【T・E・N】 第112話 安倍と矢口
“現在おかけになった衛星通信は受信者側が電源を切っているか、地下などの
電波が届かない場所にいる可能性があります。留守番電話サービスにお繋げ
致しますので・・・”
受話器の向こう側から無機質なテープ案内による女の声が流れる。
矢口は留守録の「ピー」という音が鳴る前に慌てて居間にある階段脇の受話
器を置いた。そう、いかにも上品と悪趣味が同居しているような金色の装飾の
ついた白い派手なデザインの電話。まあこの古い屋敷の雰囲気に合っていると
いえば合っているのだが、初めて見たときは矢口は思わず失笑してしまった。
「やっぱり繋がんない」
矢口は自分の携帯電話(安倍の電話番号を調べる際にアドレスを検索するた
めに必要だった)をパーカーのポケットに仕舞いつつ、首を振る。傍らの階段
の上から不安そうな目で一連の動向を見守っていた安倍が、手すりに寄り掛か
る格好でついていた頬杖を外して踊り場から見下ろす。
上の遊戯室からは、誰が弾いているのか分からないピアノの音が漏れ伝わっ
てくる。もの悲しげな旋律。
あたかも、安倍の絶望に打ちひしがれたその状況を助長するようでもあった。
「うっそぉ〜、どーしよぉ」
「なっち、来るときの私の車の中に忘れてきたんじゃないの?」
ぶるぶる。
下唇を突き出しながら首を振る安倍。
「違うよう。この屋敷に来てから、いっぺん部屋の中で電話しようとしたもん。
そしたら、あのヤグっちゃんの叫び声がしてきて・・・」
「・・・(あの時か)」
矢口がこの屋敷に到着し客室(203号室)に篭って、過去と現在のギャッ
プに悶々と苦悩している時にあの「血まみれに染まった便器事件」に遭遇した。
騒ぎを聞きつけて部屋になだれ込んだ吉澤に、その一部始終を見られた。そ
れからしばらくして、廊下を挟んで向かいの部屋(202号室)にいる安倍も
様子をうかがいに来てくれた。安倍は下の居間にいる他のメンバーに釈明して
くれたりと、騒ぎが大きくならないように尽力してくれた。
あのフォローはかなり的確だったし、矢口は心の底から感謝している。
「あの時は、確かにバックの中に入れておいたのに・・・」
「ねえ、なっち。携帯だから常に持っていなくちゃダメだよ。どうせどっかに
置き忘れているとかじゃない?」
「あんなゴツイの持ち歩けないよ!」
確かに安倍の持っている衛星受発信の携帯電話は、小型化が極限まで進んだ
現在の一般に普及している携帯電話に比べるとかなり大きい。子供の頃遊んだ
トランシーバーのオモチャを連想させるぐらい“スタイリッシュ”というキー
ワードからかけ離れたシロモノだ。
ただ都会に住んでいる分には、普通の携帯電話の電波が届かない場所なんて
ケースあまり無く、もっぱら衛星携帯電話は世界各国を飛び回るビジネスユー
スのため、デザインはあまり重要視されていないだけなのかもしれないが。
「はぁ、まあそうだよね。おっきいもんね・・・あの携帯」
「あーどうしよう〜マネージャーさんから怒られる〜」
「そうそうなっち、最後に使ったとき電源切った?」
安倍が持ってきたはずの衛星対応の携帯電話が忽然と消えたと聞いて、まず
矢口が行動に移したことがその番号をかけてみるということだった。幸いにも、
この山奥にある洋館は携帯電話の電波が届かない割には、固定電話の回線は引
いてある。(ゆえにインターネットも可能らしい)
その電話から、安倍の衛星携帯電話にかけてみれば―――もし繋がれば呼び
出し音が鳴って、その在処が分かると思ったが、見事に肩すかしを喰らったと
いう結果に終わった。
「ううん、撮影中じゃあるまいし別にそんなことする必要ないもん」
「じゃあバッテリーが・・・」
「昨日充電したから少なくともあと3日ぐらいは持つはず・・・だよ」
「う〜ん・・・絶対なっちのお得意のボケだと思うんだけどなぁ。トイレに忘
れてきたとか」
「も〜違う! 違うよ!」
「とにかく探そう・・・もう一度なっちの部屋を隅々まで探せば見つかるかも
しんないよ」
「・・・と思ってさっきまで探していたんだけど無かったよ。
トイレとか、ベッドの下まで探したけれど見あたらなかったの!」
「じゃあ、どこかで落としたのかしんない。ホラ、よっすぃーとこの屋敷歩き
回ったじゃん」
「う、うん。でもあの時は確か持って出掛けた記憶無いんだけど・・・ってい
うか、ここに来てからバッグの中にずっと入れておいたはずなのに・・・」
「・・・そうなの?
