本人に渡す意思があっても、何者かに邪魔される可能性もある。それ以前に、ムロイが必ずしも協力者になってくれるとは限らない。
これは賭けだ。
ムロイが協力するか、メモを渡すか、天使像の前に圭織が来るのか。
かなり分の悪い賭けだが、それでもそれに賭けるしか、里沙に、里沙達に残されている手段はない。少なくとも、里沙自身はそう考える。
急がないといけない。
自分たちには──
(!)
頭のてっぺんを突き上げてくる感覚に、里沙は思考を中断された。
(こんな時に!)
脳の奥から、自分のものではないもの広がってくる。
それに意識が支配されていく。
里沙はまだ、自分が自分であれるうちに、行動を起こした。
それは、紙よりも薄い願いだったが、それでも、そこに賭けるしかなかった。
自分たちには、時間がない。
目覚めた時、真里の目に映ったのは自分の病室の天井だった。
ただ寝ていたのかもしれないし、或いは里沙に交代していたのかもしれない。
それははっきりとは分からないけれど、ぼんやりとした不安が、どういうわけか頭の中に幕を張っている。
得体の知れない不安に胸を抑えようとして手を意識すると、そこに握られていたものに気づく。
一枚の紙片。
薄っぺらな紙を、くしゃくしゃに握りつぶしていた。
知らない場所で目覚める事には慣れてしまったが、こんなことは初めてだった。
その紙を見つめて、10秒は固まってしまう。
(とにかく、見てみよう)
そうしないと、始まらないだろう。なにが始まるのかは知らないけれど。
くしゃくしゃの紙を丁寧に、花占いでもするような手つきで開くと、そこには、何か書かれているようだった。
消灯時間が過ぎているので電気を点けることはできず、磨りガラス越しの月明かりを当てて目を凝らす。
──こんや0じ てんしぞう
書いた人間は急いでいたのか、それだけが殴り書きされていた。
(てんしぞう……天使像? って言うと、あの匣庭の……?)
それしか思いつかない。
そして、これを書いた人間と言えば、自分の(なつみの)中にいるというもう一人の人
物、新垣理沙しか思い浮かばない。
となれば、これは里沙からのメッセージではないか……
天使像がなんなのかは分からないけれど、何かを伝えたがっている雰囲気は充分すぎる
ほど感じ取れる。
(何かが、あるんだ……)
なぜそう思うのかは分からない。
けれど、自分はそこに行かなければ行かないような気がする。気がしてならない。
それは漠然とした靄のような感覚で、しかし強烈に真里の心を突き動かす。まるで頭の
内側からそうしろと訴えられているようだ。
「よしっ」
紙片は折りたたんで、入院着の胸ポケットに入れる。
スリッパを履こうとして、
「痛っ」
何かを踏む。
足元を見るとボールペンが転がっていた。それを拾い上げて、改めてスリッパを履く。
そろりと音を立てないように戸を開けて、廊下を窺う。
誰もいないか、歩いてくる気配がないか確かめて、抜き足差し足で病室を抜け出る。
耳を澄ましても、人の声や足音なんかは聞こえない。
2・3歩進んで、ペタペタいう音が気になって立ち止まり、警戒しながら音の発生源で
あるスリッパを脱いで、靴下で歩き出す。
曲がり角では、壁に背中をつけて覗き見る。映画のワンシーンにありそうだ、と思い浮
かべて、苦笑する。
曲がり角の向こうにはナースステーションがある。
暗闇の中、そこだけは煌々と明かりが点いており、どこか異世界じみた雰囲気さえ漂わ
せている。
そこさえ抜ければ匣庭まで楽に行けるのだが、そう簡単には通ればいだろうと予測して
いた。
だから、真里は自分が見たものを、一瞬、信じることができなかった。
ナースステーションの中には、誰一人、いなかったのだ。
からっぽのナースステーションは不気味だったが、そんなことを疑問に思っている余裕
はない。
いつ戻ってくるのか分からないから、一気に走り抜ける。
だから真里は気づかなかった。
その奥にいるムロイが、不安げに真里を見送ったことには──
いかに人の手が加えられているとはいえ、明かりが月光しかない匣庭は、暗闇よりも質
の悪い、恐怖を孕んでいる。
真里はごくりと喉を鳴らして唾を飲む。
奥歯が鳴るのを抑えられない。
けれど、それでも真里は、月光が作り出す木々の陰に隠れるようにしながら、匣庭の奥
へ奥へ、天使像に向かって歩き出した。
体の内側から来る寒気に、膝を震えさせて、それでも歩く。
木々の陰が切れる。
その先に、水の止められた噴水の台座の上に、月明かりをまとって青白く輝く天使が、
まるで従者を従えるように立っていた。
従者……
そう、そこには、本来あるべきではない影が、あった。
長い髪が月明かりをすくうように光り、手足の長いシルエットが、真里の足元に伸びて
いる。
思わず息を飲む。
悲鳴をあげそうになるのを、必死で飲み込む。
膝が震えて体を支えていられない。
体から力が抜ける。
カツーン、乾いた音が匣庭に響いた。
