病棟を抜け、玄関へと向かう。患者さんたちはすでに殆どいなくて、
数人の入院患者さんがうろうろしているぐらいやった。
日はすでに傾き、埃っぽい空気があたりを流れていた。
のの……、死にたくないと言っていたやんか。
なんで、なんでこんなことになるねん。
おにいちゃん……、なんとかしてな。
絶対助けてな。約束やで……。
そんなことを考えながら歩いていると、なんだかまた涙が溢れてきた。
ふと、手をひいていた看護婦さんが立ち止まる。
「どうしたの?」
「い、いや、ちょっと……」
ウチはごしごしと涙を拭く。せやけど、涙がとまらへんかった。
「ちょっと、話そうか」
その看護婦さんは、ウチを患者待合の長いすへと連れて行く。
ウチもこのまま泣きながら帰るのはいややった。
しばらく、その看護婦さんにのののことについて話してもらった。
背の高い看護婦さんは飯田さんという名前やった。
ののの担当で、入院のときからずっと見てきたらしい。
病状は入院時よりは良くなっているが、いまは髄膜炎というとても重い
合併症が出てしまって、意識がないということやった。
「それで、意識はもどるのん?」
「……、普通は半々というところなの。もちろん、意識が戻っても脳に障害が残ったりすることもあるの」
「え?」
ウチはショックやった。半分の確立でののが死んでしまう。それどころか、助かっても、
頭がパーになってしまうかもしれんのや。
うるうると涙がたまっていく。
「う…、のの……、うくっ……、のの……」
気がつけば嗚咽を上げて泣き出していた。
飯田さんはウチの肩を抱くと、
「でもね、のんちゃんは絶対大丈夫だと思うの」
と、言ってウチにガーゼを渡してくれた。
その目線は優しげな中にも、しっかりとした確信があるように思えた。
「なんで?」
「のんちゃんはね、絶対生きていたいって私に言ってくれた。その理由もね」
そう言って飯田さんは微笑む。ウチは不思議そうな顔をして彼女を見つめていた。
「生きていたいというキモチがね、一番のお薬なんだ」
飯田さんはそう言うと、いすから立ち上がる。そして、
「絶対大丈夫だから。先生とのんちゃんを信じてあげて」
と、ウチの手を引っ張った。その感触は柔らかくて、あたたかかった。
ウチはコクリと頷くと、送ってもらったことにお礼をいって病院の玄関を出る。
いつしか涙はまた乾いて、ぱりぱりとした感触が両頬を刺激していた。
後ろを振り返る。優しげに微笑む飯田さんが手を振ってくれている。
そう、ののはこの人とウチのおにいちゃんに治療してもらっている。
そして生きることを決して諦めていない。
絶対助かる。そう信じてるで、のの。
ウチは暗くなった街を急ぎ足で通り抜けていった。
夜の神戸の海は、港の光を反射しながら、ゆらゆらと揺れていた。
◇
しとしとと、雨が続く。アジサイの花は綺麗に色づき、近所の子供たちがかたつむりと
戯れている。
ウチは、ぽたんぽたんと家の中で鳴る洗面器に、うるさいなと
文句を言ってみたりする毎日やった。
そう、雨漏りなんて直るはずはなかった。
おにいちゃんは全く家に帰って来うへんかったし、
男手がないと、屋根の修理なんてできるはずもなかった。
だんだんと暑くなってきたにもかかわらず、一人で寝るお布団は、
なんだか冷たくて、寂しかった。
あれから、のののお見舞いにも何度か行って見た。せやけどののの意識は戻ることもなく、
飯田さんに、ウチが励まされることばかりやった。
だんだんと、痩せていくのの。たまに会うおにいちゃんの顔色もさえなかった。
ウチは病状について聞く勇気もなく、ただ、のののそばでその日会った出来事を
話してみたり、歌を歌って聞かせてみたりして、なんとか目を覚ましてくれることを祈るだけやった。
そんなある日のことやった。
ウチはいつものように眠ったままの、
ののに、たわいも無い話をしたあと、
「今日も、起きひんな……」と、ため息をついていた。
飯田さんが、しばらくするとやってきて、ののの体を拭いてあげていた。
ウチはそれを手伝いながら、
「痩せてもうたな……」と、呟いた。
飯田さんは、そうね、と答えると優しくののに話し掛けながら、
寝間着を元に戻す。まるで、いとおしい娘か妹にそうするように。
それをウチはみながら、二人の関係がとても暖かくて優しいものに感じた。
「飯田さん……。他の看護婦さんはそこまでせえへんのに、なんで?」
ウチは不思議に感じていた疑問をふとぶつけてみる。すると飯田さんは、
のののお布団を肩までかけると、寂しげな微笑をみせながら、
「私はね、みんなにこうしてるの。でもね、のんちゃんは少しだけ特別かな」
と、言った。
「特別?」
ウチは驚いた声をだす。飯田さんはしばらく黙って清拭の後片付けをすると、
「のんちゃんが、始めは死んでもいいと思ってたことは知ってるよね」
と、呟いた。
「あ、うん……」
ウチもそのことは知っていた。でもいつしか生きる希望をなぜか見つけ出し、
死にたくないと口にするようになっていた。
「でね、私たち看護婦も、先生たちもいろいろち生きる希望をみつけてあげようと思ったの」
そう言って飯田さんはねむりつづけるののの方を見つめた。
「担当だったこともあって、いっぱい話をしたわ。
あなたのことも、ふたりのおにいさんのこともね」
「ふたりって、ののとウチのおにいちゃん?」
「そう。でね、のんちゃんのホントのキモチがね、分かったの」
「ホントのキモチ?」
のののキモチ。それはののの生きる希望のこと。
ウチはぼんやりとしか見えていないそれについて、答えを知っている
飯田さんの顔を見つめる。
そのとき、がちゃりと扉が開く。婦長さんが入ってきて、
飯田さんに検査の介助についてくれるようにと頼んでいた。
「あ、ごめんね。ちょっと用事ができたから」
飯田さんはそう言うと、清拭の道具を持って部屋を出て行った。
「あ……」
ウチは答えを聞けないまま、去っていく飯田さんの後姿を見つめていた。
「なんやろう……」
ウチはののの方をみる。
「なあ、のの。なんで生きていたいと思うようになったん?」
そう問い掛けてみても、目を開こうとはしない。
「なあ、ウチには教えてくれへんの?」
そう言ってののの頬を軽くつねってみる。
──いたいれすよ。
「え?」
一瞬ののの顔が少し歪んだように見えた。
そして、ののの声が聞こえた気がした。
ウチは慌ててののの頬を叩く。
「のの?のの?」
しかし、何度叩いてもののが反応することはなかった。
「気のせいか……」
ウチは小さなため息をつく。
「ごめん、痛かったな」
そう言ってののの頬をさする。少し温かい感触が命のともし火を感じさせてくれる。
痩せて白く透き通った、ののの肌はとても綺麗で、
ものすごく美人にみえた。
日も暮れ始め、ウチは家に帰るために、眠っているののに挨拶をすると病室をでた。
「今日もおにいちゃんと会われへんかったな……」
ちょっぴり残念なキモチで廊下を歩いていると、詰所のまえで
一人の男の人がなにやら看護婦さんと話をしていた。
それをあまり気にもとめずに、通り過ぎようとしたときやった。
「ちょっと」
その男の人が声をかける。
「ウチですか?」
ウチは振り返り、その人をみるそのとき、その男の人の片足が無いことに気づく
「あんた、あいぼんとちゃうか?」
「え?」