【T・E・N】 第80話 保田
石川が目の前の席にいる紺野の異変に気が付いたときには、すでに高橋が困
惑した顔で彼女の肩を必死でゆさぶっていた。
「〜! 〜!」
訴え掛けるような目で、声にならない叫びを張り上げているようでもあった。
「紺野・・・どうした・・・?」
吉澤の呼びかけにも、紺野はただ左手で口を抑えて首を振るだけ。
何が起こったんだろう。
ノドに食べ物でも詰まったのかな?
やがて握っていたフォークをテーブルに置いて、小刻みに震える左手で何か
宙を掴むような仕草をする紺野。
石川の生やさしい推測は、一瞬で揺らいだ。
目の前に差し出された紺野の手のひらが、真っ赤な液体で染まっていたから
だ。そしてまだ幼さの残る顔。その口の周りも、赤く。
(血・・・?)
そう連想した瞬間、石川は叫び声を上げていた。
誰かが肩を抱いている。何か言っている。でも自分の叫び声でそれもかき消
された。
「きゃああああああああ!!!!!!!!!」
「梨華ちゃん! 梨華ぁ! 違うんだ! 落ちつけって!」
ネガティブにパニック状態が加わり石川は状況を把握出来ないまま、思考が
停止している。頭の中にリピートされているのは、何かとんでもないコトが、
紺野の身に起こったという認識だけ。
うずくまって泣き叫んでいた石川を、吉澤が無理矢理立ち上がらせる。
「あうううう! あんあああん!!」
「よく見てみろよ! ホラ!」
なぜこれほどまで周囲が落ち着いているかが、石川には理解できなかった。
「・・・!?」
ようやく目を見開いて、紺野を正視してみる。
紺野は平然とした顔で、飯田から奪い取った(と思われる)グレープフルー
ツジュースをがぶ飲みしている。
ごくごくごく。ぷはーっ。
「紺野・・・?」
「ふーっ、死ぬかと思いました」
いまだに周りが真っ赤な口で、そう言い放つ。
「え・・・? 紺野?」
「うまいっすね、このオムライス」
「・・・その・・・血は一体・・・」
「?」
紺野はグラスに入ったジュースを一滴も残さず飲み干し、キョトン、とした
目で石川を見つめる。空になったグラスをテーブルに置くと、自分の手のひら
の赤い液体で表面が汚れているのに気が付いた。
「あ、やだ、ケチャップが」
「はぁ?」
「私、オムライスはケチャップ派なんです」
その紺野の言葉で、ようやく石川は自分がとんでもない勘違いをしていたコ
トに気がついた。
あまりにも夢中になってオムライスをがっついた紺野は、当然のごとく喉に
ピラフが詰まって苦しんでいたのだった。
「あたし、てっきり料理に毒でもはいっているのかと・・・」
「はぁ? なんでぇ?」
「だってだって! ケチャップが血に見えたもん!」
食堂が呆れていいのか、笑っていいのか良く分からない雰囲気に包まれた。
紺野は、高橋から手渡されたナプキンで汚れた口の周りを丁寧に拭いて、申
し訳なさそうな顔でうつむく。
「すいません、お騒がせしたみたいで・・・」
「も〜、でも紺野らしいっちゃあ、らしいけど」
「せっかくデミグラスソース作ったんだから、ケチャップにすんなよー!!」
「いや高橋、そうゆー問題でもないだろう」
保田も周囲に同調してみせたものの、実は石川と同じく紺野の身に何かが起
こったのでは、と思ってしまったので、無事を確認しホっと胸をなで下ろした。
「そうだ! 保田さんの話きかせて!」
石川が自分の失態をごまかすためか、強引に話題を切り替えようとしてきた。
「あ! 俺もききたい! 犬神にゃんこだっけ?」
「ね・こ!」
保田は憮然とした表情で、吉澤の間違いを訂正する。
「なんかね、ほとんど人が今日になって始めて知ったんですよ!」
「知ったって・・・私イコール犬神音子ってこと?」
「ううん。それもあるけど、今日ココに圭ちゃんが来るってこと自体」
「マジぃ!? 加護は?」
「・・・ビックリしました」
「ね、ね。聞かせてよぉ、今どんな仕事しているの?」
石川が目を輝かせながら訊いてくる。高橋に目をやると、話してやりなよ、
といった視線で返された。
