『みちしるべ』
「りんね! どうしたの? 急に」
荷造りを進めるあさみと里田の前に、突然りんねが現れた。
カントリー娘。を卒業してから、りんねが花畑牧場を訪れるのは初めてのことだった。
「うん。これで本当のお別れなのかな、と思って」
部屋に入って来たりんねは、自分が出ていってからも何も変わっていない部屋を見回した。
自分のカバンに両手を置き、座ったままりんねを見上げてあさみが言う。
「おかえり、りんね」
りんねは、にっこりと微笑んで、ただいま、と答えると、半年前まで自分が使っていたベッドに腰を下ろした。
カントリー娘。
半農半芸をコンセプトに1999年に、三人組で結成された。
北海道の牧場で働きながら、トップアイドルを目指すという異色のユニット。
デビューシングルの発売七日前にメンバーの一人を事故で亡くすという悲劇に見舞われ、さらにしばらく経つと、もう一人のメンバーも脱退。
失意のどん底に落とされるも、りんねはたった一人で長い苦難の時期を乗り越え、牧場の従業員だったあさみがメンバーに加わる。
その後さらに一年の下積みを経て、ついにメジャーデビューが決まった。
しかし、そのメジャーデビューは、二人だけのものではなかった。
すでにトップアイドルとして活躍しているモーニング娘。からメンバーを借り受け、その両脇でサポートするような形で歌うメジャーデビューだった。
今でも彼女達カントリー娘。は、脇役、おまけ、としての扱いを受けることも多い。
メジャーデビューから一年、新メンバーとして里田まいが加わり、いよいよひとり立ちを目指して行くのか、と思われた矢先、事件が起きた。
トップアイドルを目指して、カントリー娘。結成当時からずっと頑張り続けたりんねの卒業。
彼女の卒業が決まった背景は、まったく明らかにされていない。
りんねの卒業から三ヶ月、いま、こうしてあさみと里田は荷造りを進めている。
牧場から離れるための荷造り。
半農半芸のうち、農の方を棄て、彼女達は東京へ登ることに決まった。
カントリー娘。の歴史が、また一つ、ここで終わる。
りんねも迎えて、あさみと里田の牧場での最後の晩餐は盛大に行なわれた。
二人が東京へ出ていくと聞き、牧場と関係の深い近所の人達も何人か訪れている。
メニューは、かぼちゃサラダに、ポタージュスープ、ジャガイモグラタンといった、牧場で取れる野菜や乳製品
をふんだんに使った、旅立ちの晩餐にふさわしいもの。
外の冬の寒さを忘れさせるほどにガスストーブの暖かさが部屋を覆い、しんみりとした雰囲気は作らせない。
明日も、明後日も、これからもずっと、この暖かい時が続くかのような、そんな錯覚すらおぼえる部屋の空気は、
これまでの牧場での彼女達の日々が、幸せなものであったことを物語っていた。
りんねの思い出、あさみの思い出、里田の思い出。
それぞれに赤面物の話題も一つ二つ飛び出しながら食事は進む。
喧騒の中、すこし引き気味に、里田はパーティーの様子を見つめていた。
この中で、牧場で過ごした時間は里田だけ極端に短い。
ここから離れて行くことは確かに寂しいことだけど、それでも、あさみやりんねとはその
感じ方は大きく異なっていた。
最後のパーティーは、すこしだけ蚊帳の外にいる気分だった。
里田は、隣に座るあさみ、その奥に座るりんねの方を時折見ながら、話しの輪の中に言葉
を挟むことはあまりなく、話題を聞いて、笑っている。
「あさみもさあ、牧場に最初来た頃はホント役立たずだったもんなあ」
「そんな、昔のこといい出すのなしだよー」
従業員が語りだす昔話に、あさみが抗議の声を上げる。
「牧場来て何日目かだったかなあ。初めてあさみに敷きわらの準備任せたらさあ、なんか、
牛に囲まれて真ん中で怖くなって泣いてやんの。そのとき、なんて言ったか覚えてるか?」
「あー、もうやめやめ。そんな昔の話し、しなくていいから」
「おぼてるんでしょー。白状なさい」
必死にごまかそうとするあさみに、隣からりんねが突っ込む。
その様子を、里田は微笑ましく思いながら見つめていた。
「あんな、マンガみたいなせりふ何年たっても忘れらんないよ。あさみ、覚えてるんだろ。
牛に囲まれて、おかーさーん。とか言いながら泣いてんの」
「しょうがないじゃん、最初は怖かったんだから」
「あさみもかわいいとこあったんだ」
「私はいつでもかわいいじゃんか」
「まあ、あのあさみがここまでちゃんと働けるようになったんだから、立派なもんだよ」
和やかにふけてゆく最後の夜。
料理の皿があらかた空になっても、パーティーを終りにしようといい出す者はいない。
