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病院は相変わらず薄暗くて、消毒液の匂いが鼻をつく。
夕方というのに、まだ沢山の患者さんたちが長いすに座って待っていた。
それをチラリと横目で見ながら、すこし埃っぽい外来の待合室を抜け、
のののいる病棟へと小走りで急ぐ。
「のの、久しぶり」
病室のドアをあけ、ウチはののを見た。
ののは、少しうつろな目をしたままウチをみる。
その表情は前にあったときとは違って、生気のないようにみえた。
「あいぼん……、久しぶりれすね」
そういって痛々しい微笑をみせる。
その表情が悲しげで、小さな不安がウチの胸をよぎる。
「ど、どないしたん?調子悪いん?」
「おにいちゃんからは聞いてないんれすか?」
「いや、なにも」
「そうれすか……」
ののはそう言うと、ウチから視線をそらし窓の外を見つめた。
こほこほと小さな咳をする。その後の言葉をウチは待ってはみたけど、
ののの口はそれ以上動く気配はなかった。
「あ、コロッケ持ってきたんや」
沈黙に耐え切れなくなったウチは、そう言って包みをあける。
おかあちゃんの作ってくれたコロッケ。半分しかないけど、
それでもきっと喜んでくれるはず。そう思っとった。
ののは、視線をお弁当箱に向けると、寂しげな微笑を浮かべて、
「有難う……。でも、頭が痛くて、あんまり食欲がないんれすよ……」
と、言った。その表情は本当に申し訳なさそうで、
かえって、ウチが悪いことをした気分になる。
「あ、ほ、ほんまか。そうやな、無理に食べることは無いと思うで」
「ごめんなさい」
「気にせんでええって。まあ気が向いたら食べてな」
ウチはそう言って、お弁当箱を包みなおしてベッドの横にある棚にそれを置く。
ののは、しんどそうな表情で有難うと言うと、
「ちょっと横になっていいれすか?」
と、言って目を閉じる。
「あ、しんどいな。ほなウチ、もう帰るわ。また来るし」
ウチがそう言うと、ののは目を開けて
「せっかく来てくれたのに……、ごめんなさい。ごめんなさい」
としきりに謝る。
「謝らんでもええって。ウチが勝手にきたんやし」
「でも、でも、来てくれてうれしいんれすよ。ごめんなさい。ごめんなさい」
必死な表情で謝りつづけるのの。
「そんなに謝らんといてな。別に気にしてないって」
ウチはのののそばに座ると、彼女の手をキュッと握った。
その瞬間、ゾクリと背中を不安な感情がはしる。
冷たく、細く、筋張ったようになっている手。昔はこんなんと違うかった。
もっと柔らかくて暖かかったはずや。
結核は確実にののの体を蝕んでいっているんや。
唯一の親友を冒している死の病。
それを再び自覚させるのに充分なほど、ののの体はやつれていた。
「のの……」
ウチはもうそれ以上なにも言えへんかった。
「……なんでこんな体になっちゃったんれすかね。情けないれす……」
そう言って再び目を閉じるのの。
そのとき、彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれる。
ウチはそれをキュッとふくと、ののの手をもう一度しっかりと握り、
「頑張れ」
と、言った。それしか言えなかった。
力を分けてあげたかった。
ののはコクリと小さく頷くと、目を閉じたまま、
「ののは、まだ生きていたいんれす」
と、呟いた。
ウチはその言葉を聞いて少し安心する。
そう、ののは入院するまで、死ぬつもりでいた。
そして常に赤い髪飾りを握り締め、おにいちゃんの元へ旅立つ準備をしていた。
でも、今は生きていたいと言ってくれるようになった。
その理由は分からなかったが、そう言ってくれるようになってくれたことが嬉しかった。
ウチは力いっぱいののの手を握る。
治るように、退院できるようにと念を込めて。
「い、痛いれすよ……」
そう言って目をあけるのの。心なしか表情に生気が戻った気がした。
「治る。絶対治るんや。そしてまた一緒に遊ぶんや」
そう呟きながら、ウチは手を握りつづけた。
ののは、もう一度コクリと小さく頷くと、また目を閉じた。
そして、ウチの手をキュッと握り返してくれた。
気がつけば窓から見える空は青紫色に変わり、
病院の夕食の匂いが、病棟内に立ち込めていた。