心臓が凍りつくかと思えるくらい、その音が真里の聴覚を蹂躙する。
足元を見ると、ボールペンが落ちていた。
病室から持ってきてしまっていた、あのボールペンだ。
混乱した真里はどうしていいか分からず、ボールペンを拾おうと手を伸ばす。こんなこ
とやってる場合じゃないのに、と頭の奥では分かっているのに、体の方にその指示が行き
渡らない。
「安倍さん……」
従者が、影が、懐かしい響きで、相応しくない言葉を発する。
真里が顔を上げると、影は、いや、彼女は丸くした目でこちらを見ていた。
「安倍さん、じゃなくて、里沙ちゃん?」
おかしい。
何かがおかしい。
いや、何かなんて言い方は正しくない。
何がおかしいのか分かっているのだから。
拾ったボールペンを握り潰しそうなほど、拳が強く、きつく結ばれていく。
「何……なんで? どういうこと……?」
おかしいのは、きっと自分の頭の方だ。
そんなわけがない。
そんなこと、でも、どうして……
「なんで、圭織がいるの……?」
もう何年も出会っていないような、懐かしい人物が、見慣れぬ表情で、そこに立ってい
る。
事故で助かったのは自分だけ、なつみだけだと聞いた。
では、目の前にいる彼女は何だ。
その上、なつみの姿を見て、なぜ『安倍さん』なんて呼ぶんだろう。
圭織だったらそんな呼び方しないのに。
「里沙ちゃん、じゃない、の?」
その声は震えていて、何度も途切れながら、それでも真里の耳に届いた。
「圭織は、だって、あれ? 私……ってゆうか、なっちしか助からなくって、それで、人
格が私で、おマメとかもいて、加護と辻が、待ってて……あれ? え、何……?」
ぐるぐると頭の中で、虫の大群がでたらめに蠢いているように、思考の向かう先が、一
つにまとまらない。
今見てることが、夢なのか現実なのか、それとも幻覚なのか、判断がつかない。
「ど、どうしたんですか?」
彼女が心配そうに手を伸ばす。
それに触れないように一歩下がった。
不思議そうに見つめる目は、彼女のものでありながら、違う誰かのものだった。
(まさか……いや、でも……)
そう考えるべきなのだろうか。
それが正しいと言うのか……
混乱しきっている頭の中が導き出したものだ。
筋道なんて通ってなくて、根拠なんてなくても当然だ。
開き直りか、思考の暴走か、真里が思いついたそれは、それこそが、彼女の的を射てい
た。
「か、圭織、じゃないの? ひょっとして、誰か別の……」
彼女はその言葉に、身を硬くした。
「……わ、わた、し、小川、です。小川麻琴です」
目が眩む。
世界がたわむ。
この状況を、この事実を受け入れろと言うのか。
いったい誰が、こんなことを。
もしも神様がいるのだとして、こんな運命を用意していたのだとしたら、きっと、とて
つもなく底意地が悪いに違いない。
「小川……そう、なの、そうか。オイラ、矢口だよ。なっちでもおマメでもなくて、矢口
真里」
「や、ぐち、さん……?」
圭織の唇から、圭織の声で、圭織のものではない言葉が生まれる。
麻琴は何をすればいいのか分からなくなってしまった。
もともと、里沙に会うために、あさ美の代わりをしただけなのだ。
こんな状況になっているなんて考えもしなかった。
理沙に会うまでは、と支えてきた心が、グラグラと揺らいでいる。
必死で堪えてはいるが、今にも崩れそうになっている。
泣き出しそうな麻琴の(圭織の)顔を見ていると、何かを言わないといけないような気
にさせられるのだが、真里の口はパクパクと開閉するだけで、麻琴にかけてやれる言葉な
んて、何も出てこない。
言葉をかけてやろうにも、自分だって、こんな状況に混乱しているのだ。
ば良いというのだろう。
死んだと思っていた圭織が生きていると知って、その中にいるのが麻琴だと知って、そ
れで、どうすれば良い。
「どうしろってのよ……」
答えてくれる者はない。
唇を噛む。
俯くと、滲んでいた涙が、足元にポツリと落ちた。
「矢口」
ふと麻琴が、真里の名を呼ぶ。
いや、違う。
麻琴じゃない。
麻琴とは違う。
この声は。
「圭織……?」
躊躇いがちに呟いて、顔を上げる。
そこには、
「矢口って意外と泣き虫だよね」
いつもの顔で、
「元気だった?」
いつもの笑顔で、
「ほら、いつまでも泣いてないの」
彼女が、飯田圭織が、そこにいた。
(0^〜^)「ねえ、梨華ちゃん」
( ^▽^)「何、よっすぃー?」
(0^〜^)「うちら、本当に登場の予定ないみたいじゃない?」
(;^▽^)「そ、そんなことないって! 信じて待ちましょう!」
(;0^〜^)「この作者、うちらの事8割くらい忘れてるって」
(;^▽^)「そう言われると……」
(;●´ー`)「セリフあっただけマシでしょ! 私なんて、私なんて……」
( ´D`)「寝てるだけって楽れすね」
(;●´ー`)「のの……」
(;0^〜^);^▽^)「……」
次回『カウントダウン』