終末時計

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118第一章

(13)
 AIは重い口で、ぽつりぽつりと自分の思いを述べた。今の矢口は頭脳鋭利、すべてを見透かしそうだ。
このような人間に回りくどい弁解は不要であり、むしろ有害である。だから歯に衣着せず直截に話した。
自分は体力と気力の限界まで挑戦したこと。それにも拘らず成果が上がらないこと。なぜなら、自分に
は歌唱の才能を有していないこと。だとすれば、自分では矢口の役に立てないので、この仕事から降ろ
して貰いたいことを語った。

 女社長の反応は意外だった。

 矢口は気性の激しい女性である。感情の振幅が並の女より遥かに大きい。
 錐のように鋭い聡明さを持つ。何気ない言葉、さりげない仕草一つから、敏感に人の心を知り、即座
に反応を起こす。笑う時は大いに笑い、怒る時には感情を大爆発させる。この資質のために矢口はアイ
ドルとしてファンの人気を集めることが出来たし、引退後は芸能プロダクションを順調に運営できたと
いえよう。
 だから、AIが打ち明けたとき、矢口は、
<この若さで限界とは何だ!>
こう大声で怒鳴りつける筈だった。内心では矢口にそういわれるのを期待していた。

 ところが、矢口はAIの顔をしばらく見つめると、にこりと微笑んで、
「また歌いたくなったらおいでよ。おいらはまだ諦めないからね」
 これはどんな叱責よりもAIにはこたえた。
 いっそ面と向って大声で罵倒されたほうが気が楽だった。

 AIは魂の抜けたような顔で部屋を出て行った。
<えらいこといっちゃったな……>
 仕事場のドアがばたんと閉まる音を聞くと、なおさらAIは自分の言葉の重みを知った。
 その日の晩から今まで以上に過酷な練習を自らに課すことになる。
119第一章:02/10/11 18:44 ID:2Jtcyima

(14)
 AIは眠りこけている。矢口とRIKAは只見守るしかなかった。
 朝が来た。自然に目覚めたAIは不思議そうに、部屋の中を見廻し、RIKAを見ると、
「お腹が空いたよ、リカちゃん」
「声、治ったね……」

 AIはおやっ、と思った途端に、昨日のことを思い出した。
<喉を切り取られた……>
 恐怖が襲い掛かり、AIは跳ね起きた。錯覚に過ぎなかった。咽喉は依然としてある。しかも、声はか
すれていない。気のせいか、以前より良い声が出せるような気がする。
「どういうことなんでしょう」
 AIは首を横に振った。さっぱり訳が判らなかった。部屋を出てレッスン室へ行った。一瞬躊躇ったが、
思い切って歌ってみた。嘘のように一切の痛みが消えていた。声を次第に大きくしてみた。喉に異常は
なく、高音も低音も自由自在だ。しかも以前より明らかに声の質は良くなっている。

「やった!」
 AIは叫んだ。
「やったよ、リカちゃん!」
 RIKAは床にべったりと坐りこんだまま、身も世もなく泣いていた。その手を矢口が堅く握っていた。
120第一章:02/10/11 18:46 ID:2Jtcyima

(15)
 市民ホールを埋め尽くしている観客たちはそんな事情を知らない。だが、さっきの修練の結果、二人
の歌唱力は飛躍的に伸び、聴衆を魅了できるまでになった。そして、その努力を可能にした気迫を剥き
出しにしたまま、二人は唄っている。その姿は充分に感動的なのだ。だから、AIとRIKAは市民ホールに
集まった人びとを酔わせ、狂気に駆り立てることが出来た。
121第一章:02/10/11 18:47 ID:2Jtcyima

(16)
 二人はよくやったと矢口は思う。否、自分の期待以上の出来だろう。正直、この二人がここまで聴衆
を惹きつけるとは思わなかった。ここまで歌で観衆を煽り立てられるとは思わなかった。AIとRIKAには
天性の華やかさがあった。アイドル時代に大人気を博したのもむべなるかな。この華やかさに歌唱力が
伴えば鬼に金棒だ。ある水準の力がつけば、このユニットは何とかなる。歌唱力がどうにもならなけれ
ば、華やかさが宝の持ち腐れになったまま、尻つぼみで終わる。矢口はそう計算した。ところが、二人
は矢口の期待を上回るほど上達したのである。この二人は、歌にも天才を持っていたとしか思えなかっ
た。そうでなければ、超満員の観客を、喉一つで一斉に狂わせることは出来まい。自分は二人の才能を
過小に見ていたのだ。二人はアイドルに収まらない器なのだ。これからも、ファンを魅了し続けてくれ
るだろう。だから、このコンサートは必ず成功する。ミラクルボイスも売れるだろう。矢口は、二人の
才能と、それを開花させた努力に感謝した。そして、このユニットを立ち上げる時に協力してくれた数
かずの人びとの尽力にも。
122第一章:02/10/11 18:48 ID:2Jtcyima

(17)
 雨はまだやまない。しかもさらに激しさを増すようだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられ
る。降るというより流れている。まるで大雨の洪水だ。神経も何も掻き毟るようにひっきりなしに、屋
根を騒然と鳴らしている。まるでなにか激しい感情でも持っているかのようだ。
 だが、コンサート会場の熱狂は雨に負けていない。それどころか、この雨音を伴奏にしているかのよ
うだ。

<そういえば、あの時もこんな雨の日だった>
 矢口は、かつて所属したアイドルグループでの青春の日々を思い出していた。