「希美ーっ!いつまで寝てるのーッ!!」
母親の声が廊下に響き渡った。辻はガバッと跳ね起きると時計を見た。9時を過ぎていた。
「ヤバッ…」
昨日、合宿の用意に夜遅くまでかかってしまい、8時にセットした目覚まし時計も無意識
で止めていた。枕元に用意しておいた洋服に着替えると慌てて階段を駆け下りる。
「全く、いっつも慌ただしいんだから…」
母親のぼやきを余所に、辻は急いで朝食を食べ終えた。
「行ってきまあーすッ!!」
普段より一際大きな声を張り上げる。
「忘れ物ない?お財布と時計とティッシュとハンカチと…」
「持ってるよぉっ。」
「先生の言うことをよく聞いて、みんなに迷惑かけないように!」
「分かってるってぇ!」
「何かあったら連絡するのよ。」
「はーい!」
「しっかり頑張んなさいよ!」
「うん!頑張るっ!」
大きなバッグを抱えて出かける希美の姿が見えなくなるまで、ずっと母親は心配そうに
見送っていた。
今日は待ちに待った合宿の日。空は辻の心のように気持ちよく晴れ渡り、期待に胸を膨ら
ませた小さな辻が、大きな荷物を物ともせずに元気良く学校へと向かう。
しばらくして、通学路の途中にある十字路にさしかかった時、辻の目の前に黒い大きな車
が止まった。助手席の窓が開き、見慣れないその車の中から萩原先生の声がした。
「何してたんだ、辻ッ!1時間の遅刻だぞ!!」
「え!?…えぇッ!?」
「皆はバスで先に行ったぞ。家に電話してもつながらないし、心配するじゃないか!」
「えっと…あれぇ!?…だってぇ…10時に集合って…。」
「何だって?連絡網で時間変更するって聞かなかったのか?」
「…え…えぇ?ぜんぜん聞いてない…」
萩原先生は訝しむように、辻の顔を覗き込んだ。未だに何が何だか分からない顔をして
呆然と立ち尽くす辻の姿に、嘘をついている様子はなかった。
「…まあ、過ぎたことは仕方ない。とりあえず車に乗りなさい。バスを追いかけよう。」
「…は、ハイッ!」
混乱する辻は、取るものも取り合えずに慌てて萩原先生の車に乗り込む。車は辻を乗せて
勢いよく発車した。この間、わずか1分足らず、辻は疑う間もなくあっさりと拉致された
のだった…。
バスケ部の顧問である佐藤先生のもとに萩原先生から電話があったのは、合宿の2日前の
夜遅くだった。ひっ迫したその声から緊急の用であることが伺える。電話の話では、萩原
先生の母親が倒れて入院したという。病状は重く、付き添いの介護が必要と言われたため、
バレー部の合宿に行けなくなってしまったということだった。
「管轄外のことで申し訳ないのですが、都合がよければ私の代わりに生徒を合宿に連れて
行っていただけませんか。」
○○学校では、毎年、バレー部とバスケ部で合同合宿を行うのが恒例となっていた。その
方が交通費も割安になるし、施設を管理する側にとっても何かと都合がいいからだ。萩原
先生は、バスケ部員と一緒にバレー部員を連れて、手の空いた時に自分の代わりにバレー
部の指導をして欲しいと頼んだ。
萩原先生は、持ち前の明るさと屈託の無い性格が、女性職員だけでなく男性職員にも好感
を与えていた。良く気の利く萩原先生は周囲から頼りにされ、信頼も高かった。そんな萩
原先生の頼みだからこそ、佐藤先生は快く引き受けた。
「…すみません。恩に着ます。」
そう言って、萩原先生は合宿の説明をおおまかに話し、生徒には無闇に心配させたくない
ので母のことは言わないで欲しいと頼んだ。気遣いの細やかな萩原先生らしいと思いなが
ら、佐藤先生は了承した。そして、萩原先生の母親の具合が良くなるように願っていると
伝えて電話を切った。
「…こりゃ、バレーボールのルールブックでも読まないとまずいな。」
佐藤先生は軽くため息をつくと、体育の教科書を取り出して勉強し始めたのだった。
