敵が統制を取り戻し始めていると知り、矢口は退却を命じる。血の気が治
まらぬ吉澤の耳を引っ張り、すでに退却し始めた後藤の後を追う。車にたど
りついた矢口は、当惑している様子の後藤を問いただす。
「どうしたの、後藤」
「石川が……石川がいない」
「え? ちょっと、どこいったの」
「ヒョー、あそこにいるの、梨華ちゃんじゃない?」
吉澤の示す方向を見ると、炎を背に激しく剣を振るう影があった。混乱した
敵を挑発して死に物狂いで立ち向かっていく。
「あいつ、何やってんだよ〜」
矢口が走り寄り石川を後ろから掴まえる。返り血でドロドロの身体は滑りや
すかった。
「このド糞野郎ども! 豚臭ぇ尻なますに刻んでやるから出て来やがれ!」
石川は普段の上品さからは想像もできないほど荒れていた。小さな矢口が引
っ張って引っ張りきれるものではない。矢口と石川が行きつ戻りつしている
間に貴重な数秒が失われた。
“パンッ!”
乾いた音が響き、石川の背中から矢口がずり落ちた。火薬の匂いが立ちこめ
る。後藤と吉澤が駆け寄る。足元に転がる矢口を見て、石川が呆然と立ちつ
くす。吉澤が矢口を抱え、後藤が石川を引きずって車に戻る。ドアが閉まる
と同時にホイールを軋ませて車が飛び出す。
車内は暫し沈黙に覆われていた。ハンドルを握る吉澤は前を凝視し、後部
座席の後藤は抱えた矢口の傷を見ながら、後ろの追っ手を気にかけていた。
石川はただ黙って、自分の膝の上の握り拳を見つめて震えていた。
「どうしたって言うんだよ! 梨華ちゃん!」
運転する吉澤が突然大声で問うと、助手席の石川は萎縮した。後部座席から
聞こえる矢口の呻き声が次第に弱くなっている。
「黙ってちゃ分かんないよ! 現に矢口さんが撃たれているんだ。何とか言
えよ!」
吉澤のいつにない怒りに、石川がようやくその重い口を開いた。
「私……燃える炎を見ていたら何が何だか分からなくなってしまって……」
荒くなる呼吸を何とか鎮めようと努力しながら石川は続けた。
「火が……火がみんなを焼いたんです。福田会長も、石黒さんも、市井さん
も、みんな火を点けられて生きながらに焼かれたんです、私たちの見ている
前で!」
石川は顔を手で覆って泣きだした。吉澤が見ると、石川の右腕に血が滲んで
いる。
「梨華ちゃん、怪我してるじゃん」
石川は吉澤に掴まれた腕を反射的に引っ込めた。その勢いで袖の裂け目が広
がる。
「梨華ちゃん、それは……」
石川は素早く隠したが、吉澤は見逃さなかった。裂け目から覗いた石川の腕
には惨たらしい火傷の痕が刻まれていた。石川もまた炎の洗礼を受けた一人
だったのだ。吉澤はそれ以上彼女を責められなかった。
後藤に支えられながら、矢口はうわ言のように呟き続ける。
「石川、怪我は軽いの? よかった。ところで、裏門の橋、もう少しで落ち
るんだけどさ、カントリーに任せて大丈夫かな……」
「他人の心配はいいよ。今は喋らない方がいい」
「に、新垣のヤツ……大丈夫かなぁ……オイラ、最後まで信じてあげられな
かったよ」
少し寂しそうな顔をして、矢口はゆっくりと目を閉じた。
「ヤグッつぁん! ヤグッ……!!」
後藤の悲痛な呼び声も今は虚しかった。
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