「うーん、ラジオ、だねぇ今は。ホラあたし、こんな顔じゃん」
そこで食卓を囲んでいるメンバーの動きが、ピタッと固まる。
やがて高橋や安倍が静かに、首を横にゆっくり振る。悲しい目をしているが
じゅうぶんキレイだよ、といいたげな表情を向けている。
(でもね、この髪の下は・・・)
保田はあまり自らの顔の傷について触れるのは辛いが、だからといって何も
言わずに周囲に気を遣わせるのも不自然だと思った。
「だからね、あんまり人前に出れないからねぇアハハ、まああんまり娘。の頃
からアイドルっぽくなかったけど。とにかくどんな形でも歌いたかったの」
保田は現役時代から顔で売っていたわけじゃないし、ということを踏まえな
がらあくまでも冗談っぽく言う。だが顔に傷が残るということは女性にとって
死を宣告されるに等しいことであり、それとは全く別問題といっていい。
絶望的な状況に置かれながらも自分の夢を貫こうとする保田の強さにメンバー
は改めて畏敬の念を抱いたし、あちこちから上がる溜息に近い「へぇ〜」といっ
た相槌の声には、そういった感情が込められていた。
「私、ぜんっぜん知らずにCD買いました!」
「ホント? ありがと〜石川〜。
『もう逢えないのに』? それとも『ナカマダチ』のほう?」
「『ナカマダチ』! 今思うと、あの歌詞って私たちのことだったんですか?」
「へへへ、まあ分かる人には分かる、みたいな」
徐々にブレイクする兆しは見せているものの、まだラジオといった場でくす
ぶっているといった状況の中で、やはりテレビを中心に仕事をしている安倍や
矢口には、あまり犬神といった名前自体にも馴染みが無いようだった。それに
比べて石川は、犬神がかつての仲間であることを知らなかったという割には、
いろいろと詳しいので素直に保田自身も驚いた。
他のメンバーにとっても、保田がどういった道のりでここまでの成功を掴ん
だのかといったことは割と興味津々のようで、目の輝きがそれを物語っている。
「ねぇ、今はもう、次の曲をやってるの?」
「うーん、アルバムのリリースが決定したんでそのツメの作業にとりかかって
いるところだけど・・・もしかしたらセカンドの売れ行きが良かったら、発
売前にシングルカットされる曲があるかもしんない」
「ど、どんなの」
「曲だけはもう決まっているんだ。実は高橋が・・・」
「はいっ! 歌詞を担当させていただいています!」
「スゴイスゴーイ! 曲名は?」
「えーっとね、『3度目の奇跡』です!」
そこからは高橋と保田、ふたりがメールのやりとりをしながら一つの音楽を
作り上げていく過程―――それもここ数カ月の間のことだが―――を丁寧に説
明していった。飯田は感心しながらも、少し羨ましそうな表情で、じっとその
話に「魅入って」いた。耳を傾ける、のではなく。
「保田さん」
「何? 加護」
「保田さんのアメリカでの生活も、どんなだったか聞きたいです」
「・・・・」
加護は、あからさまに「あのこと」について知りたがっている。
(・・・どこから話そうかな)
保田にとって、この5年間のうち大きな転機になったのは3回ある。
ひとつめは、治療のために渡米することを決意した5年前。
ふたつめは、そのアメリカで後藤の死に立ち会った2年前。
みっつめは、それまで専念していった治療をいったん止めて、歌手活動を再
開させることを決意した1年前。
それぞれが密接に絡み合って、現在の保田がいる。
どれか一つでも欠けていたら、と自分でも思うことがある。病院で今でも腐っ
ていたかもしれない。歌手活動を再開させようなんて、思わなかったかもしれ
ない。
奇妙な偶然の巡り合わせで、たまたまラッキーなことにモーニング娘。のと
きから抱いていた夢に一番近いポジションにいる。
でも突き詰めていくと、決して楽な道のりではなかったし、聞いていて楽し
い話でもない。そこに保田が悩み、躊躇する原因がある。
特に避けて通れないのは、後藤についての話だ。
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