その後、萩原先生から佐藤先生に電話があったのは、合宿の当日、集合時間の10分程前
のことだった。すでに、合宿所に向かうマイクロバスは到着しており、殆どのバレー部員、
バスケ部員が集まっていた。佐藤先生が集まったバレー部員達に萩原先生が合宿に来られ
ないという話をすると、がっかりした部員達がぶつぶつと文句を言っている。そんな時、
佐藤先生の携帯が鳴った。
「ご迷惑をおかけしてます。萩原ですが、うちの部員達は揃いましたか?」
「まだ揃ってないですねぇ。…あと3人ですか。えー…相沢と上岡と辻です。」
「その辻のことですが、今朝、私の携帯に高熱で参加できないという連絡がありました。」
「ああ、そうなんですか。では残り2人ですね。」
「相沢と上岡はいつも時間ギリギリなんですよ。あいつら、大丈夫かな…。」
「心配しなくても大丈夫ですよ。うちの部員もまだ1人来てませんし。一応、出発前に
連絡しますよ。」
「すみません、お願いします。」
萩原先生は、佐藤先生に色々と手を煩わせたことを重ね重ね謝ると電話を切った。
結局、相沢は集合時間1分前に、上岡とバスケ部の工藤はそれぞれ3分後、5分後に
到着した。
「工藤っ!上岡っ!遅刻厳禁だぞ。罰として合宿所に着いたら腕立て30だからな。」
「エェーッ!!」
「エーッじゃないだろ。遅刻で不戦敗になることだってあるんだぞ。」
工藤と上岡が渋々と頷いたその時、バレー部の部長の島田が手を挙げた。
「先生、辻さんが遅刻です。」
「ああ、辻は熱で休みだからいいんだよ。」
部員の中で不穏なざわめきが起こったが、佐藤先生の一括で止められた。
「静かにしなさい!さあ、さっさとバスに乗った乗った!」
佐藤先生は生徒を軽くあしらいながら、携帯で萩原先生に連絡を取る。今から出発する
旨を伝えると、萩原先生も安堵した様子であった。
合宿当日の朝、萩原は車の中から佐藤先生に電話をかけていた。時刻は7時50分。そう、
正しい集合時間は8時だったのだ。萩原は、辻の合宿参加が急に決まったことを利用して、
辻だけに故意に誤った集合時間を教えたのだ。もちろん、母親が入院したという事も、
辻が熱を出したという事も、全くの嘘である。萩原は、いつもの車とは違う黒いセドリッ
クを○○市内の路地裏に止めていた。そして、佐藤先生から出発の連絡を受けると、辻の
家の近辺に車を移動した。丁度死角となる道端に駐車し、中から双眼鏡で辻の玄関の様子
を伺う。9時半頃、辻が家を出たのを確認すると、辻の通学路を別の道から先回りして、
ちょうど十字路で辻とすれ違い様に車を止めたのだ。そして、辻は、萩原に言われるが
まま車に乗り込んだ。全ては萩原の思惑通りに進んでいた。
辻を車に乗せると、萩原先生は運転の合間に携帯電話で連絡を取った。正確には連絡を
取る振りをしたのだが、辻は全く気づかない。萩原先生の車の助手席では、小さな辻が
更に小さくなって落ち込んでいる。
「連絡ついたぞ。とりあえず、合宿所で落ち合うことになった。」
先生の言葉に、辻はホッと安堵のため息をついた。そして先生をおそるおそる見上げる
とやっとの思いで謝った。
「…先生…ごめんなさい…。」
「いいよ。知らなかったんだからしょうがないだろ。過ぎたことは気にするな。」
萩原先生のあっさりとした口調に、辻は救われる思いだった。
それ以後、これと言った会話もないまま沈黙が続いた。萩原先生の車は合宿所とは全く
別の方向に向かって走っていたが、子供の辻には分からなかった。辻は外の景色を
ぼーっと眺めながら今朝の事を思い返していた。
(…なんで、うちだけ連絡網がこなかったんだろ?)
(…それに、今朝、電話がつながらなかったって、どういうことだろう?朝、お母さんが
電話使ってたのかなぁ?)
