「え?」
「いいから戻るんだ!」
怒鳴り声に驚いたのだろう。
抱いている肩が、びくりと揺れた。
「で、でも……」
ちらりと、あさ美ちゃんの方を見る。
その視線に気付いたのか、あさ美ちゃんはゆっくりとその顔を上げた。
涙で、ぐしゃぐしゃの顔。
セットされた前髪が、水分で額に張り付いてしまっている。
「麻琴が! 麻琴がぁっ……!」
ようやく紡がれた言葉は、すぐに泣き声に掻き消された。
その先に何を言おうとしたのか、私には分からない。
しかし、スーツ姿の男にはそれが分かっていたようだった。
「救急車が直に来る。 楽屋に戻っていてくれ。 頼んだぞ、新垣」
「は、はい……」
冷静にそう言い捨てると、その男の人はすぐさまステージの方へと向かった。
ステージにはまだ、『初めてのロックコンサート』の六人がいる。
きっと、同じことを言いに行くのだろう。
私は自分でも驚くほど、落ち着きを取り戻しつつあった。
(麻琴ちゃんが、救急車が必要な事態に陥っている……)
それが、この騒ぎの原因。
転んで怪我でもしたのか、それとも貧血で気を失ってしまったのか。
麻琴ちゃんが歌えなくなり、『初めてのロックコンサート』は止まってしまった。
そのことに客が騒いでいるんだ。
何が起こっているのかさっぱり訳が分からない。
そんな状態から抜け出せたことに、私はひとまず安心した。
(あさ美ちゃんは、麻琴ちゃんを心配して泣いていたんだね……)
(私も、心配。でも救急車が来るんだって。もう、大丈夫だよ)
思いを込め、わずかに震えているあさ美ちゃんの手をぎゅっと握り締めた。
弱々しく握り返された手の感触には、不安の色が覗く。
ぽたり。
重なった二人の手の上落ちる水滴。
あさ美ちゃんはその大きな瞳から、拭うこともせずただ涙を流しつづけていた。
時折、ふるふると何かを振り払うように頭を振る。
『楽屋に戻れ』、そうあの男の人は言った。
確かに、ここに残っていても何もできない。
詳しい事情は飲み込めないが、言う通り楽屋に戻ろう。
「あさ美ちゃん、とりあえず行こっか……」
私はあさ美ちゃんを支えながら、歩き出した。
すぐそこのはずの、楽屋。
来た道と同じ道とはとても思えない程、その道のりが長く感じられた。
「新垣と紺野だ! ねえ、帰ってきたよ!」
楽屋の入り口前にいた安倍さんが、私たちを見つけ声を上げる。
中にいる他のメンバーにもそのことを伝えると、こちらへと駆けてきた。
「紺野!? どうしたのー」
何も聞かされていないのか、あさ美ちゃんを不思議そうに眺める安倍さん。
しっかりと、次のMr.moonlightの衣装に着替えを済ませている。
私はとりあえず部屋に行きましょう、と目配せをして伝えた。
小首を傾げながらも、安部さんは分かってくれたのだろうか。
あさ美ちゃんの背中をさすって、一緒にゆっくりと歩いてくれた。
そこは、いつも通りの楽屋だった。
愛ちゃんと加護ちゃん、石川さんと吉澤さんが楽しそうに話している。
明るい蛍光灯が、晴やかなそれらの表情を嫌味なほど際立たせていた。
「あ、安倍さんだ」
石川さんの一言に四人が一斉にこちらを向いた。
と同時に、すぐさま凍りつく四つの笑顔。
「どうし、たの……!? あさ美!」
愛ちゃんが、目を見開きながら詰め寄る。
それを制したのは、安倍さんだった。
「うん、まだちょっとね、落ち着いてないみたいなんだ……」
俯いて涙を流すあさ美ちゃんに、吉澤さんが黙って椅子を差し出す。
そっと腰を下ろすよう促すと、あさ美ちゃんは崩れるようにして椅子に座った。
「何も、聞いていないんですか?」
重い沈黙を恐れて、口を開く。
かすれた弱々しい声しか出せない自分が悔しい。
「ただ待機していろ、としか……」
質問に答えると、安倍さんはごくりと息を呑んだ。
きっとよくないことだ、とあの時の私と同じ予感が頭に浮かんだのだろう。
そしてそれは残りの四人も同じらしかった。