それじゃあとにかく私も手伝うから、この屋敷の中でなっちが行ったところ
を探そうよ」
「・・・」
矢口は思い当たることはすべて言った。順を追って考えてみる。
矢口が運転しているときに、確かに安倍は衛星携帯電話を使ってパソコンで
メールチェックをしていた。矢口がゴッツイ携帯を見たのはそれが最後だった
が、携帯電話を持ってきたのは確かだ。屋敷についた。確か午後4時集合予定
だったが、遅れて実際には5時10〜15分前ぐらいになってしまったと記憶
している。特に寄り道もせずに自分の部屋へと向かった。
そして―――あの「事件」が起こった。
203号室に安倍と吉澤が駆けつける。結局原因は曖昧なまま部屋を替えて
もらうことにした。矢口は203号室の後始末をしたり(心細いので、紺野に
そばにいてもらった)、引っ越しのためにいろいろ動き回っていたような気が
する。安倍はその間吉澤を伴って裏庭などを散歩していた。
本人は携帯を部屋に置いてきたと言い張っているが、矢口はもしかしたらそ
の散歩の時に携帯を落としたのではないかと睨んでいる。
「じゃ、なっち。裏庭に行ってみる?」
「盗まれた」
「・・・?」
「盗んだんだ、誰かが」
やおら安倍は、重々しく口を開いた。
「なっ・・・」
「そうでなきゃ・・・それ以外考えられないんだもん」
「え・・・? あ・・・でもそんなことするなんて」
「誰? 誰だろ、ねえ」
安倍の鋭い視線が矢口に突き刺さる。
「き・・・決めつけることないじゃん、なっち。そんなことする人なんて今日
ココにいないよ! みんな仲間で―――」
「誰でも盗むチャンスはあったはずだよね」
「・・・!!」
―――まさか―――まさか、なっち私を疑っている?
誰か盗んだ、という発想は矢口には無かった。
だが、この屋敷の客室は内側から鍵を掛けられるものの、個室別の鍵を手渡
されているわけではない。テレビ局やコンサート会場の控え室とは違い、現在
この屋敷には気心の知れた仲間しかいないのだ。ゆえに中に人がいないときは、
誰でも他人の部屋に出入りできる状況ではある。
(・・・確かに状況だけ見れば―――なっちがよっすぃーと散歩していたとき、
夕食のとき、夕食が終わってなっちが皿洗いしているとき―――誰でも留守
の間になっちの部屋に入ろうと思えば入れたけど)
屋敷に来ているこの同窓会のメンバーの誰かが安倍の携帯を盗んだと仮定し
て、そういった行為自体ももちろん悲しいのだが、それより即座に「盗まれた」
と発想する彼女に矢口の背筋に冷たいものが走る。
かつては頭の中がお花畑のようだと安倍のことを形容した矢口。その色とり
どりの花は今でも咲いているのだろうか?
「あ、ありえない、よぉ」
矢口はしどろもどろになりながらも、必死に声を振り絞る。
確かに誰もがアイドルだった頃と比較して、現在置かれている状況はかなり
異なる。ある者は身体的にハンディキャップを背負い、またある者は一般人に
戻り、ある者は再び歌への夢を追いかけている―――そして、大きな挫折を味
わった者もいる。でもそんなバラバラの人生を送ってきたメンバーにとって、
最後の共通意識が「お互いを信頼する」ということではなかったのだろうか。
それさえも、その最後の砦さえも揺らいでしまったら、この同窓会に参加す
る意義は限りなくゼロに近づいてしまう―――そんな矢口の複雑な感情が絡み
合って、その場でただ安倍の強い眼差し受けとめることに精一杯だった。
―――とそこで矢口はふと、とあるメンバーの存在が脳裡をよぎった。
辻希美。
「オレ見たもん、ののを。今日。この屋敷で」
先程吉澤が晩餐会で宣言した。
あの時は逆上して自分を見失ったが、今ではこの同窓会に正式に参加してい
る以外のメンバーが屋敷に実は潜んでいる、という奇想天外な発想ももしかし
たら「あり」なのでは、と矢口は思った。
別に辻でなくてもいい。
それこそ座敷童子といった類の妖怪でもいい。
辻に似た、私たちの知らない誰かがイタズラをして、驚かせようとしている。
それだけのことであってほしいと思った。矢口がこの屋敷に来て自室で起こっ
た信じがたい出来事や、安倍の携帯電話がなぜか消え去ったこと。それが全て
第三者の仕業だとしたら。
自分らが認知していない“誰か”がこの屋敷のどこかにひっそりと息を潜め
ているという仮説は、客観的に考えるとかなり不気味だ。それでもかつてお互
いが最も信頼を寄せていた仲間同士が疑心暗鬼に陥るぐらいならば、テレビの
バラエティ番組のようにドッキリ企画で騙されたというオチが待っているほう
が、いくらか救われる。
とにかく安倍のその疑念だけは早急に消し去らねばならない、と矢口は思っ
た。
「あのね・・・その・・・とりあえずこの屋敷に詳しいはずの・・・あいぼん
と梨華ちゃんに相談しよ・・・ね? それからでも遅くはないと思う」
悲痛な告白により晩餐会を途中退席した加護と石川。
あれから1時間も経ってないが―――だから精神的に落ち着いているかどう
かも分からないが―――同窓会が始まる1週前から滞在し、この屋敷の構造に
一番詳しいのはこの2人に他ならない。彼女らにとりあえず相談して、今後の
展開を決めてみる。いや、それより今の安倍と二人きりでいるのが、いたたま
れなくなったというのが偽らざる矢口の今の心境だ。
今の安倍の視線を分散する。それが矢口の本当の狙いだ。
「でもアノ二人に相談したところで見つかるかなぁ、ケータイ」
「とりあえず・・・ね。行ってみよう」
有無をいさわず、矢口は1階東棟への扉へと走った。安倍が渋々でもついて
来てくれることを期待しつつ。
その進んだ先の101号室は、加護と石川の相部屋。二人に相談したところ
で、あまり決定的な解決には繋がらないであろうことは、矢口にも容易に想像
できた。それでも安倍と二人きりでいると、どんどん望まない方向へと傾いて
いくような気がしたのだ。
ああ見えて、しっかり者で器用な加護。彼女なら何とか現状を打破してくれ
るのでは。
だがその考えが甘かったことを、矢口は101号室の扉を開けた瞬間に知る
ことになる。
【112-安倍と矢口】END
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