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ジージーとあぶらぜみの声が、深い緑の六甲山に響く。
日差しは強くて、空が深い青色にそまり、
外に出ると、むわっとした空気が、ウチをつつんだ。
「今日はどないかな」
そうつぶやきながら汗ばんだ額を袖でぬぐい、病院へと向かう。
あれから、ののは刺激に対して反応をするようになった。
それがうれしくて、ついつい何度もののの頬をつねったりしていると、飯田さんや、
おにいちゃんに怒られてしまったりしていた。
でも、いつしかほぼ毎日ののの所へ行くようになっていた。
病室の扉を開ける。開け放たれた窓からは少しだけ海の匂いのする風が
薄汚れたカーテンを揺らしていた。そして、ののの髪の毛もその風で少しだけゆれている。
ウチはいつものようにののの横に座ると、近所の人からもらった教科書を開いて、
それを読むでもなし、眺めるでもなしに、ただぱらぱらとめくっていた。
「……、ウチほんまに女学校うかるんかいな」
それは、おかあちゃんがどうしても学校に行くようにといったからやった。
正直、そんなに勉強したいわけではない。
でも、働き出したら忙しくて、のののそばにいてあげることができない。
だから、ウチは受験することを選んだ。
「さっぱりわかれへん……。やっぱり誰かに教えてもらわんとな……」
そうつぶやいて、ぽんとののの布団の上に教科書を投げたときやった。
がさがさっと教科書を投げたにしては大きな音が布団からした。
「ん?」
ウチは不思議そうにののの布団をみると、ののの白くやせ細った腕が
布団から出ているのが見えた。
それに気づいて慌ててののの顔を見る。
「のの!?」
ウチは思わず大きな声をあげた。
ののはその瞳をぱっちりと見開いて、天井を見つめていた。
ウチはののの顔を覗き込むようにして、その視界に入ってみる。
すると、焦点の合っていなかった二つの瞳は、ゆっくりとウチの瞳の方向へと動いた。
「のの、起きたん?」
不思議な気持ちやった。
あれほどにまで待ち望んでいた、意識の回復。
もっと驚いたり、感動したりするもんかとおもっていた。
せやけど、それは普通に眠っていた友人が、普通に目を覚ましたような感覚で、
とてもあたりまえの出来事のように感じた。
ののは、しばらくぴくりとも動かないで、ただウチの瞳を見つめつづけていた。
そして、震える唇をゆっくりと動かそうとした。
「おはようさん」
ウチはそういって笑いかけた。
ずっと待ちつづけていたこと。でも特別なんかじゃない。
起きるべくして起きたんや。あたりまえなんや。
ののはゆっくり体を動かそうとするが、思うように力が入らない。
口元が何かを伝えようとしているが、声にはならなかった。
「無理せんほうがええんとちゃうか?」
「……」
ののは無言のまま視線を宙にさまよわす。
「ちょっと看護婦さん呼んでくる」
ウチはそういって、詰め所へと向かった。
飯田さんと、ウチのおにいちゃんがやってきた。
おにいちゃんは、ののの診察をはじめる。
すると、ののの頬に赤みがさして、少し恥ずかしそうな顔をした。
それは、先ほどとは違って、ただ目を開けた心のない人形とは違って、
明らかに感情が存在するものやった。
それは、意識のなくなる前から、おにいちゃんだけに見せる、
ウチには見せたことのないあの表情やった。
「名前、言える?」
「……、ついのろみれす……」
「頭とか痛いところないですか?」
「……、すこし……。せんせい……」
診察を続けているうちにののの瞳から涙があふれていた。
「……うっく、……ありがとう……」
ののは目を閉じる。その瞬間たまっていた涙が一気に彼女の頬を伝う。
それをみて飯田さんがののの頬を拭いた。
その手つきはとてもやさしくて、暖かい色が見えた気がした。
おにいちゃんは、ののに、お薬も効いていますから、がんばって、と言うと、
ウチの前に立ち、
「もうちょいや」
と頭をなでてくれた。
ウチは思わずどきりとする。それはとても久しぶりで、
いつものようにやさしくて頼もしかった。
でも、なんでかわからないが、
むかしのように、そのやさしさに甘えてしまってはいけないような気がしていた。
ののの意識が戻ったのは確かにうれしくて、たくさんおしゃべりをして、
いっぱいお菓子を食べて、と思ったりする。
でも、おにいちゃんに対するののの姿をみると、ちょっぴり複雑やった。
ウチはののの気持ちに気付いていたのかもしれん。
ただ見えない振りをしていただけなのかもしれん。
「あいぼん……、いろいろとありがとう」
おにいちゃんと、飯田さんが病室を去ってしばらくすると、
ののは、小さな声でそうつぶやいた。
「ん?別になにもしてないよ」
ウチはそう答える。
「ごめんなさい。いろいろと心配や迷惑を……」
「ええて」
ウチの返事を聞いて、ののはゆっくりと笑う。
「ありがとう……」
そして、吐き出すような声でそうつぶやいた。
その笑顔は女のウチからみても、ドキッとするほどかわいらしくて、
純真で、すべてを許してあげたくなるようなものやった。
別に、ののがおにいちゃんを好きでもええやんか。
ウチとののが友達であることに代わりはないやん。
そんな想いが、ウチの心を支配する。
のの、お帰り。
ウチも、おにいちゃんも、飯田さんもみんな待ってたで。
これから、早く良くなって、いっしょに遊ぼうな。
「早く良くなってな」
ウチは、ののの手をキュッと握る。
すると、ののはゆっくりとその手を握り返してくれた。
ふわりとカーテンがゆれる。あいた病室の窓から、
少しだけ涼しくなった風が、ウチら二人の間を流れてった。