暖かな空気を見つめながら里田は、もっとはやくこの中にいられたらよかったな、もっと
長くこの中にいられたらよかったな、と思っていた。
今日で、この時が終わってしまうことが、本当に悲しいと初めて思った。
「あさみも一人前になったし、まいちゃんも、ようやくすこしづつ仕事覚えてきたのに、
二人ともいなくなっちゃうんだよなあ」
牧場の従業員のつぶやき。
暖かだった空気が、悲しい色を帯び始める。
いくつかのため息の後、沈黙がテーブルを覆った。
そんな空気を破ったのは、あさみだった。
「なに暗くなってんだよー。ついこのあいだまで、こうるさいのがいなくなってせいせ
いするとか言ってたくせに」
いつもよりも、さらにひときわ明るいあさみの声が、食堂に響く。
ガスストーブのせいで、乾ききった空気の中に、りんねの声が続いた。
「東京なんか、すぐそこだよ。私、今日昼前まで東京にいたんだから」
二人の言葉でも空気の色が変わったわけではない。
それでも、彼女達の意思が伝わったのか、従業員達のため息と沈黙は収まった。
「今日は、旅立ちの祝いだったな。祝いだ祝い。辛気臭いつらしてるやつは、牛に蹴
られてしんじまえ」
一人のすこし酒の入った従業員のこの言葉で、場はふたたび暖かさを取り戻した。
あさみと、里田の最後のパーティー。
りんねとあさみの、元気そうな姿を見て、二人は自分の置かれている環境に満足して
いるのだろうか、と里田は考えていた。
牧場の夜は早い。
食堂の柱時計が九時を告げると、そろそろ締めくくりなのかな、という感傷がみなの心に
入ってくる。
パーティーの間ほとんどずっと黙っていた田中牧場長が最後の口を開いた。
「んじゃ、最後に、二人に挨拶してもらおうか」
この後におよんでは多くは語らない田中牧場長。
彼は、カントリー娘。の総合プロデューサーでもある。
カントリー娘。が東京へ行く、牧場を去る、というのは、実質的には田中はプロデュサー
からはずれるということ。
自分が生み、育て、ここまでやってきたつもりでいるカントリー娘。
内心、忸怩たる思いがないわけではないが、彼女達の今後を想い、すべてを飲みこんでい
ま、ここに座っていた。
里田が、まず立ち上がる。
「わたしは、ここに来て一年で、牧場の仕事はあんまり出来なくて、牧場で過ごす時間も
短くて、迷惑掛けっぱなしだったなあ、って思います」
皆黙って聞いている。
里田は、一年前にカントリー娘。に加入し、牧場に生活道具一式を持ってきた。
彼女が新メンバーとして加わったころは、すでにメジャーデビュー後。
活動の中心は北海道ではなく、東京を中心とした首都圏に移っていた。
牧場で、今ここにいる従業員達と過ごした時間は短い。
「もっと、いっぱい牧場の仕事を覚えたかった。もっと、いっぱいみんなと過ごした
かった。だけど、私は、東京へ行きます。頑張ってきます」
一同から拍手が起こる。
里田は、軽く頭を下げて席に着いた。
「じゃ、次あさみ」
田中牧場長の言葉であさみが立ち上がる。
全員の視線が集まる中、あさみは言った。
「みんな、ありがとう。終り」
それだけ言って、すぐに椅子に座った。
「それだけかよー。なんかあるだろー」
「照れくさいなあ。そんな、わざわざ挨拶なんて」
背もたれによりかかり、うんざりした表情をしながらりんねの方を向くと、りんねは笑っ
て、ほら、とあさみに立ち上がるようにうながした。
あさみは、立ち上がってから、はあ、と一息はき、テーブルを見渡した。
「じゃあ、最後くらいちゃんと挨拶してみようかな」
そう言って、あさみは両脇のりんねと里田を交互に見た。
二人は、あさみと目が合うと深くうなづいて見せた。
「ホントに、みんなありがとう。これ以上のことは言うことないんだけどさあ。まあ、み
んな、私がいなくなって寂しいと思うけど、すぐに毎日テレビで見れるようになるから、そ
れまで待っててよ」
従業員達の間から、期待してるよ! などと声が飛ぶ。
「牧場での四年間はホントに楽しかった。ここにきてよかったと思ってます。みんなには
ホントに感謝してます。ありがとう。みんなのことは忘れない。だから、私達のことも、忘
れずに応援してください」
牧場で、彼女がこうして真面目な発言をするのは珍しいことだった。
あさみの挨拶を締めに、彼女達の牧場での最後の晩餐は終わった。
三人は、二階の自室に戻った。
牧場で過ごす最後の夜。
それぞれに感慨を持ちながら。
北海道も寒いけど東京も寒いよね。
りんね、一人暮らしは順調?
