朝日も届かない薄闇の中、聞こえてくるのは魔獣の唸り声のみである。
かつては繁栄し賑わった帝国城下の街並みも、今はそこを行き交う人の姿は無い。
人々を食らい、それが果てた後には同族同士ですら食らい合う魔物達。
その黒い影が跋扈する帝国は、最早魔界のそれと大差無い魔都と化していた。
(今この国に存在する「人間」は三人)
紺野は神殿の門の前で一人空を仰いだ。
帝国宰相、飯田。
未だ地下牢に封じられし中澤。
そして、僧兵団長である自分のみである。
(いや、今や宰相を人と呼ぶことは間違いかもしれない)
帝国の力を盤石とする為に魔神の召喚などという暴挙に出た彼女の姿が、
脳裏に浮かぶ。
(今となっては宰相が何を望んだのか、解らない)
カオリは已然儀式の最中である。
魔神を呼ぶための生贄を門とし、現世に召喚された魔物達は、彼女が守るべき
国その物を廃墟と化してしまった。
(もしや、始めから宰相はそのつもりで……?)
馬鹿な、と紺野は頭を振り邪推を打ち消そうとする。
だが視界にある魔都を見るたび、その懸念は心の中で渦巻き、肥大化する。
(そんな事をして何になる? 自らの国を、ましてや住む世界を壊す? 馬鹿馬鹿しい)
ガッと門柱に拳を叩きつける。
その音に近くを徘徊していた魔獣がピクリと反応し、のそのそと紺野に近づいてくる。
(わからない……宰相の真意が……。私は……どうする……?)
魔獣を気にも留めず思案する紺野に、背後から鋭い牙を並べた魔獣の巨大な口が迫る。
ガッ!
「ッギャッ!?」
後ろを向いたまま、紺野の手が魔獣の口から大きく飛び出した牙の一本を握り、
その攻撃を止める。
「……私に近寄るな」
ゆっくりと振り向きながら睨みつける紺野の右手が霞んだ。
グシャッ!
鈍い音を立て、魔獣の頭部が肉片を撒き散らし、四散する。
紺野が数歩歩いた時、背後で魔獣の倒れる音が響いた。
おそらくは自身が死んだであろう事すら認識できないまま頭部を失い屍となった
魔獣に、数匹の魔獣が群がりその肉をついばみ始めた。
その様子を振りかえる事も無く、紺野は王城へ向かった。
「ちょっと、可哀相だったかなぁ?」
帝国まであと少しというところまで来たあたりで、なつみは西の都の方角を見て呟いた。
「何いってんだよ。あたしらは死ぬかもしれない戦いに行くんだぜ。子供なんて足手まとい
以外のなんにもなりゃしねぇ」
市井はなつみの同情的な表情に呆れたといった顔をした。
真里と三人の反乱軍兵士も同意というようにうんうんと首を縦に振った。
一行はあの後すぐに荷物をまとめると、西の都を旅立った。
なつみは自分の力で自分の身は守れるという事で同行することになったが、加護と辻は
当然の如く置いて行く事になった。
二人は最後の最後まで駄々をこねたが、保田の一喝で大人しく避難所へ帰っていった。
「そもそもあたしはあんたがついてくる事も反対だったんだけどね。いくら伝説の天使の
力が使えるからって、体術もろくに使えないってのに。魔物の巣窟よ? 不意打ちされたら
即死なのよ」
市井に言われ頬をふくらませるなつみとの間に、真里は苦笑して割って入る。
「大丈夫だって。その点はオイラが充分注意するからさ」
「ま、いいけどさ。足手まといにはなんないでよ」
市井はふいと前を向くと、そのまま歩き出した。
「むー。やな奴。そういう事言ってるといざって時助けてやんないから」
前を行く市井になつみがべーっと舌を出す。
「まぁまぁ、なっちも機嫌直せよ。オイラはちゃんと頼りにしてるからさ」
なつみを宥めつつ、真里は「でも」と心の中で呟く。
(確かに紗耶香の言う通り、この戦い一瞬の油断が命取りになる)
真里は気を引き締め、正面を向いた。
遠くに微かに見える帝国王城の影が、かつて自分が暮らしていた場所とは思えない
異質の空間のように感じる。
無意識に握り締めた真里の手に、汗が滲んでいた。