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98名無し33 ◆TU/JllqeAU

「安倍さんっ!?」
 不意に真里の耳に届く声。
 目覚めた彼女が最初に見た看護婦、ウエハラだった。
(何? なに言ってんの? アベサンって何?)
 ウエハラの口から出た、その言葉の意味が、いや、言葉そのものを理解することが出来なかった。
 巡回の途中だったらしく、手にしていたライトを向けてくる。
 光から逃げる小動物のように、真里は走り出す。
「安倍さん!!」
 まただ。
 また別の名前で真里を呼ぶ。
 耳をふさぐ。
 この世界の全ての音を聞きたくなかった。
 逃げたい。
 どこでもいい。
 ここじゃないどこかへ行きたい。どこでもいいから、ここではない場所へ──
 
99名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 00:59 ID:SbiTCr0r
 
 どこをどう走ったのか、気がついたら屋上に立っていた。
 荒い息が、自分のものじゃないように聞こえて、また呼吸を乱す。
 そんなわけはない。
(これはオイラの声だ。オイラの息だ。オイラの体だ。オイラの、オイラの、オイラの、
オイラの、オイラの──)
 そんなわけはないはずだ。
(夢……そうだ、夢! そうに決まってるっ)
 こんなことが現実であるわけがない。
 いつの間にか流れていた涙が、まるで水をかぶったように頬を濡らしている。
 春とは言え、冷たい夜風が頬から熱を奪っていく。
 夜風は、思考に張り付いていた混乱と言う熱も奪っていってくれたようで、少しだけ、
思考を落ち着けさせてくれる。
「ここにいたのか……」
 不意に背後から投げかけられた声に、真里は弾かれるようにして振り返った。
 薄暗がりの屋上の扉あたりに立っているのは、タナベだった。
 異常なほどに明るい月と星の明かりが、ゆっくりとその姿を浮かび上がらせる。
100名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:01 ID:SbiTCr0r

「来ないでっ!」
 悲痛ささえ感じさせる拒絶の悲鳴は、タナベの足を止める。
 立ち止まったタナベは、自分を落ち着かせるように深呼吸とも溜息ともつかない息を吐
き出し、
「落ち着いて、僕の話を聞いてくれないか?」
「聞きたくないっ!」
 きっと聞きたくない話しかしてくれない。
 自分にとって都合の悪い言葉しか並べられないような気がして、それを拒否する。
「頼む、この通りだ。話をさせてほしい」
 頭を深く下げて、タナベは懇願するように、はっきりとした声で言った。
 そこには真里を騙そうとか、言いくるめようとか言うものは感じられない。
「なんで、なんでオイラがなっちになってるの!?」
 タナベはゆっくりと顔を上げると、
「言い難い事だが、まず、君に言っておくことがある……」
 罪悪感のような感情がこめられたタナベの声は、真里の不安を加速させる。
「事故で助かったのは、君だけだ……」
 世界が、歪んだ。
 膝から下がなくなってしまったように、力が抜ける。崩れ落ちる。
「安倍さん!?」
「来ないでっ!!」
101名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:01 ID:SbiTCr0r

 頭が痛い。
 誰かが頭の中で叫んでいるように、痛い。
 失いそうになった意識を振り絞って、叫ぶ。
 倒れそうになる上半身を、今にも折れそうな両腕で支える。
「……続けて……」
「あ、ああ……」
 真里の消え入りそうな声。しかし、鬼気迫る声に気圧されたように、タナベは続けた。
「君は憶えてない……というか、知らないと言った方が正確なんだろうけど、この事は、一度、君に伝えているんだ」
 頭が痛い。
 何を言っているのか良く分からない。
 真里の混乱に気付かず、タナベはさらに続ける。
「これを聞いた君は意識を失い、次に目覚めた時、自分は矢口真里だと名乗った……」
 頭が痛い。
「そんなわけ、ない! オイラは、小さい頃の思い出とか、ちゃんとあるもんっ! 小学生の頃の友達とか、中学の頃なにやって遊んだとか、娘。に入ってからのこととか、全部憶えてる! オイラは矢口真里だ!」
「本当に、そうかい? 矢口さんから聞いた事を、自分の記憶として摩り替えてるんじゃないか? 聞いたり見たりした事を、自分がやったことのように摩り替えることというのは、それほど珍しいことじゃない」
 頭が痛い。
(……)
 タナベの言葉に反論する知識も言葉も、気力すらもなく、真里はうなだれる。
(……、……)
 耳鳴りがする。
「君は、安倍なつみさんだ」
 タナベの声が、遠く聞こえる。
 頭が痛い。
(……っ)
 頭痛がひどくなってきている。
(……!!)
 両手で頭を抱え込む。
(矢口さんっ!!)
102名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:02 ID:SbiTCr0r

