ビルの壁面に設置された大型ビジョンに、モーニング娘。たちが映し出されている。
私は思わず足を止め、それを見上げた。どうやら新曲のPVらしい。
駅前の広場は人で溢れており、足早に歩くサラリーマンたちや、待ち合わせをしている
らしい女の子、タイルを敷かれた広場に座り込んで笑っている男の子たち、そして、私み
たいに画面を見上げる人たち。
別行動を取っている彼女が来るまでの間、私は画面をぼんやりと見ていた。
切ない詞と曲は、娘。っぽくないと言えるかもしれないけれど、昔の娘。をちょっとだ
け思い出す。ほんの少しだけ。
私は泣きそうになった。
あそこにいる私たちは、ここにいる私たちのことなんて知らないだろう、と考えると、
悲しくて、寂しくて、胸が苦しくなった。
それまで繋いでいた手が離れて、親とはぐれてしまった子供みたいに、世界中の誰から
も忘れ去られたような気になる。
「お待たせ、矢口」
「圭織……」
誰が忘れても、彼女だけは、私のことを忘れないだろう。
私はそれでいいと思う。
彼女さえ、私を忘れなければ。
「遅いぞぉ。何やってたんだよー」
湿っぽくなった気持ちを振り払って、私はそんなふうにおどける。
約束の時間にはなっていないが、早く着いてしまった私としては、ずいぶんと待たされ
た気になっている。
私が責めると彼女は、特徴的な唇を尖らせて、
「しかたないでしょ。飯田さんですよねー、とか言って絡まれたんだから」
子供っぽく言った。
それは仕方ない。
なにしろ、少なくとも生物学上というか遺伝子的には、私たちは本人なんだから。
そう言われると文句は言えない。
というか、はじめから約束の時間には遅れていないんだから、私に文句を言う筋合いは
無い。圭織はそれに気づいてないみたいだけど。
「あー、そっかー」
圭織が不意に呟いた。
画面を見上げている。
「新曲、出たんだね」
画面に流される新曲のPVを発見して、圭織は何処か寂しそうだった。
私と同じ気持ちになったのかもしれない。
「ねえ、圭織……」
「ん?」
画面も見ずに、私は足元に目線を落とした。
とてもじゃないけれど、見ていられない。
「うちらって、誰なんだろ……」
たぶんそれは、
言ってはいけない言葉。
聞いてはいけない現実。
抱いてはいけない疑問。
自分が誰なのか、画面に映る彼女らに問うても、答えは返ってこないかもしれない。
けれど、同じ『答えられない』でも、彼女らと私たちとでは違うものだ。
はじめから『自分』として生まれた彼女ら。
はじめから『偽者』として生まれた私たち。
私たちは、
いったい、
ダレナノ──
「うちらはうちらだよ」
圭織が、笑う。
でも、その笑顔は、圭ちゃんのようでもあり、よっすぃーや梨華ちゃんにも似ていて、
高橋と小川、紺野の笑顔にも見えた。
圭織は多分、『そういう個人』になったんだろう。
圭織の中にいるみんなが、初めから一つの人格だったような、そんな一個の人格を得た
のかもしれない。
だけど、私は──
涙が零れそうになって、空を見上げる。
夜空には、星が浮かんでいた。
都会には星が無い、なんて言葉を良く聞くけれど、そんなのは、見ようとしない人の都
合だ。
星は、ちゃんと見えている。
「死んだ人は星になるって、聞いたことない?」
私は街の光に負けまいと輝く、夜空の星たちを見上げたまま、言った。
圭織も空を見上げて、頷く。
「うん。空から生きてる私たちを見守ってくれてるって」
「ねえ、圭織。オイラには、星になれる『魂』があるのかな……」
あの星に、私はなれるんだろうか。
圭織たちを見守っていけるんだろうか。
不意に、手に感じるぬくもり。
太陽に当てたみたいに、暖かい。
圭織の手が、私の手を包んでいた。
微笑む。
圭織が。
私が。
この手のぬくもりだけが、
この手のぬくもりさえあれば、
それだけで、いい。
もう、いいよ。
私はもう、大丈夫だから。
意識の底から、白い光が広がってくる。
大丈夫、もう、大丈夫。
私はきっと。
あの星になれるから。
あの星になっても、私はみんなと一緒にいられるから──
ゆらゆら。
ゆらゆら。
揺れている。
揺れてる?
「矢口……」
誰かが呼んでる。
聞き覚えがある声。誰だっけ?
「矢口ってば!」
うるさいなぁ……
「矢口、起きろっ!」
「うわっ!」
耳元で叫ばれて、ついにオイラは目を覚ました。
目の前には、なっちの顔がある。
ほっぺたをつついてやりたい。
「やっと起きた。ほら、着いたよ」
「え? 何が?」
はあ、と盛大に溜息をつかれた。
周囲を見回すと、どうやらバスの中らしかった。
「何が、じゃないでしょ、会場に着いたって言ってんの!」
そう言われても、オイラの頭の中には、薄い幕でも張っているように、いまいち状況を
把握できていない。
「会場……って、なんの?」
「はあっ!?」
はあって、そんな驚かなくても良いじゃん。
「圭ちゃん、聞いてー」
なっちは振り返って、降りる準備をしていたらしい圭ちゃんを呼んだ。
なんで圭ちゃんに話振るんだ?
