終末時計

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167第二章

(20)
 朝が来た。
 石黒彩は自然に目覚めた。

<平家さんに負けたのだから、仕方ないな>
 オーディション落選のショックも和らぎ、今となってはこの現実を受け入れられる。
 歌も頑張った。ダンスも頑張った。けれども、平家は全部自分以上だったのだから、認められる。過
ぎたことだ。これからは私の日常を頑張ろう。そう思い、洗濯をはじめる。

 洗濯物を全自動洗濯機に押し込み、洗剤を投入し、洗濯機を作動させると、遅めの朝食を作る。六つ
切りの食パン二枚に、スクランブルエッグとシーザーサラダ。軽く焼いたベーコンも添えた。予め沸か
しておいた湯を、ティーバッグをセットしたモーニングカップに注ぎ、紅茶を作る。スティックシュガー
は一本半。これ以上多いと甘すぎるが、これ以上少ないと物足りない。

<芸能人はもっと豪華な朝ご飯を食べているのかな?>
 食パンにイチゴジャムを塗りながら、石黒は、一流ホテルで出されるようなイングリッシュ=ブレッ
クファストを食べる己の姿を空想した。今朝のメニューにヨーグルトとチーズが加わり、その上シリア
ルもつく。しかも、食材は更に良いものを使っている筈だ。
 
 電話が鳴った。空想の世界から現実に連れ戻された。
168第二章:02/11/26 01:07 ID:VgdrH6j4

(21)
 電話の主は意外な人物からだった。
「わたくし、『シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション』の担当ですが、彩さんはご在宅で
しょうか?」
「本人です」
「では、用件を伝えますね。何があるか、現時点では申し上げられないのですけれど、今月の20日に東
京へお越し願えないでしょうか?」
「は、はいっ」
 石黒は驚きのあまり、返事をまともに出来なくなっている。

「もう一つお願いがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」
「はっ、はい」
「東京に呼ばれたことを他の参加者には絶対に言わないでください」
169第二章:02/11/26 01:11 ID:VgdrH6j4

(22)
 通話中だった。
 暫く経ってから掛け直そうと思い、朝食の続きをとっていると、向こうから電話が来た。

「飯田です。飯田圭織です。お元気でしたぁ?」
 石黒と飯田はともに北海道・札幌市在住である。やはり北海道の室蘭市に住む安倍なつみを含めた三
人は同郷の誼もあってか、気が合い、最終選考落選後も、何かあったら連絡しよう、と約束しあうまで
になっていた。

「彩っぺにはなんか変わったこと起きたぁ?」
「起きたよ。番組の人から、東京に来いって言われた」
 石黒は嘘や隠し事の出来ない性格である。しかも、例え二部の理しかなくても、先にした約束を優先
して守るタイプだ。だから、番組スタッフに上京の件を口止めされていたが、飯田たちとの約束が先な
ので、飯田にありのままを話した。

「いいなぁ、彩っぺ。よかったね。圭織には何も連絡がなくってさ……」
 石黒は若干気まずさを覚えた。だが、約束をした時点で、こういう事態は考えられたのだから、やむ
を得まい。

 飯田との電話が終わると、石黒は安倍なつみに電話を掛け、飯田に話したのと同じ内容を伝えた。や
はり、同じような気まずさを覚えた。
 約束をしたことを少し悔やんだ。
170第二章:02/11/26 01:12 ID:VgdrH6j4

(23)
 ほんの数十分だけ時を遡る。
 実は、石黒が飯田宅にその日はじめて電話したとき、飯田は安倍と通話中だった。

「もしもし、なっちです。圭織には変わったこと、あった?」
(『なっち』は安倍なつみの愛称である)
「なかったよぉ。なっちは?」
「全然ない。やっぱり何もないね?しょうがないね」

 二人とも、番組スタッフから上京するように云われていたが、その件については、お互いが全く喋ら
ないでいた。
 石黒が上京組に含まれていることだけは、のちに石黒本人からの連絡で知ることになる。

 だから、安倍と飯田は、上京して番組スタッフの元へ一堂に会した時、互いに対して、そして石黒に
対してかなり気まずい思いをすることになる。それはそうだろう。ここにいない筈の自分がここにいる
のだから。

 当時を振り返って、石黒は苦笑しながら話す。
「いやあ、世の中、ウソつきが多いんだなって思いましたよ」
171第二章:02/11/26 01:54 ID:+u9XHycq

(24)
 約束の日が来た。番組スタッフから召集された五人はスタジオに集合した。
 いささか気まずい空気に包まれながらも、彼女たちは尋常ならざる不安を抱いていた。

 特に、最年少の福田明日香は極度の緊張状態にあった。
 これから何が起こるかはわからないが、ここにいる五人で何かをせよ、というのは間違いない。中学
一年にして、年上ばかりの集団に放り込まれた少女の心理は容易に想像できよう。だが、福田を不安に
させる原因はそれだけではない。

<私とは背負っているものが違う>

 これが、自分以外の四人に対して福田が受けた印象だった。彼女たちには、自分にはない匂い〜地方
出身者が放つ故郷の匂いとでも云えばいいのか〜が感じられる。
172第二章:02/11/26 01:55 ID:+u9XHycq

(25)
 福田以外の四人は地方出身者だった。中澤は京都府出身で、石黒と飯田そして安倍の三人は北海道で
生まれ育った。四人とも、いざとなれば故郷を捨てる決心を固めているだろう。

 四人は故郷から離れ、東京で成功しようと体一つでやってきた。家族とも、友人たちとも、場合によ
っては恋人とも、別れてきたのだ。そんな四人の情念は全身に滲み出ている。自分は四人に呑まれるか
もしれない、そう福田は思った。

 自分は、平家にこそ負けたが、いまテレビ局スタジオで同席している四人には歌で負ける気がしない。
それでも、気持ちの張りという点で、自分は四人に勝てないのではないかと福田は思っている。四人は
故郷を捨てて、単身で勝負しようとしている。そこに甘えはない。
 だが、東京の区部(大田区)で生まれ育った福田にとって、故郷というものを意識したことはなかっ
た。今暮らしている町が故郷であり、友人たちも同じ土地に住み、家に帰れば家族がいる。福田にして
みれば、故郷は空気のようなものだった。そこに隙が生じる。これが自分の弱みになるのではないか、
と福田は危惧しているのだ。

<故郷を背負っている女たちとたたかうのか>
 こう思うと、福田明日香は気が重たくなるばかりだった。