次の日からおにいちゃんは朝早くから仕事に行き、ウチがねてしもうてから、
家に帰ってくるようになった。おにいちゃんのいないお布団は、冷たくて、
寂しくて、なんだか悲しかった。せやけど、朝、目覚めると、お布団のなかに、
少しだけおにいちゃんの匂いがして、それが落ち着いた。
おにいちゃんの仕事は忙しいようやった。戦後の人手不足で、医者がたりないとのことやった。ウチはたまにしかあえへんおにいちゃんの負担にならないように、
甘えたいキモチを一生懸命我慢した。そう、おにいちゃんは、患者さんのためにがんばっとる。そして、ウチらにいい暮らしをさせようとがんばっとる。
そう思って、いつもおにいちゃんのいない冷たいお布団のなかで、ぎゅっと目を閉じた。
暫くの時間が経つ。ある日、おにいちゃんから、ののにお薬を持っていくようにとの
置手紙があった。
そういえば、ののの病気はどないなったんやろう。お薬が効いてるのやろか。
おにいちゃんは、しっかりとそのことを覚えていたんや。
ウチはたった一人の友人の病気をすっかり忘れていたことに、情けなさを感じながら、
慌てておかあちゃんに、いってきますと叫ぶと、玄関の扉を開ける。
そして、久しぶりに神戸の急な坂を上った。
吐き出す白い息が歩くたびに、ウチの顔に当たった。
ののの家に着く。おばちゃんに挨拶をすると、いつもの北向きで暗いののの部屋に入る。
ののは、ウチをみると、
「ひさしぶりれすね」と、言って笑った。
その笑顔はやはり寂しげで、ウチはお見舞いに行かへんかったことを後悔した。
ののの顔は相変わらず青白くて、こほこほと小さな咳をしていた。
「ごめんな。いろいろと忙しくてな」
「いいれすよ。おにいちゃんも帰ってきたことれすし、一緒にいたいれすよね」
そう言ってののはまた、寂しげな微笑を浮かべた。
その微笑がウチの胸をチクリと刺す。
ウチだけが味わえる安心感と幸福感。
それは、おにいちゃんを亡くしたののにはもう味わうことのできない感覚。
ウチは自分だけ暖かいその感覚を楽しんでいて、のののことをあまり考えてなかったことに気づく。
そして、ののはそれを分かっている。せやのに、それを責めようとはせず、孤独に病魔と闘っとる。
ウチはそんなのののキモチがいじらしくて、切なくて、悲しくて、
そして、自分がふがいなくて、情けなくて、薄情で、次の言葉がでえへんかった。
しばらくして、ののは
「で、今日はどうしたのれすか?」
と、口を開いた。
ウチは慌てて、
「薬、もってきてん」
と、答えた。
そして、その紙包みをののの枕もとにおくと、体調はどないなん、と尋ねた。
ののは、また寂しげな微笑を浮かべて、
「あんまり、変わらないのれす」
と、小さな声で呟いたあと、
手のひらを口にあてながら苦しそうな表情をして、大きな咳を2回ほどした。
「ご、ごめんれす」と、ののは謝ると、慌ててそばにあった手ぬぐいで、手を拭く。
それを見て、ウチはおもわず、息を呑んだ。
手のひらにべっとりとついた血。
そして、桜色だったはずの、ののの唇は、紅をひいたように、赤くなっていた。
まるで、ののが、しんだ彼女のおにいちゃんから
もらった、赤い髪飾りのように。
おにいちゃんのお薬が効いてへん。
いや、それどころか、血を吐くほどに悪くなっとる。
ののは、大丈夫なんか?やっぱり治らへんのやろか?
そして、前におにいちゃんが添い寝してくれながら、難しいな、と呟いたことを思い出す。
ウチは心の中に浮かんだ、最悪の答えを振り払うように、頭をふる。
そして、ののをじっと見つめた。
ののは、少し申し訳なさそうに、
「あんまりお薬は効かないみたいれす。でも、あいぼんのおにいちゃんにはほんとに感謝してるのれすよ。ここまでしてもらって申し訳ないれす。だから、もういいのれす」
と、言った。
「そんなん、気にせんでええのに……」
「それに、のののことを心配してくれる身内もいないれすしね……」
そう言って、あの赤い髪飾りをみつめる。
その瞳は悲しげで、でもなにか覚悟をきめたようやった。
ののは、死ぬ気や。
のののおにいちゃんのところに行く気や。
ののがいなくなってしまう。しんでしまう。
「ウチは……、ウチは、ののがいなくなったら嫌なんや!」
ウチは思わず大きな声で叫んだ。
窓の外にいた小鳥たちがばさばさと羽音を立てて飛び立つ。
ののは、驚いたように目を丸くすると、悲しげに瞳を伏せて、
「ごめんなさい……。でももう無理れすよ……」
と、呟いた。
ウチはなんと言っていいかわからないまま、
「そんなん、嫌や……」
と、呟いた。
「あいぼん、ありがとう。でも、ごめんなさい」
ののはそれを聞いて、目線をそらしてうつむく。
ウチのたった一人の友達やのに。
なんで、死んでしまうのん?
嫌や、いやや、イヤヤ──
その言葉だけが、頭の中でぐるぐると回っていて、
もう、何も考えられへんかった。
気がつけば、ウチの頬は濡れていた。
こほこほと、ののの小さな咳の音だけが、静かなその部屋の中で響いていた。
ウチは肩を落としながら、ののの部屋を後にした。
ののは、ウチのおにいちゃんによくお礼を言ってください、と言うと、
もう、お薬は要らないれすよ、と笑った。
それが、悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
「薬はのんでな。また、おにいちゃんに聞いとくし」
と、ウチは震えた声で答える。もうそれしか言いようがなかった。
おにいちゃんに助けてもらうしかない。
ののの病気を治してもらうしかない。
でも、できるんやろか。
結核なんて、治るほうが珍しいのに。
ウチはそんな悪い考えを振り払うように、涙を拭うと、
おばちゃんに挨拶をして、玄関の扉を開ける。
そして、神戸の坂をとぼとぼと降りる。
でも、いくら拭いても、なぜか涙がとまらへんかった。
冬の六甲おろしは、後ろからウチの顔を撫でていく。
濡れた頬に、冷たい刺激がピリピリとはしっとった。