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辻っ子のお豆さん:
「なっつぁーん、うち夏休暇とれて暇やねん。そっち遊びいくで〜!」
「亜依!」
「せっかくやから色々連れてってーな。案内頼むわ〜」
孤児院を出て途方に暮れていると、携帯の着信メロディが流れ、元気な友人の声が聞こ
えてきた。急な申し出だったが、その甘く騒がしい声は、廃れていた私の心を暖かくして
くれた。あいぼんとは東京駅で待ち合わせの約束し、私は再び駅へと足を進めた。何だか
慌ただしい一日だなと思った。朝に衝撃的な事実を聞き警察署を飛び出し、昼は見たこと
もない山村の孤児院を訪ね、今は東京へ向かっている。でもそうでもしていないと、じっ
としていると何かに押しつぶされそうで堪らなかった。久しぶりにあいぼんに会えるとい
う気持ちが私の孤独と不安を掻き消しているのは事実だった。
日も西に傾きかけた頃、私は東京駅で加護亜依と再会を果たす。
「あー!なっつぁんだぁー!なっつぁーん!」
「亜依、久しぶり。大きくなったねぇ」
「なっつぁんは小さいままやなぁ」
「ちょっとどこ触ってんの!誰がおっぱいの話してんのよ!」
「あれ、違うん?ニャハハハ…」
無垢な子供みたいに笑う亜依、その天使の様な微笑みは、一緒の病院で過したあの頃の
ままだった。ずっと頭にあった嫌なことがすっかり消え失せた気がする。
「どこに行く?亜依」
「うーん、せやなぁ」
「どこでもいいよ。どこでも付き合ってあげる」
「原宿!うち原宿行ってみたい」
山の手線に乗り換え、私と亜依は原宿駅へと降り立った。夏休み中ということもあり、
原宿はたくさんの人で溢れかえっている。亜依はもの珍しそうにキョロキョロと走り回り出した。
「もう待ってよ亜依!迷子になるよ!」
「大丈夫大丈夫、いつまでも子供扱いせんといてや」
私が呼び止めても、亜依は嬉しそうにケラケラ笑っているだけでちっとも聞こうとせず、
次から次へと色んなお店を覗き回っている。そして予想通りはぐれてしまった。
「…ったく、しょーがないなぁ」
少し考えた後、私は駅の前に戻って待つことにした。どこへ行くにしても必ずここに
戻ってくるだろうと思ったからだ。私は壁にもたれ掛かり、道行く人々を何気なく見ていた。夏の夜は長い、もう6時は回っているはずなのに、まだ昼みたいな明るさである。
優しい風が吹いた。
道路を一つ挟んだ向こう側の歩道で、ちょこんと座っている一人の女の子が眼に入った。
黒い髪をお団子にまとめ、何かを待つようにじっと座り続けている。その娘に私はなぜか
見覚えがあった。そして思い出した様に、カバンから一枚の写真を取り出した。石川梨華
の家を訪れたとき、そこの写真立てからこっそり取ってきた写真である。写真の中で、良
く似た二人の少女が並んで笑っている。道路の向こうで座っている娘にその面影があった。
信号が青に変わる。私は静かに足を踏み出した。
「あの…」
声を掛けると、座る娘は静かに顔を上げた。こぼれそうな大きな瞳で、無言のままこち
らを観察している。声を掛けたはいいものの、何て言えばいいのか分からなくなってきた。
というよりどうして私は彼女に話し掛けたのだろうと思ってきた。少し自棄になった私は
とりあえず例の写真を彼女に見せた。
「えっと、もしかしてこの写真の子ですか?」
座る娘は写真を見る、そして無言のまま首を横に振った。私は恥ずかしくなってきた。
いきなり見ず知らずの子に声を掛けてこんな質問。これじゃまるで変なナンパだよ。自分
でもどうしてこんな真似したのか、よくわからなかった。私は写真をカバンにしまうと、
小さく誤って回れ右して、その場から立ち去ろうと、逃げ出すように走り出した。
(なにやってんだろ、私)
(そんなこと聞いてどうする気なのよ、あー恥ずかしい)
(それより亜依を探さなきゃ)
(あんな子、全然知らないし、関係もないし、気にもならな…)
「…!」
それは夢ではなかった。
目の前にマキがいた。
金色の髪をなびかせたマキが泣いていた。泣きながら微笑んでいた。
足を止めた私は、もう一度後ろを振り返った。
座っていた娘が立ち上がっている。じっとこちらを見ている。そしてその眼は濡れている。
口は何かを訴えかけている。ようやく聞き取れた言葉は…
「辻です」
体中にビリリと電気が走る感覚、足が再び向きを変えて進み出す。
原宿でしよう。宇宙の何処にも見当たらない様な…。
約束がある。永遠に叶うことのないと思っていた約束…。
失った記憶。愛していた人がいる。守りたい人がいる。
マキが、私の背中を優しく押す。
私は辻と名乗る娘の前に歩み寄り…
1. 口付けを交わした
2. 頬を撫でた
3. ゲンコツで殴った