まいは結局フライングディスク、うまくならなかったねえ。
あさみも、ちゃんと真面目な挨拶することもあるんだ。
今の暮らし、新しい暮らし、淡々と語る。
まだ見ぬ新メンバーへの期待、東京での暮らしの不安、久しぶりにそろった三人は多くの
ことを話した。
「もう十一時だよ」
時計に目をやったあさみが言う。
「真夜中になっちゃいましたねえ」
「まいも、牧場の暮らしが染み付いてるんだ」
りんねが笑って言う。
十一時で真夜中と言う感覚は、牧場基準の感覚だ。
「りんねは、今は何時くらいまで起きてるの?」
「最近は十一時までは起きてるようになったよ」
「だんだん、夜の遅い生活になっていくのかなあ?」
あさみがベッドに横になり言った。
「電気消しましょうか」
「そうだね」
部屋の入り口のスイッチに里田が向かい、りんねはベッドに入る。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電気が消え、部屋に静寂が訪れた。
静かな闇の中、ベッドの中で三人は寝付かれない。
あさみや里田にとっては、とっくに眠りについている時間にもかかわらず。
電気が消えてから十分ほど経っただろうか、真ん中のベッドにいるあさみが口を開いた。
「まだ起きてる?」
首までもぐっていた布団から、肩までだし里田は返事をする。
「起きてますよ」
「起きてるよ」
りんねも、あさみの方を見て答えた。
「今日で最後なんだよね、このベッドで眠るの」
暗闇の中、天井を見つめてあさみが語りだした。
「わたし、ホントは迷ってた。うーん、ていうか、今もちょっと迷ってる」
東京行きについて、あさみが初めて本音を二人に話す。
「わたしさあ、二人と違うんだよね。りんねもまいも、カントリー娘。になりに、芸能人
になりにこの牧場にやってきた。でも、わたしは、牧場で働きにここへ来た。牧場で働いて
いて、なぜか、気づいたらカントリー娘。になってた」
すでに去って行ったメンバー達も含めて、あさみだけが花畑牧場の出身で、牧場で働く立
場からカントリー娘。に入っている。
彼女にとっては、半農半芸で言えば、農の方に元々の重きは置かれていた。
「牧場をさあ、捨てるってのは、私の頭に全然なかったんだよね」
暗闇の中で、あさみは語り続ける。
悩み続けた胸のうち。
伝えるべきか、伝えないべきか。
どちらがいいのか、あさみ自身で結論は出なかったけれど、久しぶりに二人に挟まれて
床に着いたところで、感情が溢れ出てきていた。
「牧場を離れて東京へ、って言われて、そんなのありえないって思った。最初は牧場に残
ろうと思った」
あさみのこの言葉で、里田はベッドから体を起こし、あさみの方を覗きこんだ。
りんねは、ベッドの中で体をあさみの方へ向け、言葉を投げかけた。
「あさみは、じゃあ、なんでカントリー続けていこうって決めたの? それでいいの?」
左右の二人が自分を見ているのも気にせず、あさみの視線は天井へと向けられたまま。
「りんねは、いいの?」
「いいのって?」
「カントリー卒業」
りんねの口から、あさみも里田もその件についてちゃんと話を聞いていない。
「いいも悪いもないよ」
「どっちなの?」
軽くかわそうとするりんねに、あさみは絡む。
「いいも悪いもないんだよ。私はカントリー娘。を卒業した。今は一人のりんねとして活
動してる。懐かしいよ、ここも昔も。でもさあ、過ぎちゃったことって、どうにもならない
んだよ。戻りたくても、戻れない場所ってある。帰ってきて欲しくても帰ってくることのな
い人がいる」
りんねは激動の芸能活動を送ってきた。
一人の力ではどうしようもないこと。
仲間を突然事故で失ったこと。
すべてを受け止めて、その上で歩き続ける。