「なに?」
「会場に着いたよーって起こしてあげたら、何の会場? だって」
「ええーっ」
圭ちゃんまで、ナニヨ。
「あんた、私の卒業コンサートでしょうが! 忘れんなよ」
「え? あ……あー、えぇと。あ、うん、そうそう。知ってる知ってる」
「知ってるとか言うなよ、他人事みたいに」
圭ちゃんは頬を膨らました。
全然、かわいくない。
けれど、オイラはようやく頭がすっきりしてきた。
そうだった。
埼玉スーパーアリーナだ。
圭ちゃん卒業の日だった。
「ごめん、ちょっと変な夢見てた」
「変な夢? どんな?」
なっちが興味津々って感じで聞いてきた。
「ん〜とね……忘れちゃった」
「なんだよっ! 忘れんなよっ!」
「そんなこと言ったってさぁ……まあ、いいじゃん」
夢を見ていた感覚はあるんだけど、内容がさっぱり思い出せない。
なっちは圭ちゃんと一緒に、ぶつぶつと文句を言いながら降りていった。
てゆうか、なんで人が見てた夢のこと、そんなに気にしてんだよ。
オイラは立ち上がって、体を伸ばす。
座ったまま寝てたせいか、あちこちが痛い。
荷物を肩にかけてバスを降りる。
ああ、ここで──
「圭ちゃん、卒業しちゃうんだね」
オイラは一人、呟いた。
圭ちゃん圭ちゃん──
終わってしまえば、あっという間だった。
うん。あっという間だった。
けれど、会場はまだ、終わった気にはなっていないらしく、いまだに圭ちゃんの名を呼
び続けている。
花束を持った圭ちゃんを、みんなが囲んでいて、オイラは少し離れたところから、それ
を見ていた。
今の、こんなぐちゃぐちゃの顔は見せられない。見せたくない。
何か言ってあげたいけど、何も思いつかない。
ただ、涙が溢れて、溢れて、止まらない。
タオルに顔を押し付けたオイラの肩に、ぽんと手を置いた圭織。
何も言わないけれど、泣きはらして赤くなった目で、笑ってくれた。
オイラを安心させてくれるような笑顔。
そんな顔をされたら、余計に泣いてしまう。
後輩やスタッフのいる前で、情けないくらい、恥ずかしいくらい、泣いた。
涙は止まらない。
「矢口」
圭ちゃんがオイラを呼んだ。
けど、顔を上げることもできない。
泣いたまま、タオルで顔を隠したまま、オイラは圭ちゃんの腕に抱かれた。
圭ちゃん、
がんばろう、なんて言ったけど、
おめでとう、なんて言ったけど、
やっぱり、一緒にいたいよ──
ずっと一緒に、
ずっと、ずうっと……
「卒業しちゃったね、圭ちゃん」
「そうだね……」
街角のショーウィンドウに映されたワイドショーで、圭ちゃんの卒業が流れていた。
私と圭織はそれを見て、溜息をつく。
私たちの記憶の中にも、圭ちゃんの卒業はあったけれど、それどころじゃなくて、現実
感がないというか、たぶんもう、私たちにとっては他人事なんだろう。
「じゃ、行こっか、圭織」
「そうだね」
私が手を差し出すと、圭織は一瞬、きょとん、とした顔でそれを見る。それから微笑ん
で、握り返した。
「私たちだけになっちゃったね……」
「うん、でも、みんな、ちゃんと見ててくれてるよ」
「そうだね。ずっと一緒だしね」
少し寂しく、切なく、微笑む。
圭織の手のぬくもりが、優しく伝わってくる。
「どこう行こうか」
「どこでもいいよ……」
私が笑うと、圭織も笑う。
笑顔を返してくれる人がいるから、私はまた笑える。
どんなに深い森の中で迷っても、何もない草原に立たされても。
子供みたいに繋いだ手を振っていると、楽しくなってきて走り出す。
「ちょ、ちょっと」
いきなり走り出したものだから、圭織は躓きながら、文句を言う。
あの日、研究所から逃げ出す時にフクヤマが言っていたことを、私は思い出す。
私は一つになって、私たちは2人になって、この世界で、たった2人の私たちは、それ
でも生きてる。
私は他の誰でもない私だし、圭織も圭織以外の誰かじゃない。
もう、彼女らのコピーじゃない。
私たちは、私たちになった。
笑いながら、私は、私たちは街の人ごみの中にまぎれていった。
「そうだ、君たちはたぶん、元々の体の持ち主の人格に統合されてるだろうよ。それも、
そんなに遠いことじゃない」
「待ってよ、なっちー!」
「待たなーい!」
ああ きのうを 許せるように
ああ あしたを 愛せるように
cocco『星の生まれる日。』より