【T・E・N】 第71話 辻と安倍
「あべさぁん・・・」
辻の甘ったるい声。
「のの・・・無事なの?」
「あべさん、おろしてくらさい。
ここは、とってもこわいんれす」
ステージにぽっかり空いたマンホールぐらいの大きさの穴から、じたばた手
を振っている辻を下から見上げる安倍。
テレビに出演しているときなど、二人が隣同士になると必ず辻のほうから手
を握ってきた。本来なら、本番中にそんな行動はあまり好ましくないのだが、
スタッフも他のメンバーも黙認していた。どのメンバーも辻に甘えられるのが
大好きだったし、そしてスタッフもそんな辻を見て心を癒されていたのだろう。
こんな非常事態でも、いやこんな状況だからこそ辻の甘えた声を聞き、安倍
はじんわりと心が和んだ。
恐る恐るではあるが穴の真下まで進み、安倍は背伸びをしつつ腕を伸ばして
しっかりと彼女の手を握りしめた。
あたたかい。
「ああっ! のの!」
「あべさん・・・」
今すぐにでも抱きしめたい。
一時期、安倍と辻だけがユニット参加がないという時期があった。安倍は決
して口に出して言うことはなかったが、辻本人も薄々感じていたのではないか。
なぜモーニング娘。にこのコを選んだのだろう、と。同時加入した4人のう
ち、辻だけを仲間外れにするなんて非道い仕打ちをするぐらいなら、いっその
こと選ばれなかったほうが・・・。
やっと分かった。
辻はみんなの心を優しくするために、いたんだね。
モーニング娘。に舞い降りてきた天使なんだよね。
突然、安倍の握っていた手にググッと力が入り、引っ張られるような感覚に
陥った。
「ちょ、ちょっとぉ・・・」
安倍は動揺した。
このままでは辻が安倍の上に落ちてきてしまう。さっきの彼女の言葉を思い
出す。
「おろしてくらさい」
辻の身体は安倍の重さにひきずられて、すでに胸のあたりまで穴から飛び出
している。そのまま落下すれば2メートル強という高さと、鉄骨と瓦礫の入り
乱れた足場で、さらに怪我を負ってしまう恐れがある。
「のの、ちょっと待って、誰か呼んでくるから、ちょっと」
だが握った手は弱まるどころか、さらに安倍の手のひらを強く強く締めあげ
る。安倍は思い出した。そういえば辻はモーニング娘。の中で、一番の力持ち
だったことを。
ドサッ。
結局、安倍の胸で受けとめるような形で辻は落ちてきた。
二人とも崩れるように、重なり合ったまま倒れ込んだ。
「ううん・・・」
安倍にとってその衝撃はかなりのものだったが、胸や背中を強く打ちつけジ
ンジンと痛むものの、身動きがとれないという程のものではなかった。
上に覆い被さっている辻が、やけに軽く感じられる。その辻が申し訳なさそ
うに言う。
「すいません、あべさん・・・。だいじょうぶれすか?」
「・・・のの?」
「れへへ、あべさんらいすき・・・」
いきなり安倍は、胸に抱いていた辻を突き飛ばし立ち上がった。そして後ろ
に飛び退いたものの、ステージの骨組みが背中につかえてすぐに足が止まって
しまった。視線は辻に釘付けになっている。
「あ・・・あべさん、どうしたんれすか?」
辻は、震えている安倍の足首をつかむ。
「いや・・・離して・・・」
「あべさん、たすけてくらさい・・・」
「離してったら!」
足をじたばたさせるが、今度は両手で左足首を握りしめる辻。この小さな体
のどこにそんな力が宿っているの?と驚くほどで、かっちりと鎖を巻き付けら
れたかのように床に安倍の左足が固定された。
「とってもさむいんれす。ののをひとりにしないでくらさい・・・」
「イヤッ! 離して・・・」
「おねがいれす、ののをひとりに・・・」
「離してよぉ! うああああ!!!」
安倍はつかまれていないほうの右足で、がんがん蹴りつけた。
辻の左肩から脇、背中や腰を。
二度、三度。
「離せぇぇ!!!」
四回、五回、六回。
がん。
がん。
がん。
「あ・・・あべさぁん?」
がん。
がん。
がん。
もう何度蹴っただろう。
「あああああああああああ!!!!!」
がん。
足首を掴んでいる手がパッと離れて、辻はごろごろと床を転げ回る。そこで
ようやく安倍は我にかえった。
うずくまって震えているいる子犬のような辻を、茫然と見おろす。
辻は力尽きて手を離したのではなくて、愛する先輩・安倍に蹴られたことが
ショックで手を離したのだ。そのことが蹴った本人にも痛いほど伝わってくる。
いつの間にか、安倍の両頬は汗と血と化粧とススと涙が入り交じり、ボロボ
ロになっていた。
「た・・・たすけ・・・」
うつ伏せになった辻が顔を上げようとしたが、安倍はもう目を合わせようと
することなく背中を向け、その場から逃げだした。
涙で前が見えない。
何度も鉄骨に頭や足をぶつけるが、そんなことはお構いなしに、一刻も早く
辻といた場所から遠ざかろうと必死に前に進んだ。自分では全力で走っている
つもりだった。
「たすけて」
「ののをひとりにしないでくらさい」
「あべさんらいすき」
どんどん距離は開いているはずなのに、安倍の耳にまとわりついて離れない
舌足らずな辻の声。
(違う「あれ」は、ののなんかじゃない・・・!!)
鉄骨をいくつかくぐり抜けたところで、ライトの電源コードが安倍の足に絡
み付く。
そのまま、すてん、と転んでしまった。
(違う、違う、違う。
私の知っている、ののとは違う)
涙を拭いながら黒いコードを必死になってほどこうとするが、気が動転して
いるためか、ますます複雑な結びになってゆく。
(だって・・・だって私の知っているののは)
・・・・・・・・
「私の知っているののは、足がちゃんとあるもの!!」
安倍はコードを握りしめたまま、しゃがみこんで泣き崩れた。
もう、声にすらならない。嗚咽で息苦しくなり、吐き気すらもよおしてきた。
瞼の裏に焼き付いて離れない、辻の蹴り飛ばされながらも寂しそうに安倍を
見つめる瞳。
ふと、人の気配を感じた。
縦横無尽に床を走るコード。それを踏みつけ堂々と大股に構えている足を、
安倍はぼんやりとした視界の隅に捉えた。自分たちと同じ、ピンクのラメの
はいったパンツルックのコスチュームを身につけて立ち尽くしている。
「なんてことを・・・」
小川が今にも泣き出しそうな目で安倍を見下ろし、つぶやいた。
【71-辻と安倍】END
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