772 :
辻っ子のお豆さん:
私は刃物を手にした腕をピタリと止めた。何か様子がおかしい。
「私が貴方を刺したのは、貴方が犯人だと思ったからよ。ののちゃん」
「嘘吐くな!お前しかいないんだ!だから私は…!」
「お願い信じて!私もののちゃんを信じる…だって」
「……ウソだぁ」
「だって…たった二人の生き残りなんだもん。ののちゃんが生きていてくれて嬉しい」
石川梨華は涙を流して、だけど微笑みを浮かべた。頭の中がもう滅茶苦茶でどうしてい
いのか分からなくなってきた。石川梨華は犯人ではないっていうの?じゃあ誰だっていう
の?真希さんを殺したのは誰だっていうの?わかんないよ。
「でも私が貴方を傷つけたのは事実、私はどんな裁きでも受けるわ」
「やめて…わかんないよ…」
「だけど、これだけは信じて。私は他の誰も傷つけてはいない。本当よ」
「嘘だ。嘘だあああああああああああ!!」
この四年間、ずっと信じ続けてきた信仰が音を立てて崩れ落ちてゆく。ずっと彼女だけ
を恨み続け、それだけを糧にして生きてきた私の全てが否定されてゆく。目の前で泣きな
がら訴え続ける石川梨華は、嘘をついている様には見えなかった。だからこそ、もうどう
していいのかわからなくなってしまった。気がつくと、私はその場を逃げ出していた。
「待って!待って!ののちゃん!」
捨てたはずの私の本名を呼ぶ声が後ろでした。その声は、確かにあの島で聞いた優しい
梨華さんのもの、そのままだった。
(真希さん…)
(よっすぃー)
(麻琴っちゃん…)
(あさ美…)
(里沙…)
(あいぼん…)
(のの、どうしたらいいの?)
私は学校を抜け出した。そしてもう戻る気もなかった。その必要がなくなったからだ。
夕暮れの坂道を抜け殻の様に歩き続ける。生きている意味さえ失った様な感じだった。
トクン……
ふいに胸の鼓動が一つ高鳴る。
西日に照らされた坂の向こうに一人の女性がいた。
トクン……
また鼓動が一つ。気が付けば、五感全部がその女性を追っていた。
私の視線と彼女の視線が重なり合う。その瞬間、私の体に何かが走った。
(真希さん…!)
顔も背格好も違うその女性に、私はなぜか真希さんを感じた。そんなはずはないのに。
だけど胸の鼓動が止まらない、震えが止まらない。喜びや、色んな感情が渦巻く。
「生きて…いたの…」
「誰?」
それが彼女からの答え。当然の返事だった。だけど…だけど…なぜか涙が止まらない。
どう見ても彼女は真希さんではないのに、真希さんは死んだはずなのに…
手が足が胸が頭が全てが…私に訴えかけているんだ。彼女は後藤真希だと。
「ねえ、あなた誰?私の事知ってるの?」
不振そうな表情を浮かべた女性はさらに尋ねてきた。胸がチクリと痛んだ。真希さんは
もう私のことなんて忘れてしまった。そんな自分勝手な気持ちが胸を締め付ける。女性が
近づいてくる…真希さんが近づいてくる。真希さんの手が私の手に近づく。四年前、あの
約束の後から永遠に離れ離れとなったその手と手とが…また。
「なつみさ〜ん!」
坂の向こうからしたその声に、ビクリと手が離れた。なつみ…真希じゃない…なつみ。
私は振り切るように走り出した。真希さんじゃない!
走って走って駅前の商店街まで走った。ショーウインドウに自分の姿が写っていた。
汗だくのそれでも輝く美しい娘が写っていた。そこに辻希美の面影はどこにもなかった。
(でもねののちゃん。やせるやせないより、もっと大事なことがあるんだよ)
(なに?)
(外見じゃない、ありのままの自分を見てもらうこと)
(きれいになったののを見てもらうことと違う?)
(ウーン、まだ難しいか、そのうちののちゃんにも分かるよ)
4年前、島で梨華さんとした会話が今、なぜか頭の中に浮かび上がってきた。
今なら分かる気がします。ありのままの自分…
私は長く伸びた髪をくるっとお団子に結んだ。そしてお菓子屋さんに入った。
ずっと封印していたお菓子を口にした。おいしかった。泣きたくなるくらいおいしかった。
鏡の中で幸せそうにお菓子をほお張るその姿は…辻希美だった。
そして私は電車に乗った。行き先は約束の場所…
私はいつまでもいつまでも待つ。
彼女があの人ならば、きっと来てくれる。私を迎えにきっと来てくれるから…。