「安倍さんっ!?」
不意に真里の耳に届く声。
目覚めた彼女が最初に見た看護婦、ウエハラだった。
(何? なに言ってんの? アベサンって何?)
ウエハラの口から出た、その言葉の意味が、いや、言葉そのものを理解することが出来なかった。
巡回の途中だったらしく、手にしていたライトを向けてくる。
光から逃げる小動物のように、真里は走り出す。
「安倍さん!!」
まただ。
また別の名前で真里を呼ぶ。
耳をふさぐ。
この世界の全ての音を聞きたくなかった。
逃げたい。
どこでもいい。
ここじゃないどこかへ行きたい。どこでもいいから、ここではない場所へ──
どこをどう走ったのか、気がついたら屋上に立っていた。
荒い息が、自分のものじゃないように聞こえて、また呼吸を乱す。
そんなわけはない。
(これはオイラの声だ。オイラの息だ。オイラの体だ。オイラの、オイラの、オイラの、
オイラの、オイラの──)
そんなわけはないはずだ。
(夢……そうだ、夢! そうに決まってるっ)
こんなことが現実であるわけがない。
いつの間にか流れていた涙が、まるで水をかぶったように頬を濡らしている。
春とは言え、冷たい夜風が頬から熱を奪っていく。
夜風は、思考に張り付いていた混乱と言う熱も奪っていってくれたようで、少しだけ、
思考を落ち着けさせてくれる。
「ここにいたのか……」
不意に背後から投げかけられた声に、真里は弾かれるようにして振り返った。
薄暗がりの屋上の扉あたりに立っているのは、タナベだった。
異常なほどに明るい月と星の明かりが、ゆっくりとその姿を浮かび上がらせる。
「来ないでっ!」
悲痛ささえ感じさせる拒絶の悲鳴は、タナベの足を止める。
立ち止まったタナベは、自分を落ち着かせるように深呼吸とも溜息ともつかない息を吐
き出し、
「落ち着いて、僕の話を聞いてくれないか?」
「聞きたくないっ!」
きっと聞きたくない話しかしてくれない。
自分にとって都合の悪い言葉しか並べられないような気がして、それを拒否する。
「頼む、この通りだ。話をさせてほしい」
頭を深く下げて、タナベは懇願するように、はっきりとした声で言った。
そこには真里を騙そうとか、言いくるめようとか言うものは感じられない。
「なんで、なんでオイラがなっちになってるの!?」
タナベはゆっくりと顔を上げると、
「言い難い事だが、まず、君に言っておくことがある……」
罪悪感のような感情がこめられたタナベの声は、真里の不安を加速させる。
「事故で助かったのは、君だけだ……」
世界が、歪んだ。
膝から下がなくなってしまったように、力が抜ける。崩れ落ちる。
「安倍さん!?」
「来ないでっ!!」
頭が痛い。
誰かが頭の中で叫んでいるように、痛い。
失いそうになった意識を振り絞って、叫ぶ。
倒れそうになる上半身を、今にも折れそうな両腕で支える。
「……続けて……」
「あ、ああ……」
真里の消え入りそうな声。しかし、鬼気迫る声に気圧されたように、タナベは続けた。
「君は憶えてない……というか、知らないと言った方が正確なんだろうけど、この事は、一度、君に伝えているんだ」
頭が痛い。
何を言っているのか良く分からない。
真里の混乱に気付かず、タナベはさらに続ける。
「これを聞いた君は意識を失い、次に目覚めた時、自分は矢口真里だと名乗った……」
頭が痛い。
「そんなわけ、ない! オイラは、小さい頃の思い出とか、ちゃんとあるもんっ! 小学生の頃の友達とか、中学の頃なにやって遊んだとか、娘。に入ってからのこととか、全部憶えてる! オイラは矢口真里だ!」
「本当に、そうかい? 矢口さんから聞いた事を、自分の記憶として摩り替えてるんじゃないか? 聞いたり見たりした事を、自分がやったことのように摩り替えることというのは、それほど珍しいことじゃない」
頭が痛い。
(……)
タナベの言葉に反論する知識も言葉も、気力すらもなく、真里はうなだれる。
(……、……)
耳鳴りがする。
「君は、安倍なつみさんだ」
タナベの声が、遠く聞こえる。
頭が痛い。
(……っ)
頭痛がひどくなってきている。
(……!!)
両手で頭を抱え込む。
(矢口さんっ!!)