「あさみはさあ、まだ、自分で決められるんだよ。牧場に残るか、カントリー娘。続けるか」
暗闇の中静寂が訪れる。
一瞬の後、あさみの口から大きなため息が漏れた。
ため息が、部屋の中へと消えてゆく。
「カントリー娘。が好きなんだ」
それだけ言うともう一度ため息をはいた。
「アイドルっていうか、芸能人っていうか、そういうのより、自分の中で牧場の仕事とか、
犬ぞり乗ったり、フライングディスク投げたりのが、全然大きいんだ。だから、最初は、
牧場に残ろうと思った」
こう語るあさみを、りんねは静かに見つめている。
「わたしがやめたら、まい一人かあ。でも、新メンバー入るし、まいなら大丈夫だよなあ、
なんて考えながらさ、ふと思ったんだ。牧場で、まい達がカントリー娘。として出てるテレビ
を見てる自分の姿」
りんねがあさみから視線を外し、天井を見た。
あさみが思い浮かべた未来の姿は、今のりんねの姿でもある。
自分のいないカントリー娘。をりんねは何度かテレビで見ていた。
「ありえないって思った。そんなの嫌だって思った。それで、初めて二つ並べて考えた
んだ。カントリー娘。と牧場」
あさみは、布団から両腕を出して、頭の後ろであわせた。
また、一つため息をついた。
「ずっとずっと考えた。どっちも私にとって大切なものだった。そんなの決められ
ないって、ずっと考えた」
語り続けるあさみを、里田はじっと見つめていた。
同じ部屋で暮らす里田は、眠れない夜をあさみが過ごしていることに気づいていた。
気づいていたけれど、何も言えずにいた。
「ずっと考えて、やっぱりカントリー娘。は捨てられなかった。りんねが守ってきて、
育ててきたカントリー娘。を今のまま捨ててしまうことは出来なかった。もっと、もっと
もっと大きくなるまで、わたしはカントリー娘。でいたいって思った。あさみでいたいっ
て思った」
りんねが寝返りをうった。
あさみに背中を向ける。
りんねは、もう、カントリー娘。ではない。
「牧場好きだったんだけどなあ。北海道好きだったんだけどなあ。どんどん、いろん
なことが変わってゆく」
里田も、あさみから視線を外し布団へ入りなおす。
牧場を離れることに、里田はほとんど抵抗はなかったが、それでも、自分達の回りが
どんどん変わっていく、ということへの不安は感じている。
「りんねと、三人でカントリー続けたかったなあ」
あさみの声が震えていた。
「私は、私の道を行くよ。カントリー娘。は、もう、あさみとまいに全部預けたんだ。
私は、私の道で頑張る」
あさみに背中を向けたまま、りんねは一言一言噛み含めるかのように言った。
「こんな決め方でもいいのかなあ?」
あさみは、そう言って交互に二人を見やる。
背中を向けていたりんねも、寝返りをうちあさみの方を向くと、小さくうなづいた。
里田の方をあさみが見ると、里田は布団から体を起こし、あさみを見つめ返す。
「私も、カントリー娘。が好きです。だから、もっと頑張りたい。もっともっと、頑張りたい」
里田の言葉が部屋の中へ響いた後、静けさの中でエアコンのモーターの音がした。
あさみは、里田から視線を外すと、一つ大きなあくびをした。
「なーんか、辛気臭い話ししちゃってごめん。今度こそ、ちゃんと寝よ。明日も早いし」
「うん、そうだね」
まぶたに手をやりながらりんねが震える声で答えた。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それぞれに、それぞれの想いを抱えながら、花畑牧場最後の夜は、こうして過ぎていった。
翌朝、早朝に起きた三人は、最後の牧場の作業へと出た。
ゆっくり寝てていいのに、と言われたが、三人は作業服に着替え牧場へと出る。