辻がいくら考えてみたところで、ありもしない連絡網と最初からなかった朝の電話の事
など分かるはずもなかった。しかし、今の辻には確かめる術もなければ、大好きな萩原
先生を疑えるはずもない。
(…やだなぁ。せっかく、初めてのレギュラーだから、頑張ろうって思ってたのに。
最初っからドジしちゃったよぉ…。先輩、怒ってるかな…。)
考えれば考えるほど悪いことばかり頭に浮かんできて、辻はまた落ち込んでしまった。
そんな辻の視界に、突然、明るい景色が広がった。キラキラと光る、真っ青な海が見えた。
沈んだ気持ちがぱーっと明るくなっていく気がした。
「うわぁ、すごーい!海だぁっ!!」
思わず辻が叫ぶと、萩原先生が吹き出した。
「プールは嫌いな癖に、海は好きなんだ。」
「違うよぉ、プールだって泳がなければ好きだもん!」
「ははは、それじゃ意味ないじゃん。」
「あるのーッ!」
二人は笑いあった。
「…そういえば、辻は今年の夏、もう海には行った?」
「まだ行ってない。」
「おっ、じゃあ、今年の初海、行っとくかあ?」
「ええええーっ!!…で、でも、先生、そんなことしていいのぉ?」
「いいっていいって、授業じゃないんだから。今からじゃ、合宿に行っても練習に間に
合わないし。夏休みのスイミング教室の成果を試すいいチャンスだぞー。」
「うえええ、泳ぐのぉ?」
「泳いで、遊んで、食べる!これで文句ないだろ?」
「それイイーッ!!…でも、私水着持ってない。」
「そんなもの、デパートで買えばいいだろ。」
「お金ないもん。」
「いいよ。先生が買ってやるから。」
「ウソぉ、本当にィ!?」
「ああ、交通費を考えれば安いもんさ。ただ、他の人には言うなよ。」
「うんうん。秘密だね!」
「そ、2人だけの秘密。」
もう、辻の頭には合宿のことも今朝の失敗も無かった。ただ、先生と海に行けること、
そして2人だけの秘密が出来たことが、何よりも嬉しかった。
萩原先生と辻は、海辺で見かけた適当なデパートに入って水着を買った。萩原先生はスポ
ーツタイプの水着を選び、さんざん迷って辻が選んだ水着は青い柄物のワンピースだった。
萩原先生は辻が迷っている間に日焼け止めやバスタオルなどの小物を買っていた。
デパートを出ると、辻はもう嬉しくて、半分スキップをしながら車に戻る。萩原先生は
海辺の駐車場に車を移動すると、2人で海の家に向かった。
「先生ッ、おなかすいたぁ〜。」
これが、海の家に着いた辻の第一声だった。時計を見ると12時を回っている。
「よし、じゃあ着替える前に昼にしよう。辻、好きなもの頼んでいいぞ。」
先生の言葉を聞いた途端に、辻は真剣な顔でメニューとにらめっこを始めた。
「えーっと…、うーんとねぇ。焼きそばとぉ、たこ焼きとぉ、あとカキ氷ッ!!」
「おいおい、そんなに頼んで大丈夫か?」
「うん!それからクリームソーダも頼んでいい?」
「いいよ。俺はカレーライスにウーロン茶で。」
「かき氷は何味に致しますか?」
「えっとぉ、イチゴシロップ大めにして下さ〜い!」
「辻、量は聞いてないから。」
しばらくして、辻の目の前に料理が運ばれてきた。
「いったらっきまあ〜すッ!!」
よほどお腹が減っていたのか、辻は至福の表情で食べ始めた。体格の割りには大食いの辻
だが、食べる早さは普通より幾分遅い。萩原先生が食べ終わる頃、辻はまだ料理の半分も
食べ終わっていなかった。
「いいから、ゆっくり食べなさい。」
萩原先生はそう言うと、辻の食べる姿をいつまでも嬉しそうに眺めていた。
辻が昼食を終えると、2人は水着に着替えて海に出かけた。
「うわあい!」
辻が両手を挙げて走って行く。
「走ると転ぶぞーっ」
しかし、辻には先生の注意の声も聞こえないようだ。辻はそのままざぶざぶと浅瀬に入り、
キャーキャー叫びながら水と戯れて遊んでいる。萩原先生はしばらく辻の様子を浜辺で
眺めていたが、辻に引っ張られて浅瀬に連れ込まれると、一緒に水かけっこをして遊んだ。
海で遊び疲れると、2人は砂浜で棒倒しをして遊んだ。
「アッ!…や〜ん、負けた〜!!」
「はははっ。また辻の罰ゲームだ。ほら、モノマネして!」
「くっそ〜。じゃあ、今度は羊のマネね。行くよ?…メヘヘヘヘヘヘヘヘヘッ!!」
「おおっ、すっごい似てるじゃん。」
楽しい時間は過ぎるのも早い。気付くと3時を過ぎていた。
「先生ッ、おやつの時間だよ〜!」
萩原先生は、辻にねだられてソフトクリームとラムネを買った。
「辻…、そんなに食べると太るぞ〜。」
「太らないもん!」
