終末時計

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103第一章

(6)
 ミラクルボイス二人のうち、RIKAは矢口の期待通りに成長した。まだアイドルグループにいた時分、
RIKAの悪声と音痴はファンの間で笑い種になるほどであった。それが薄紙を剥ぐようにという言葉がぴっ
たりの、驚くべき上達ぶりを見せるのだ。もうどんなステージに上げても恥ずかしくない。本来、彼女
は歌唱の才を持ち合わせていた。それを発揮できなかったのは、今まで余程放って置かれたからに違い
ない。彼女には鍛錬の機会も時間もなかった。その余裕もないほど、多忙な日々を送っていたといえる。

「こういう言い方をすると失礼かもしれませんが……」
 ボイストレーナーは切り出した。
「RIKAさんがここまでやるとは思ってもみませんでした」
「いいえ。こちらの計算通りでしたよ。あの子は根性あるし、あなたが先生ですしね」
 女社長はしてやったりとほくそえで言う。
「計算違いなのは、もう一人のほうなのですか」
「ま、まあ、見込みよりは遅れているかもしれませんけど……」
 矢口の表情が曇った。
「私はもう少し期待していたのですが……今のままでは……多少遅れてでも、社長さんのご期待に答え
るような結果を出してくれればよいのですが……こちらも最大限に努力いたしますので……」
「これからも頼みましたよ、先生」
104第一章:02/10/01 01:06 ID:DAYRb+Y3

(7)
 矢口とボイストレーナーの悩み所はAIの伸び悩みである。何とかしないと矢口の構想は崩壊する。

 AIは歌唱に自信があった。そもそも、彼女がこの世界に入ったのは、あるオーディションで歌声を高
く評価されたのがきっかけなのだ。その後、彼女は大人気を博することになるが、その理由は必ずしも
歌唱の力のおかげばかりとはいえない。楽曲にも恵まれたし、運命の女神に愛されたこともある。だが、
本人は己の歌唱の賜物だと思っていた。矢口がAIを口説くようにしてこのユニットに引き込んだのも、
彼女の声とまだ見えない才を見込んだからだ。

 AIは自分に自惚れるあまり、レッスンに不熱心だったのではない。トレーナーの目から見れば、むし
ろ相方のRIKA以上に真面目な生徒だった。毎朝、自分が来るよりはるか前にレッスン場へやってくる。
指示した課題は的確にこなす。地味な基礎訓練も怠らない。彼女の態度は真摯そのものだった。
 だがなにかが足りない。老トレーナーの長年にわたる経験から得た直感がそう伝えていた。
 彼女の発声は日一日と良くなり、遂には矢口と老トレーナーの期待している水準を超えるかに思われ
た。だがそこまでだった。ある一転で進歩はぱたりと止まり、なんとしてもそれ以上に良くならない。
当然のことだった。だがAIは焦った。これでは不充分だった。もっともっと良い声を出さねばならぬ。
再びステージに立ち、観衆から大声援を受けるためには、人間の限界を超えた歌声を聞かせる必要があ
る。ひたすらそう信じ、無理な訓練を続けた。
105第一章:02/10/01 01:51 ID:1nEYjvdq

(8)
 ある晩、喉頭に激烈な痙攣が走り、息がしにくくなった。限界に達したのである。AIは絶望し、この
まま朽ち果てていくのではないか、と思った。RIKAが救急車を呼び、病院に連れて行った。医師の診察
では、何の異常も見当たらないが過労なので充分に静養するように、とのことだった。RIKAと矢口が交
代で看病した。数日で喉の痛みはとまり、呼吸は元通りに出来るようになったが、すぐさまトレーニン
グにかかろうとするAIを、珍しくRIKAがこわい顔でとめた。AIは歯牙にもかけずトレーニングを再開し
たが、報いは立ちどころに来た。今度は声が出なくなったのである。RIKAの云う通りだった。無理は禁
物だったのである。だがAIはやめなかった。かすれるばかりな声で発声練習をし続けた。意地になって
いるとしか思えなかった。

「これ以上声が出なくなったらどうするの?」
 RIKAがたまりかねて詰った。
「いい声が出ない喉ならなくなってもいい」
 AIはそう答えた。

 声はかすれの度合いを増し、最後の限界が来た。ある日、歯をくいしばって練習していると、がくん、
というような音と共に、嘗て味わったこともない凄まじい痛みが咽喉に走った。AIは危なく失神すると
ころだった。もうかすれた声すら出ない。
106名無し娘。:02/10/01 02:02 ID:1nEYjvdq
訂正です。
>>103の10行目(下から7行目)。
誤)ほくそえで
正)ほくそえんで