最後まで、ぎりぎり最後まで、牧場の仕事をしていたかった。
敷きわら用の麦稈ロールを積み上げたり、犬達に食事を与えたり。
牧場との別れは、ここで暮らす動物達との別れでもある。
あさみが敷きわらをリアカーに積み上げていると、何も知らない子牛達が集まってくる。
いつものように、あさみの服をくわえて引っ張り、仕事の邪魔をする。
「あー、もう、おまえたちは、最後の最後まで邪魔ばっかりするんだからもう」
そう言いながら、子牛の頭をなでてやるあさみの顔は笑みが溢れていた。
「仕事はいいから、遊んでおいで」
従業員の優しい言葉に甘え、あさみと里田は、仕事を離れた。
「もう、お前達は、いっつも仕事の邪魔して、遊んで遊んでばっかりで、手がかかるんだから」
そう言いながら、あさみは子牛の背中に回る。
子牛はあさみを追いかけて、後ろへ後ろへとまわる。
ぐるぐる回りだす子牛とあさみ。
その光景を眺め、笑っている里田のすぐ後ろで、牛が泣き声をあげた。
「わあ」
びくっと震えてから、里田が振りかえる。
「びっくりさせるなあ」
それを見て今度はあさみが笑い出した。
子牛との追いかけっこをやめ、お互いの顔と顔を近づけてにらめっこ。
「元気でいろよ。そのうち遊びに来るからな」
あさみの言葉に答えるかのように、子牛は鳴き声を上げた。
同じ頃りんねは、厩舎にいた。
もともと、馬の世話の担当だったりんね。
厩舎の中を歩いて行く。
りんねが近づくと、馬達もりんねの方に近づいてくる。
なつかしいりんねの匂いに馬達が寄ってくる。
「元気そうだなあ」
馬の目を見てりんねが語りかけると、馬は、りんねに鼻を近づけて匂いをかいだ後、ほほを
こすり付けてきた。
「くすぐったいだろー」
そう言いながら、肩に抱くようにして頭をなでてやる。
頭をなでられた馬は、何度も何度もりんねの顔にほほをこすり付けていた。
一頭一頭に、そうしてりんねは挨拶をかけていく。
すべての馬との再会を終え、厩舎の中から一頭の馬を連れ出した。
柵で仕切られた馬場まで連れてゆく。
馬場に入ると、りんねは鞍もはみも何も着けないまま、馬の背中にまたがった。
久しぶりの牧場、久しぶりの乗馬。
馬に触れるのさえ何ヶ月かぶりかなのにもかかわらず、りんねは自在に馬を乗りこなす。
馬に指示を送るのに本来必要とされる手綱もはみもつけずに。
朝日に照らされ、木々の中に溶け込みながら、りんねは朝食までの時間を馬の背中で過ごした。
朝食を終えると、いよいよ旅立ちの時。
牧場と、カントリー娘。の別れ。
荷物の準備をすべて終えた彼女達は、自分達の部屋に別れを告げる。
ドアの前で振りかえり、ゆっくりとみまわした。
元々三人部屋だったこの部屋。
半年あまりで、すぐにりんね一人になった。
孤独と不安と戦いながら、未来を見つめてきたこの部屋に、別室で暮らしていたあさみも移ってくる。
二年近い時間、二人で暮らした。
たくさん、たくさん語りあったこの部屋。
里田が最後にここに来た。
やがて、りんねがこの部屋を去り、いま、二人も去って行く。
誰もいなくなる部屋。
ドアの前で三人は部屋の中を黙ったまま見つめている。
二重の窓の外から、レースカーテンを超えて光が差しこみ、彼女達が使っていたベッドを照らす。
暖房がまだ効いているにもかかわらず、部屋の空気が冷たくなっていくように感じる。
人のぬくもりが、これから消えていく。
「行こっか」
あさみがつぶやく。
「そうだね」
りんねはそう言って、あさみの頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
あさみが上目遣いにりんねの方を見ると、りんねは軽く微笑んだ。
それを見て、あさみも笑みを返した。
「ありがとうございました」