「今は良くてもな、そのうち太るようになるんだよ。」
「太る太るって言わないでよ、も〜。…気にしてるんだからぁ。」
辻の声が小さくなる。辻はお腹をさすって、不安げに腹部を眺めた。どうも、この前の
体重測定で少し増量したのを気にしているらしい。
「だからさ、食べ終わって休んだら、少し運動しよう。」
「お、泳がないよっ!」
「分かった分かった。」
萩原先生はビーチボールを買うと、2人は浜辺でビーチバレーをして遊ぶ。
「バレーの練習の代わりだな!」
そう言って先生は笑ったが、辻はいつもの練習より100倍楽しいと心の中で思った。
5時頃、風が薄寒くなってくると、萩原先生と辻は海の家に戻り洋服に着替えた。
そして最後に、辻はホットケーキとオレンジジュースを、萩原先生は珈琲を飲んだ。
海に夕日が落ちる頃、萩原先生と辻は貝殻を探しながら浜辺を歩いていた。砂浜に落ちて
いる小さな貝殻どれも部分的に欠けていた。その中から、色が綺麗な桜貝や、形の可愛い
帆立貝などを選んで大事にポケットにしまう。そこに、萩原先生が少し大きめの巻き貝を
見つけて来た。
「ちょっと小さいかもしれないけど、耳にあててごらん。」
「うわ〜、すごい綺麗!!」
巻き貝は口の部分が少し欠けているだけで、綺麗な渦状をしていた。辻が耳にそっとあて
ると中からコオォォオという音がこだましているのが聞こえた。
「海の音だよ。」
「ホントだ…。小さい海が入ってるみたい…。すごーい…。」
辻は巻き貝を耳にあてたまま、音に聞き入っていた。
「それ、辻にやるよ。」
「エッ?」
「気に入ったみたいだから。」
辻は両手で大事そうに巻き貝を持つと、嬉しそうに頷いた。
「先生ありがとう。ののの宝物にする…!」
そう言って笑った辻の笑顔は、萩原先生が見たどの笑顔よりも美しかった。
2人が車に戻る頃にはもうすっかり暗くなっていた。
「うわぁ、随分遅くなっちゃったな。」
「先生、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって、あと30分もすれば着くよ。」
それを聞いた辻はホッと安堵する一方で、少し残念にも思った。
(先生と2人っきりでいられる時間はあと30分だけ…。)
助手席で考え込んでいた辻が思い切ったように先生に話しかけた。
「あの…、先生に質問があるんですけど!」
「何だ、急に改まって?」
辻が目を逸らす。
「えっと…、その、大したことじゃないんだけど…」
俯いた辻が口ごもった。
「その、先生はまだ結婚してないって…聞いたんですけど…」
萩原先生は内心で苦笑した。
(急に辻の口調が変わったから、何事かと思えば…。)
「そうだよ。先生はまだ独身です。」
「…そのぉ、先生は今、彼女とかいるんですか?」
語尾が少し震えた。辻は俯いたまま顔を赤らめた。
「…現在募集中ってとこかな?」
「エッ、いないの?」
「失礼だな。いないと何かまずい?」
「ううん!いない方がいいの、だって…」
辻が語尾を濁した。
「だって、何?」
先生が聞き返すと辻は黙ってしまった。
(だって先生が好きだから…なんて言えない。笑われちゃう…。)
辻が沈黙していると、先生が独り言のように呟いた。
「先生もね、そろそろ結婚しないとって思うんだけど、先生みたいな安月給だと難しいん
だよ。先生、体力以外に取り柄ないし。」
「そんなことない!先生、すっごくカッコイイし、すっごく優しいし。
…私が大人だったら、…絶対先生みたいな人と結婚したいと思うもん。」
「ありがとう。辻にそう言ってもらえると、先生も嬉しいよ。」
今の辻にはこれが精一杯だった。辻は先生の横顔を見ながら思った。
(どうしてののは子供なんだろう。大人だったら、もっと堂々と先生に好きだって言える
のに…。あーあ、早く大人になりたいなぁ…。)
その後、車に乗ってから30分もたたないうちに、辻は遊び疲れて眠ってしまった。萩原
は車をそっと道端に止めると、辻が眠ったままかどうかを確認した後、あらかじめ用意し
ておいたクロロホルムの瓶を取り出し、自分のハンカチに染みこませると、そっと希美の
口元にあてる。これで、希美はしばらくの間、目を覚ますことはないだろう。
萩原は安らかな辻の寝顔を覗き込んだ。
(幸せな夢を見るといい。次に目を覚ました時は…。)
萩原の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
(…俺の腕の中だ…。)
そして、車は闇の中に消えていった。