【T・E・N】 第70話 安倍
何?・・・
真っ白だ・・・
ここどこだろう・・・
<断片的な記憶しか残ってない>
楽屋で落ち込んでいた、ののに声をかけた。
いつもより豪華な幕の内弁当。
圭ちゃんのヒレカツを分けてもらった。
明後日収録がある「どっちの料理ショー」の台本を読む。
関係者席にいるはずの妹に電話。熱気が携帯越しに伝わってくる。
花輪がズラっと並ぶ控え室前の廊下。圧巻だった。
最後の「いきまっしょい!」。私も一度ぐらい言いたかったな・・・。
「ふるさと」を歌っているときに、涙が本当に溢れそうになった。
デビュー曲・モーニングコーヒー。一度だけのラストソング。
無数のサイリウムが揺れている観客席。
突然明るくなって、そこから先が思い出せない。
<MiST>
コンサート終わったの?
記者会見があるんじゃなかったっけ?
ああ、それにしてもこの臭い! くさい!
髪の毛が焦げたような、せんこう花火をした後のような。
何だろう。
誰かいないのかな。
手を真っ直ぐ前に伸ばしてみる。
もうその手のひらが、見えないじゃん。スモーク焚きすぎだよ。
あれ? なんで私、座っているんだろう。
そもそもここはどこなんだろう。とにかく前に進まなきゃ。
ここじゃ何も見えない。
あ、誰かいる。
背が高い。カオリンかよっすぃーだ。
あのショートカットは・・・やっぱりよっすぃーだ。
「よっすぃー!!」
もう、なんで返事しないのよッ。
またスモークに隠れて消えちゃったじゃない。
でも、そこにいるのね。
待ってて・・・。
足元すらよく見えないな。すり足で近づこう。
でも、なんだか散らかった場所だなぁ、ここ。
あれ?
よっすぃーってこんなに背が高かったっけ?
<返事をしない吉澤>
前のめりになって、安倍より頭3つ分ほど高い位置から見下ろす吉澤。無表
情のまま、その目は焦点が定まっていない。
煙のため周囲がよく把握できないものの、吉澤の背中からスポットライトが
当てられていることだけは分かる。なんだか神々しい。だが本人はそんな状況
に置かれているのを知っているのかどうか、とにかくピクリとも動かない。
「よっすぃー、ねえ」
安倍が近づくにつれ、吉澤の顔だけではなく上半身、そして全身の姿がぼん
やりと浮かび上がってくる。
ようやく手の届く位置まで近づいてきた。
「ねぇ返事ぐらいしないさ・・・」
吉澤の肩を少し背伸びして軽く叩く安倍。手のひらに、熱くてネバネバした
液体がまとわりつく。
「・・・?」
なおも無反応の吉澤。
その時だった。
安倍が近寄ってくるタイミングを見計らっていたのかのように、煙が晴れる。
くっきりと、視界がひらけてきた。
吉澤の左肩から胸にかけて衣服が、ばっさりと引き裂かれ赤黒い血がステー
ジ衣装を染めていた。
背が高い、と感じたのは吉澤の躰全体が少し浮いているためだった。つま先
がかろうじて床に触れている。今の彼女を支えているのは、地面に突き刺さっ
ている鉄パイプ。
安倍の足元から生えているパイプは、目の前でまっすぐ吉澤の下腹部を貫き
背中から飛び出していた。
「ふひゃああ・・・」
安倍は足の力がフッと抜けて、その場で尻餅をついた。
その姿勢のまま、後ずさる。
<おわりのはじまり>
よっすぃーが。
よっすぃーが。
よっすぃーが。
分からない。分からない。分からない。誰か教えて。
何が起こっているの。
見てない。見えてない。
逃げよう。ここはダメだ。
<足腰が立たなくなるほどの異様な光景>
「がぼぐぶ」
吉澤の口から赤い液体が霧状になって、安倍の頭上に降り注ぐ。
赤い斑点が、安倍の白い肌に次々と刻み込まれる。
手足の震えが止まらない。
安倍は必死でその場を離れた。ひっくり返ったカニのような不様な姿で。
自分が今見たものを否定するかの如く、何度も何度も首を小刻みに横に振る。
まだ煙が濃いので、距離にして数メートル移動しただけだが、再び安倍は白い
世界の中に迷い込んだ。
やがて、何かが右手につかえる。
温かくて、やわらかい肌。
振り返る。
新垣だ。倒れ込んでいる。でも笑顔でこちらを見ている。
よかった。新垣・・・。
ねえ、一緒に逃げよう。
なんだか分からないけど、ここ普通じゃないよ。
悪夢だよ。この夢から醒めるまで二人で逃げよう。