部屋に向かって頭を下げ、あさみは里田の手を引き歩きだした。
先を歩くあさみと里田につづいて、りんねも部屋を後にした。
すでに到着していたタクシーに荷物を積みこんでいく。
牧場の従業員達は、仕事の手をやすめ全員集まっていた。
「なんか、照れくさいじゃんか。見送りはいいって言ったのに」
「そっちはよくても、こっちはよくないんだよ」
「昨日言ったじゃん。ちょっと待ってればすぐにテレビで見られるようになるって」
あさみの言葉に、みな笑顔をこぼす。
「いつでも帰ってくるんだぞ」
「あー、もう、そういうこと言わないでよ」
あさみが、隣に立つりんねの肩にもたれかかる。
りんねがあさみの肩を抱くと、あさみはりんねの胸にしがみついた。
「あさみちゃん。ここにいるみんなはさ、ほとんど北海道から出たこともなくて、内地に
なんか行ったことないのばっかりだから、心配なんだよ。分かって上げて」
世話になったおばさんの言葉に、あさみはりんねの胸の中で弱弱しくうなづいた。
「りんねもまた来いよ。久しぶりに来ると、動物達もすこし変わってるだろ」
「うん。子牛や子馬は大分大きくなったね」
「体に気をつけてな」
りんねは強くうなづき、胸に抱いているあさみの肩を軽く叩く。
鼻を二回すすり上げて、あさみはりんねの胸から離れ、皆の方を向いた。
「みんなも元気で」
それだけ言って、逃げるようにタクシーに乗りこんだ。
「まいちゃんも、手紙でも電話でもいいから、連絡頂戴ね」
「はい」
あさみのあとに続いて、りんねと里田もタクシーへと乗りこむ。
ドアの窓を明けた。
「いつでも帰ってきていいんだからね」
「はい」
「あさみちゃん、こっち向きなよ」
「だって…」
一番奥の席で、そっぽを向いてあさみはつぶやいた。
「ほら、あさみ」
りんねがあさみの腕を引っ張る。
あさみの側の窓もタクシー運転手が気を使って開けてくれた。
椅子に深く腰掛けたまま、あさみは窓の外をチラッと見る。
「頑張るのもいいけど、無理はするなよ」
「わかってるよ」
「変な男に引っ掛かるなよ」
「わかってるよ」
「たまには連絡よこせよ」
「わかってるよ」
愛想のない答えに、語りかける従業員も苦笑いするばかり。
「じゃあな。元気で」
「うん」
そっけなく、あさみは答えを返した。
従業員達は、タクシーから一歩離れる。
車はゆっくりと動き出した。
車のうちと外。
別れを惜しむ人達。
次第に加速がついていき、距離が離れてくる。
里田は窓から身を乗りだし、手を振っていた。
従業員達も、頑張れ、たまには帰って来い、体に気をつけろ、と口々に言いながら手を振っている。
りんねも、車の後ろの窓越しに手を振っていた。
車にスピードがつき、次第に声が届きにくくなってくる。
ずっと深々と腰掛うつむいていたあさみが、耐え切れなくなり窓から身を乗りだした。
「ありがとー。みんなありがとー。ほんとにありがとー」
大きく大きく手を振る。
次第次第に小さくなっていく従業員達の姿。
共に働いた仲間達の姿。
やがて、見えなくなる。
ずっと暮らしていた牧場も、視界から消えていった。
あさみはシートに身を沈め一つため息をはく。
その両の瞳からは、しずくが流れ落ちていた。
あさみの肩をりんねが抱き寄せる。
りんねの肩に頭を乗せ、あさみは何も考えることもなく、思考を停止させたまま涙を溢れさせていた。
帯広空港から東京へ。
牧場から東京へ仕事に出る時はいつも乗っていた飛行機。
エコノミークラスに三人並んで座る。
窓際であさみは、空を見つめていた。
空と、飛行機の翼を見つめていた。
りんねは、その隣で眠っている。
あさみの肩に頭を乗せて。
里田は、スチュワーデスに渡された雑誌をひざの上に置き、パラパラとめくるが、目を通す
ことはない。