 白い、部屋だった。
 草原の真ん中に立っていたドアをあけて入った、あの白い部屋に、真里は立っていた。
「あれ?」
「あれ、じゃないですよぉ」
 出て行ったときと同じように、希美がベッドの脇に座っている。
 そのベッドには、前と同じようになつみが横たわっていた。
 けれど、前とは違うところが、ある。
「加護!? あんたどこ行ってたの!?」
 ベッドの脇に座る希美の隣に、加護亜依が座っていた。
 亜依は希美と顔を見合わせて笑い、
「矢口さん、それ前も言った」
「前?」
 憶えていない。
 てゆうか、前って……?
「憶えてないんですか? おばちゃん通り越しておばあちゃんになって、ぼけちゃったの
ぉ?」
「うっさいなぁ、もう! ……でも、良かった。うん」
 亜依の無事な姿を見て、起こる事を忘れる。
「それで、おマメは?」
 聞くだけ無駄と言うものだろう。
 亜依と希美が顔を見合わせて、暗い表情を作る。
103名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:03 ID:SbiTCr0r
「まだ見つかってないんだ……ほかのみんなも?」
 『みんな』という言葉に、目が眩むような感覚を覚えたが、それがどうしてか分からな
かった。
「はい……ひょっとしたら、そっちのドアの向こう側にいるかもしれないです。そっちは
開けられなかったんで」
「開けられない?」
「はい」
 亜依はドアノブに手をかけ、ガチャガチャと回す。
 かなり乱暴に押したり引いたりするけれど、微動だにしない。
 まるで壁と一体化したみたいだ。
「あれ? おっかしいなぁ……前は開いたのに」
「それも前言いましたよ」
「え? ん〜……」
 『前』ということについてあまり深く考えない方がいいかも知れない。
 考える振りをしながら、真里はドアの前に立った。
 別に、これと言っておかしなところはない。
 ガチャリ、と、ノブを回す。
 それほど力を入れずに押す。
 すんなりと、意外なほど軽く、ドアが開く。
(なんだ、開くじゃん)
104名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:04 ID:SbiTCr0r

 『外』からは、目も眩むような白い光が、差し込んでくる。
105名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:05 ID:SbiTCr0r

 自分が全く知らない場所に立っていることに気付いたのは、突然だった。
 真里は反射的に周囲をキョロキョロと見回す。
 自然のものとは思えない緑が、広がっている。
 良く手入れされた木々が立ち並ぶ、その向こうには、白い壁があった。
 よくよく見れば、それはおそらく病棟で、白い壁は庭園を囲む形で四方に立っている。
 四方を壁に囲まれて、うそ臭く、作られたものだと一目でわかる緑は、まるで匣庭を思
わせる。
 建物に囲まれているとは思えないくらい明るくて、陽の光が暖かい。
 思わず伸びをして、ふと、気付く。
 意外なほど平静な真里は、知らないうちに知らない場所に立っている自分と、もう一つ
の異変に気付いた。
 屋上にいたのは、まだ陽が昇らぬ時間だったはずだ。
 だが今は、もうずいぶんと陽が高くなっている。昼くらいだろうか。
 わけがわからないというのに、ずいぶんと落ち着いていられる自分が不思議だった。
(まあ、いいか)
 どこか開き直りにも似た感情で、真里は疑問をどこかその辺の草むらに捨てて、歩き出
す。
106名無し33 ◆TU/JllqeAU :03/01/14 01:06 ID:SbiTCr0r

 どうやらそこは病院の中庭らしく、想像以上に緑に溢れ、ちょっとした公園くらいの広さがあった。
 こんなにいい天気だと言うのに、誰も見当たらないのは、今は外出していい時間じゃないとか、昼食の時間とか、きっとそんなところなんだろう。
 しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。
 訳もなく引き寄せられるようにその水音に近づくと、開けた場所に出る。
 その中央に、噴水。水音の源はここだ。
 噴水の中央の台には、像が建てられている。
 よく見る小便小僧や水瓶を抱えた像ではなく、掌に鳥を乗せた女性像だ。女性の背にも鳥のような羽があることから、それが天使像であろうと想像できる。
 匣庭の天使像──
「ここにいたのか」
 不意にかけられた声に振り返る。
 前にも聞いたセリフだな、と真里が微笑むと、前にも同じ言葉をかけた人物が、立っていた。
 真里の笑顔をどう取ったのか、タナベは苦笑するように表情をゆがめ、
「あまり一人で出歩くのは感心しないな……」
 近づいてくる。
 その表情が可笑しくて、真里は微笑を向けたままタナベの顔を見つめる。
 その微笑が凍りつくのは、次のタナベのセリフが原因だった。
「さ、病室の戻ろうか……新垣さん」