終末時計

このエントリーをはてなブックマークに追加
92第一章
(3)
 このB=M=アローという人物について、詳しいプロフィールなどは公開されていない。この作詞家は何
者だろうか。この名前は勿論ペンネームである。作品の出来があまりに素晴らしさから、名だたる作詞
家が変名を使って書いているのではないか、と人びとは噂した。
 だが真相は違う。B=M=アローは、ミラクルボイスの所属事務所たるヤグチオフィスの社長・矢口真里
のペンネームである。世間は、このアイドル上がりの芸能プロダクション経営者に、作詞など出来るわ
けがないと思い込んでいたので、この作詞家が矢口だとは想像することすら出来なかった。

 かつて、矢口はあるアイドルグループのメンバーであった。このグループは、矢口が脱退するころに
は、バラエティ色が強くなってしまっていたが、元来はコーラスを売り物にしているグループで、メン
バーのアーティスト志向が強かった。そのせいか、各々のメンバーは作詞・作曲を密かにおこなってい
た。そのグループは、プロデューサーが楽曲の作詞と作曲を一手に担当しており、その必要はなかった
にもかかわらず、である。
 矢口もアイドルとしての活動の忙しさの合間を縫って、詞を書き溜めていった。当時、矢口がどのよ
うな詞を書いていたか、その全貌を知ることはいまや不可能だ。だが、どうも、まだ青臭く、頭でっか
ちな詩を書いていたらしい。時折、テレビ番組やラジオ番組の企画で、矢口は自作の詩を披露していた
が、とても人前に出せる代物ではなかった。当時の流行からの剽窃。有名な小説からを安易に引用。し
かも、これらが未消化で、表現が作詞家の血肉になっていない。独創性がゼロと断じられても仕方がな
かった。矢口が詞を書けなかったのは、所詮人と世の中について暗かったためかもしれない。

 その矢口が、いまとなっては世人をうならすような詞を書くのだ。矢口が現役を退いてから久しい。
その年月が彼女を変えたのだろうか。それだけではあるまい。凡庸な詞しか書けない少女が、名作詞家
へと変身した背景には如何なるドラマがあったのか。
93第一章:02/09/26 18:31 ID:3zyogY5M
(4)
 コンサートの会場となった市民ホールは超満員の観客で埋まっていた。観客全員を酔わせ、狂気にと
りつかせるのが二人の仕事である。唄うだけで酔わせることが出来なければ、歌い手は浮き上がること
になり、確実にコンサートは失敗する。ファンに自分の熱と狂気を伝染させねばならない。ミラクルボ
イスの音楽に燃え上がらせなければならない。すべてはAIとRIKAの気力にかかっていた。
 二人の気力は充分に充実している。頭の中にはこの場で燃え上がる思いだけがぶんぶん音を立ててい
る。他のものは一切消えていた。
<この調子だけを外さずに唄い続ければいい>
 矢口はいつかそんな気になっていた。

 スタッフ席で二人を見守る矢口真里がたった一つだけ気にしているのは、ミラクルボイスは活動を始
めてからまだ日が浅いということだった。これはどう仕様もない。初めてのツアーなのだから。AIと
RIKAにも嘗て満員の観客を悉く熱狂させた時期があった。二人は国民的アイドルと呼ばれたグループの
メンバーだったのである。だが第一線から退いてから随分経った。観客の大半は、二人のアイドル時代
の熱狂を知らないだろう。知っていても忘れているかもしれない。アイドル時代の遺産など、今更通用
しないのである。AIとRIKAは自らの喉一つで観客を酔わせなければならなかった。それでも今コンサー
トが盛り上がっているように見えるのは、二人の血を吐くような修練の結果だった。
94第一章:02/09/26 18:39 ID:3zyogY5M
(5)
 ミラクルボイスを結成した時、AIとRIKAの歌唱は素人同然だった。二人はあるアイドルグループの一
員だったが、そのグループにはさほど歌唱力は求められていなかった。それにそのグループは忙し過ぎ
た。昨日北海道でロケをしたかと思えば、今日は東京で記者会見をするといった具合で、スキルを高め
ようとしても、鍛錬に励む時間が取れない。だから、グループ脱退の時の歌唱力は、加入の時と比べて
も(ちなみに二人は同期生である)さほど変化がなかった。それゆえ、所属事務所社長たる矢口の当面
の課題は、何とかして二人の歌唱力をある水準まで引き上げるかという点にあった。その為にはひたす
ら練習して貰うしかない。矢口はとあるボイストレーナーに二人の指導を依頼した。この道を長くつと
め、多くの歌手を育ててきた実績のある人物である。

 老ボイストレーナーは驚いた。長年、歌手だのアイドルだのタレントだのという人種を多く見てきた
が、AIとRIKAほどひどい声をしている人間は見たことがなかった。よくもこの声でCDを出し、客前で歌
っていたのか。否、歌うことが許されたのか。何より下手糞である。その辺の音楽学校の生徒のほうが
よほど巧く歌を唄える。そして発声と歌唱の基礎が出来ていない。おそらく、基礎的な訓練も碌に受け
させて貰えないまま、ステージに立たされてしまったのだろう。アイドルとして活動中もまともなレッ
スンは受けていまい。その証拠にあちこちにおかしな癖がついている。長きに渡って、自己流の発声と
歌唱を繰り返してきたからだ。これを矯正するのは至難の業だ。白紙の状態の素人を教育するほうが楽
に思える。二人にべっとりついたアイドル時代の垢をそそぎ落とし、正しい方向へ導くのは、恐ろしく
気の遠くなることだと考えるのは自然だった。