◇
それからウチは出来るだけお見舞いに行くようにした。
もちろん、行ったからと言って、ののが良くなるわけではないことは分かっていた。
それに、おにいちゃんは忙しそうで、夜話し掛けようにも、ほとんど帰ってこなくなっていたし、病院にいけばおにいちゃんに会えるかもしれんかったからやった。
でも、おにいちゃんとはめったに会えず、また会ってもめっちゃいそがしそうで、
話し掛けることもなかなかでけへんかった。
そして、ののの病状は良くなったり悪くなったりで、のの自身も不安げな言葉を漏らすことが多くなっていた。それをウチはただ励ますことしかでけへんかった。
そんなある日、ウチは病室の扉を開けると、目の前の光景に呆然とした。
「のの?」
ウチは思わず声を上げる。
数人の入院患者のいる病室。いつもと変わらない人たち。
でものののベッドだけが空になっていた。荷物も全てなくなっている。
「すみません、ののはどこに行ったんですか?」
ウチはそばにいた一人の女の人に話し掛けた。
色白なその人は少し悲しげな表情をして、
「個室に移ったよ」
と言った。
「な、なにかあったんですか?」
ウチが不安げにそう尋ねると、その人は、
「意識がなくなちゃってね」
と視線を下に落とした。
意識がないって?
なんで?なんで?
確かに頭が痛いとは言ってたけど、
そんなに悪いようには見えへんかった。
それに、おにいちゃんだって、おうちに帰らんぐらい一生懸命やってたのに。
うそや。なんで急にそうなるねん。
おにいちゃん、うそやんな。
のの、元気やんな?
震えだした足にギュッと力をいれ、うつむいているその女の人のそばへ歩み寄る。
「意識が無いって?どういうことですか?」
「なんかね、結核の菌が頭の中に入ったみたいだって、先生は言ってたけど」
「そんな……」
おにいちゃんが、そう言ったんや。
ほんまなんや。ほんまにののの意識が無くなったんや。
ウチの脳裏に思いたくない言葉が浮かんでくる。
ののが死んでしまう──
それを必死で打ち消しながら、病室を出て、
個室へ向かう。
結核。それは死の病。
ウチにも、おにいちゃんにもどうすることもでけへんの?
のののおにいちゃんは、ののを自分の所へ連れて行きたいの?
溢れて来そうになる涙をこらえながら、ウチはいくつもある個室の小窓を
覗いていく。
そして、一番奥の暗い場所にある個室の小窓を中を覗いたとき、
ウチの心に大きな衝撃が走った。
白い壁、白いベッド。そこにはののが横たわっていた。
おにいちゃんがののの背中に注射をしている。
でも、針をさしてもピクリとも動かないののの体。
そして、それが終わると沈痛な表情をして、看護婦さんなにやら会話をしている。
その雰囲気はとても緊迫していて、ののがほんとうに大変なことになっているのがわかった。
「うそや……、うそや……」
ウチはもう止められなくなった涙をそのまま床にぽたぽたと落としながら、
扉を開けた。
「あいぼん……」
こちらを振り返ったおにいちゃんはすこし驚き、そしてそのまま悲しげで悔しげな表情をした。
その表情をよみとって、さらにウチの心は締め付けられる。
ウチはのののほうへ歩み寄る。
色白な小さな体。酸素の管がののの口元につけられている。
そして、呼吸は一定のリズムを刻み、ただ眠っているだけように感じた。
「のの……、おきてえなあ……」
ウチはそっとののの頬に触れる。
暖かい感触が少しだけ伝わる。
「なあ、起きて……、起きてよう……」
そう言って頬を撫でる。しかし、顔をしかめようともせず、ののは眠ったままやった。
ほんまなん?なんでおきひんの?
なあ、はよ起きいや。うそやんな、うそやんな。
気がつけば、ウチはののの頬を叩いていた。
「起きて、起きて……」
そう呟きながら、叩きつづける。うっすらと赤くなるののの頬。
絶対起きるはず。そう思いながらウチは叩くのをやめへんかった。やめれへんかった。
そのとき、ウチの腕が動かなくなった。
おにいちゃんが叩いている腕をつかんだからやった。
「あいぼん、もうやめとき」
おにいちゃんはウチを抑えるようにして抱きしめる。
「嫌や、嫌や!」
ウチは首を振る。このままにしておくと、ほんまにののが死んでしまうように
思えて、ウチはおにいちゃんを振りほどこうとする。
せやけど、おにいちゃんはウチを離そうとはせえへんかった。
「あいぼん!」
おにいちゃんが大きな声をだす。
優しいおにいちゃんがめったに出さない、大声。
それを聞いて、ウチははっと我に返った。そして急に体の力が抜ける。
崩れ落ちそうになるウチをおにいちゃんはギュッと支えると、
「ののちゃんはがんばってるんだ」
と、搾り出すような声で呟いた。
それを聞いて、またウチの目からぽろぽろと涙がこぼれていく。
「おにいちゃん……、おにいちゃん……」
涙で言葉に詰まりながら、ウチはおにいちゃんの白衣をつかむ。
ウチは濡れたままの瞳でおにいちゃんを見上げる。
おにいちゃんはウチの目をきゅっとみつめると、小さく頷いた。
「いままで、おにいちゃんが嘘をついたことあるか?」
おにいちゃんは真剣な表情でウチを見る。
そう、いままでおにいちゃんは約束を必ず守ってくれた。
戦争のときもそうやった。
せやけど、今回は大きな不安がウチの心の中でへばりついていて、
どうにもならへんかった。
もう何も考えることも出来なかった。涙がとまらへんかった。
「おにいちゃん……、絶対助けてな……」
そう呟くと、ウチはそのままおにいちゃんの腕の中で目をつぶる。
おにいちゃんは、分かったと言うと、横にいた背の高い看護婦さんにガーゼをもらい、
ウチの涙を拭いてくれる。その感触はいつもの優しいおにいちゃんのものやった。
目を開けたウチは、ののの方をもう一度見る。
きちんと息をしつづけてくれているのの。
ウチが叩いた頬はまだ少し赤くて、そこに命があることを感じる。
──ののはまだ生きていたいんれす。
それを見て、前に聞いたののの言葉がウチには聞こえたような気がした。
そう、ののは頑張ってる。おにいちゃんも一生懸命やってくれている。
ウチが信じないでどないするねん。
絶対元気になってくれるはずや。
「信じてる。ののも、おにいちゃんも……」
ウチはそう呟いた。
それを聞いておにいちゃんも、看護婦さんもほっとした顔をした。
おにいちゃんはウチを立たせてくれると、今日はもう帰り、と言った。
そして、看護婦さんに、ここはもういいから、ウチと一緒に玄関まで
付き添ってくれるように頼む。
看護婦さんはおにいちゃんにお辞儀をすると、病室の外へ出て、ウチを手招きする。
ウチは、涙が乾いてかさかさになった頬に手を当て、ごしごしとこする。
少し、ぴりぴりとした痛みが走った。
そして、おにいちゃんの白衣の中は、あの白い粉ぐすりと同じ匂いがした。