ねぇ。
安倍が新垣の肩を揺さぶる。
ごろん。
新垣の首が180度、向こう側に回転する。
「ひいっ!」
<炎>
なぜこの霧が晴れないのか、分かってきた。
あちこちで炎が上がっている。
白とオレンジのコントラスト。そして赤・緑・青・黄・紫など様々な色のス
ポットライトの光が交錯する。
サーカスのイリュージョンを思わせる。
でもここは地獄だ。
細長い火柱が安倍の周辺にいくつか点在しているのが、かろうじて確認でき
る。歴史の教科書で見た、空襲を受けて焼け野原になった東京の風景を思い出
した。しかし、今自分がその場所へタイムスリップした理由が思い出せない。
一刻も早くこの場所から逃げ出さなければならない。
でないと・・・。
そんなことはありえない、と安倍が思ったが、火柱のうちの一つが移動して
いる。煙の向こうでぼやけている炎のうち、ひとつだけ徐々にくっきりと輪郭
が見えてくる火柱がある。
近づいてきているのだ、火柱が。
その炎には、つり上がっている大きな目が二つ、ついていた。
その炎からは、大きく振り回している二本の腕が生えていた。
燃えているのだ、人が。
「あんっぐ」
安倍が奇妙な声を張り上げたのは、唾を飲み込むのと同時に、その火柱と目
が合ったからだ。
反射的に逃げようとするが、はるかにその「腕の生えた火柱」が近寄ってく
るスピードのほうが速い。
だめだ、つかまる。
そう思った瞬間、炎は安倍に届くか届かないかの距離のところで転んだ。
「火柱が転ぶ」というのも奇妙だが、とにかく何か叫び声を上げながら、足元
でのたうち回っている。すぐに足を引っ込めたが、まだ恐怖のあまり腰が抜け
ているのか立ち上がることすらままならない。
炎に包まれていた人は、やがてうつ伏せのまま動かなくなった。
火はある程度治まったものの、ナイロンと肉の焦げる臭いが入り交じり安倍
の鼻をつく。喉の奧に甘酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じた。
黒コゲに焼けた人の、赤く生皮がめくれ上がった指先がかすかに動く。
「なっち助けて・・・」
保田の声だった。
<決意>
なんで私がこんな非道い処にいなくちゃいけないの。
何も悪いことなんて、していないのに。
ここは死んだ人が来るところだとしたら、私は生きてる。
全身ちゃんと動くんだから。
出口はどこよ。
お願い、ここから出して。
次々を目の前で展開される地獄絵図。すでにコンサートのことや仲間のこと
など、安倍にとってはもうどうでもよくなった。
ただ一つ、確信があった。
「私だけでも生き残る」
さっきまで震えていた身体がピタリと止まった。
腰から下に力が入らなかったのが、いまでは何事も無かったかのように立ち
上がっている。
よっすぃー、新垣、圭ちゃん・・・。
みんな死んでいった。
何かあったんだ。
でも私は怪我もしていないし、こうやって普通に動ける。
選ばれたんだ、私。
だって私はこれからも、たくさんのファンの前で注目され続けるもの。
ずっとずっと、これからも。
歌手として、女優として、タレントとして・・・。
安倍は吹っ切れた。
<脱出>
鉄骨が縦横無尽に突き出している中をかいくぐるように安倍は進む。炎と煙
を避けているうちに、ここにたどり着いた。見たことがある。武道館のステー
ジ下だ。
歌っているときは床であるステージが、ここでは天井である。
だが、その天井も所々光が漏れている。穴が空いているのだ。
その穴から腕が、だらん、とぶら下がっているのを見つけた。ほんの3メー
トルほど先。鉄骨のパイプをまたいでいた安倍の動きが一瞬止まり、足を引っ
込めて身構える。
だが生気を失ってぶら下がっているわけではなかった。何かを探っている様
な動き。腕だけではなく、顔がひょっこりと逆さ向きに飛び出してきた。上下
逆のモグラ叩きのように。
長い黒髪とあどけない瞳。
その瞳が、安倍の姿を捉えた。ホッとしたような表情を浮かべ、テヘテヘと
笑う。
「のの・・・?」
辻希美が、そこにいた。
【70-安倍】END
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