ぼんやりと座っていた。
飛行機は着陸態勢に入りシートベルト着用の指示が出る。
スチュワーデスが三人の方へと近づいてきた。
あさみは窓の外から視線を戻し、肩を揺する。
りんねは、あさみに揺さぶられ目を覚ました。
猫のように目をこする。
「シートベルトしろだって」
「うん」
ぼーっとしたまま、りんねはシートベルトを締めた。
三人は、そのまま無言で羽田空港に着陸した。
荷物を受け取り一階の到着ロビーへと出る。
「りんねはこれからどうするの?」
「ボイスレッスン行く。二人は?」
「私達は、とりあえず事務所」
「そっかあ。 じゃあ、ここでお別れだね」
「一緒に行こうよ途中まで。どっちにしろ電車乗るんでしょ」
立ち止まったりんねに、里田とあさみは振りかえる。
あさみの問いかけにりんねが答えた。
「ここでお別れにしよ」
「なんで? 途中まで一緒に行こうよ」
肩に担いでいたバッグを下ろしりんねは言った。
「私ね、今、仕事ないんだ」
あさみと里田の二人は、りんねの目をじっと見ている。
「ミュージカル終わってから、仕事ないんだ。だから、昨日も牧場行けたんだけどさ、
ホントは行こうかどうしようか迷ってた。行くのが怖かった」
旅から帰ってきた疲れを見せて歩く人達、久しぶりの再会に沸きかえる人達。
その片隅で、三人は向き合っている。
「仕事はない、予定がない。そんな状態で二人に会って、みんなに会って、平然として
られるか怖かった。軽蔑されるのも怖かった」
終わったばかりのミュージカルは、松浦亜弥主演として話題となったが、りんねの名前
はほとんど表に出てくることはなかった。
いまは、もう、小さな仕事でさえも予定には入っていない。
「でも、行ってよかったな。私には、帰る場所があるんだって思えた。帰る場所はある
けど、簡単に帰っちゃいけない。もっと頑張ろうって思えた」
切々と語るりんねの言葉を、あさみと里田の二人は神妙に聞いている。
ターミナルを行き交う人達の喧騒の中でも、りんねの言葉だけが二人の耳に入ってくる。
「カントリー娘。は二人にまかせた。あさみとまいにも頑張って欲しいなって思う。帰り
たいとか、私に返してとか、正直いろいろと思ったけど、今は、素直にそう思える」
あさみは、うつむいた。
りんねの足元へ視線を落とす。
「私は、私の道を行く。二人は、二人の道を行って。もう、別々の道を歩いてるんだよ。
だからさあ、今日は、ここでかっこよく別れない? 同じ電車で、先にどっちかが下りてあ
わただしく、じゃあねばいばい、じゃなくてさ。ここで、それぞれの道へ」
りんねは卒業の時でさえ、自分の思いをあまり話すことはなかった。
初めて聞くりんねの気持ち。
あさみは、ゆっくりとうなづいた。
「分かった。私もまいも頑張る、りんねも元気で頑張って」
「うん」
「絶対頑張ります」
「うん」
それぞれが一歩づつお互いに近づく。
あさみが手を差しだした。
「別に永遠の別れとかじゃないしさ、また会おうね、気軽に」
「あさみ、ホームシックとかなるなよ」
「馬鹿にするなよー」
三人に笑顔が行きわたった。
あさみが伸ばした右手をりんねがしっかりと握り返す。
里田が左手をだし、りんねの左手がそれに答えた。
「それじゃ、また」
「うん、またね」
あさみは、それだけ言ってカバンを担ぐと左手でまいの手を握り、りんねに背中を向けて
歩きだした。
その背中をりんねはじっと見つめる。
二人がプラットホームへと続くエスカレーターへと消えて行くと、りんねも歩きだした。
それぞれが、それぞれの道へと向かって行く。
カントリー娘。の一つの歴史が終わっても、すべての歴史は終わらない。
大きな思い出を胸に、新しい明日へ向かって、一人一人が歩きはじめた。
「みちしるべ」 終り