白い、部屋だった。
草原の真ん中に立っていたドアをあけて入った、あの白い部屋に、真里は立っていた。
「あれ?」
「あれ、じゃないですよぉ」
出て行ったときと同じように、希美がベッドの脇に座っている。
そのベッドには、前と同じようになつみが横たわっていた。
けれど、前とは違うところが、ある。
「加護!? あんたどこ行ってたの!?」
ベッドの脇に座る希美の隣に、加護亜依が座っていた。
亜依は希美と顔を見合わせて笑い、
「矢口さん、それ前も言った」
「前?」
憶えていない。
てゆうか、前って……?
「憶えてないんですか? おばちゃん通り越しておばあちゃんになって、ぼけちゃったの
ぉ?」
「うっさいなぁ、もう! ……でも、良かった。うん」
亜依の無事な姿を見て、起こる事を忘れる。
「それで、おマメは?」
聞くだけ無駄と言うものだろう。
亜依と希美が顔を見合わせて、暗い表情を作る。
「まだ見つかってないんだ……ほかのみんなも?」
『みんな』という言葉に、目が眩むような感覚を覚えたが、それがどうしてか分からな
かった。
「はい……ひょっとしたら、そっちのドアの向こう側にいるかもしれないです。そっちは
開けられなかったんで」
「開けられない?」
「はい」
亜依はドアノブに手をかけ、ガチャガチャと回す。
かなり乱暴に押したり引いたりするけれど、微動だにしない。
まるで壁と一体化したみたいだ。
「あれ? おっかしいなぁ……前は開いたのに」
「それも前言いましたよ」
「え? ん〜……」
『前』ということについてあまり深く考えない方がいいかも知れない。
考える振りをしながら、真里はドアの前に立った。
別に、これと言っておかしなところはない。
ガチャリ、と、ノブを回す。
それほど力を入れずに押す。
すんなりと、意外なほど軽く、ドアが開く。
(なんだ、開くじゃん)
『外』からは、目も眩むような白い光が、差し込んでくる。
自分が全く知らない場所に立っていることに気付いたのは、突然だった。
真里は反射的に周囲をキョロキョロと見回す。
自然のものとは思えない緑が、広がっている。
良く手入れされた木々が立ち並ぶ、その向こうには、白い壁があった。
よくよく見れば、それはおそらく病棟で、白い壁は庭園を囲む形で四方に立っている。
四方を壁に囲まれて、うそ臭く、作られたものだと一目でわかる緑は、まるで匣庭を思
わせる。
建物に囲まれているとは思えないくらい明るくて、陽の光が暖かい。
思わず伸びをして、ふと、気付く。
意外なほど平静な真里は、知らないうちに知らない場所に立っている自分と、もう一つ
の異変に気付いた。
屋上にいたのは、まだ陽が昇らぬ時間だったはずだ。
だが今は、もうずいぶんと陽が高くなっている。昼くらいだろうか。
わけがわからないというのに、ずいぶんと落ち着いていられる自分が不思議だった。
(まあ、いいか)
どこか開き直りにも似た感情で、真里は疑問をどこかその辺の草むらに捨てて、歩き出
す。
どうやらそこは病院の中庭らしく、想像以上に緑に溢れ、ちょっとした公園くらいの広さがあった。
こんなにいい天気だと言うのに、誰も見当たらないのは、今は外出していい時間じゃないとか、昼食の時間とか、きっとそんなところなんだろう。
しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。
訳もなく引き寄せられるようにその水音に近づくと、開けた場所に出る。
その中央に、噴水。水音の源はここだ。
噴水の中央の台には、像が建てられている。
よく見る小便小僧や水瓶を抱えた像ではなく、掌に鳥を乗せた女性像だ。女性の背にも鳥のような羽があることから、それが天使像であろうと想像できる。
匣庭の天使像──
「ここにいたのか」
不意にかけられた声に振り返る。
前にも聞いたセリフだな、と真里が微笑むと、前にも同じ言葉をかけた人物が、立っていた。
真里の笑顔をどう取ったのか、タナベは苦笑するように表情をゆがめ、
「あまり一人で出歩くのは感心しないな……」
近づいてくる。
その表情が可笑しくて、真里は微笑を向けたままタナベの顔を見つめる。
その微笑が凍りつくのは、次のタナベのセリフが原因だった。
「さ、病室の戻ろうか……新垣さん」