第3回 『荊』
屋上での一件から、すでに3日が経っているそうだ。
病室に戻った真里は、タナベからそう説明を受けている。
事態は真里の理解どころか、想像の範疇さえも大きく逸脱してしまっている。
自分の体がなつみであることは理解できる。それは動かしようのない事実。
けれど、真里は自分の事を矢口真里だとしか認識していない。出来ていない。
他の何者でもない、『モーニング娘。』の矢口真里だ。
そして、もう一人、というのが正確なのかはわからないが、真里以外にもなつみの体で
ありながら、別の名前の持主がいるらしい。
屋上で意識を失った瞬間から、新垣里沙を名乗っていた。
全くもって意味不明な状況だ。理解不能な展開だ。
なつみの体、真里と里沙の意識、そして──
(なんだっけ? 大切な事を忘れてるような……?)
何かが引っかかるけれど、それが何かはっきりと思い出せない。
忘れている何かを思い出そうとして、顔をしかめていると、病室の扉がノックされた。
「あ、はいっ」
反射的に返事をすると、思い出そうとしていたことはとりあえず頭の奥の方に引っ込め
る。
「失礼しまーす」
扉を開けて入ってきたのは、30代後半くらいの、清潔感のある白衣を着た女医。決し
て美人とは言えないが、愛嬌があり、好感の持てる顔立ちだ。
その後ろからタナベが入ってくる。
何事か、と真里がぽかん、と口を開けていると、
「精神科医のムロイです。今日からあなたの担当になりました」
「精神科医……?」
「ええ、あなたの治療に……」
「オイラをなっちに戻すためですか……」
どこか諦めにも聞こえる、絶望の混じった声色で、呟く。
なつみに戻る、ということは、つまり、『矢口真里』は消えてなくなるわけだ。
それを、『死』とは呼べないだろうか……?
自分が死ぬ事を進んでやるだなんてことは、正気の沙汰とは思えない。
思いつめた表情の真里に、
「そうしなければ、日常生活に支障が出る場合もある。この間のように、突然意識を失っ
て、気がつけば別の場所にいる、なんてことが起こる可能性もある」
タナベが、気を使っているつもりなのか、そんなことを言うが、まるっきりなんの慰め
にもなっていない。
「だから……」
「勘違いしないで」
タナベの言葉を遮って、ムロイが口を開く。
唇には、優しい笑みを乗せながら。
「勘違い?」
「そう、あなたは勘違いしてる。私はね、安倍なつみさんの治療をしに来たんじゃない。
あなたを治療しに来たのよ、矢口真里さん」
「え?」
「あなたの心を治療することが、私の仕事」
ぐらついていた自分と言うものが、ようやくどこか落ち着ける場所にたどり着いたよう
な、そんな安心感と安定感が、その声には確かに、あった。
自分と言うものを、矢口真里という人格を、認められた。
安倍なつみが生み出したのかもしれないが、矢口真里という人格を、一人の人間として
初めて、認められた。
涙が、頬を、伝う。
それは衝撃ではなく、抱擁。
包み込まれるような、感動。
生まれて初めて憶えるような感動が、真里を思考を包み込み、停滞させた。
ベッドのすぐ隣で、タナベとムロイが言葉を交わしているような気配があるが、そんな
こと、意識できない。
真里は、ただ、泣く事でしか感情を表現することが出来なかった。
ムロイが担当医になってから、5日経っていた。
相変わらず、真里は真里のままで、いくつかの心理テストを受けたり、カウンセリング
を受けていた。
はっきり言ってしまえば、これを受けることによって、何が治療されていくのか分から
なかったが、安倍なつみではなく、矢口真里を治療すると言うムロイの言葉を信じて、訳
のわからない図形を見たり、箱庭遊びみたいなことをしたり、意味不明な質問をされたり
して、いつの間にか時間が過ぎていた、という感じだ。
その間、外の情報を手に入れることが出来なかったのは、真里を不安にさせた。
