車はゆっくりと病院の玄関に入る。
ドアをあけると看護婦さんが車椅子をもってやってくる。
ののはそれに乗ると、すぐにおにいちゃんのいる病棟へ運ばれた。
逆性石鹸の苦い匂いが鼻をつく。
すこしよどんだ空気が、胸の中へ入っていく。
そんな病院独特の雰囲気に少し緊張しながら、結核病棟へと向かった。
すでにおにいちゃんが、入院の手はずを整えていてくれたようで、
看護婦さんの介助で、ののは病室のベッドに横になる。
白い壁と、電灯が釣り下がった少し染みのある天井。
それをみつめながらののは、病院にきちゃいましたね、と呟いた
「そらそうやん。治すんやで、病気を」
ウチはそう言って、ののに笑いかける。
ののは、不安そうに頷く。
しばらくして、おにいちゃんがやってきた。
「希美さん、ご無沙汰です」
おにいちゃんはののに挨拶をした。
ののはお辞儀をすると、おにいちゃんにお礼を言う。
おにいちゃんは、気にしないでくださいというと、早速診察を始めた。
ののの青白い体に聴診器を当てる。その表情は真剣で、いつもの優しいおにいちゃんとは
違っていた。その緊迫感にウチは、いきをのんだ。
「やはり、進行してますね」
すこし悲しげな表情でおにいちゃんはそう言った。
そして、横にいた看護婦さんに検査の指示をだしたりする。
ウチは初めてみるおにいちゃんの仕事姿に見とれていた。
「ここまでしてくださって、有難うございます」
ののはもう一度頭を下げた。
「新しい薬を進駐軍の方から手に入れるように尽力しますので、それが効けば」
と、おにいちゃんは言うと、ウチの頭をくしゃくしゃとなでて、
ちゃんとのののお世話したってな、と言った。
「あたりまえや。まかしとき」
と、ウチは答えた。それを聞いておにいちゃんは優しい笑みを浮かべ、
まかせたで、と言った。
おにいちゃんは病室を去る。白衣の裾が風でふわりとゆれる。
数人の看護婦さんを従え、まるで遠い世界の人のようやった。
「あいぼん、おにいちゃんがいて、いいれすね」
ふわっと、ののの髪が揺れた。そしてぽろぽろと泣き出すのの。
そのまま、病院の薄っぺらい布団に顔を伏せたまま、声を殺して泣きつづけた。
ウチはそれを黙って見つめるしかなかった。
「のの、ウチのおにいちゃんは、のののおにいちゃんみたいなもんや。
ウチのおにいちゃんは、のののおにいちゃんに助けてもらったもどうぜんなんやし、
きっとそのつもりやと思う」
ウチはののの背中をさすりながら、そう答えた。
ののは、嗚咽を続けながら、ゆっくりと顔を上げ、
「それじゃあ、あいぼんに悪いれすよ」
と、答えた。
「もう、遠慮するなんて、ののらしくないで。
病気になってから、頭まで、おかしなったんとちゃうか」
そう言って、ウチは笑った。
ののはその表情を見て、涙を拭いて少しだけ苦笑いすると、そうれすね、と笑ってくれた。
暖房の効いた病室の中は、北向きのののの部屋とは違って、
柔らかい空気が流れていた。