治療の邪魔になるから、ということで、テレビや新聞、週刊誌やラジオなどを一切禁じ
られていた。というより、病室はもちろん、病棟のどこにも置かれていなかったので、禁
じるどころの話ではなく、そこまで徹底されると、もう、諦めるしかない。
外の情報はタナベやムロイ達の口から伝えられるものしかなく、どれほどまでが信じら
れるのか分からない。
プロデューサーのつんく♂やマネージャー、事務所の社員にスタッフ、そしてハロプロ
のメンバーは、どうしているだろうか……
それに、
(お父さんとお母さん、心配してるだろうなぁ……)
そう考えて、顔をゆがめる。
苦痛に耐えるように、うずくまる。
両親に心配をかけていることへの罪悪感ではなく、
(誰の親に心配かけてるんだろ……)
思い浮かべた親の顔は、矢口真里の両親。
しかし、この体は安倍なつみのものではないか。
そう思い至ると、真里は自虐的に笑った。
なつみの頬を、涙に濡らして──
コツコツコツ、と、硬い音が廊下に響いている。
書類を抱いたムロイが、薄暗い廊下を歩いている。
その表情は、夜よりも暗く、まるで罪に耐えかねる罪人のようだった。
キィキィ、と金属がこすれあう音が、ムロイの耳を刺激する。
音の正体を悟り、不快感をあらわにする。
視線の先には、車椅子に乗った白衣の青年が、唇を嘲るような形に歪ませていた。
「ドクター・フクヤマ……」
ムロイの呟きは、彼に対する心象を表すに十分な響きを持っていた。
軽蔑、というのが一番近いのだろう。
真里に対するものを考えると、信じられないくらいに、乾く、冷めた声だった。
しかし、フクヤマはそれを全く意に介さず、ムロイに近づいた。
「どうですか、彼女らは?」
「順調、ということになりますね、あなた方からすれば」
ムロイのその答えに、フクヤマは、ふふ、と笑い、
「まるで他人事のようですね」
舌打ちしそうになるのを堪えるので必死、というムロイの表情を可笑しそうに見て、彼
女に向かって手を差し出す。掌は上に向けられている。
ムロイは何も言わずに、胸に抱えていた書類を差し出した。
それを開いたフクヤマが、満足そうに頷きながら、微笑んだ。
「ニイガキリサが予想以上に早く、表層に出てますね……やはりヤグチマリで安定してい
ますか」
「辻さんと加護さんは深層から出てこないのも、安倍さんが目覚めないのも、全て予想通
り、ですか」
ムロイの言葉に、フクヤマの唇が、歪んだ。
いや、満足げだった笑みが、人を嘲る形に戻った、というべきか。
「安倍さん、ね」
「何か?」
「いえ。まあ、予定通り、ですね。これからも、よろしくお願いしますよ」
不快極まりない、という表情で差し出された書類を受け取ったムロイは、返事もせずに
フクヤマの脇を通り抜ける。
「あ、そうそう、もう一方の彼女らの方は、どうなってます?」
今、思い出した、というよりは、わざわざこのタイミングを見計らったような言いよう
は、ムロイの神経を逆なでする。
それでも、ムロイはきわめて事務的に、応える。
「いまだに、目覚める様子はありません」
「そうですか……そろそろ、目覚める頃合でしょうから、気をつけておいて下さいね」
キィキィと車輪の回る音が、静寂を侵食する。
その音が、まるで彼の存在の一部であるように、ムロイは耳に残るその音を、消し去って
しまいたかった。
しかしそれは、決してはがれることなく、彼女の頭蓋骨の裏に張り付いて、不快感を加
速させた。
安 倍「ムロイは室井滋さんだって」
矢 口「心療内科医・涼子のイメージね」
安 倍「フクヤマは福山雅治さんなんだって」
矢 口「古畑任三郎に犯人役で出てたときのイメージだって」
安 倍「そのうち中居君とかも出てくるんじゃない? 白い影ん時の」
紺 野「あれは見てないから出さない、だそうです」
安&矢「そんな理由かよ……」
矢 口「……え? 紺野?」
次回『雲路の果て』