【T・E・N】 第52話 矢口と吉澤
「ねー・・・何かあったの?」
そう後ろから安倍に声を掛けられ、吉澤もやっとハッと我に返った。矢口は
浴槽にもたれかかって、両手で顔を覆い隠し泣きじゃくっている。
吉澤が矢口の叫び声を聞いて部屋、そしてバスルームの中に入り、そこで内
側が赤く染まった便座を目にする。慌てて矢口がそれを隠したが、吉澤自身も
予想だにしなかった光景に茫然とするしかなかった。安倍に声を掛けられるま
で、どれだけの時間そこへ立ち尽くしていたのか分からないほどに。
「う、うん、大したことなくて・・・ちょっとビックリして・・・」
吉澤もそう答えるしかなかった。「Alive」の部屋の入口から半分だけ
身を乗り出して安倍がその「ビックリ」の意味を訊こうとしたとき、下の階か
ら誰か呼びかけている声が聞こえてきた。
「あのー!」
微妙な訛り具合から、その声の主は高橋だと分かった。
おそらく居間は吹き抜けのため、2階の廊下に響きわたった矢口の絶叫が下
の居間に集まっているメンバーの耳にも届いたのだろう。
丸くなって泣いている矢口。うろたえている吉澤。それを見て、安倍がもう
一度尋ねる。
「怪我とかなーい?」
それは見た目あきらかだが、確認の意味もあるのだろう。
矢口は小刻みに首を縦に動かす。吉澤も「う・・うん」と頷いた。
それを確かめると、安倍は居間の方向に走り去っていった。しばらくして何
か安倍が居間の下の階にいる者に弁明している声が聞こえてくる。とりあえず
吉澤自身も動悸が治まらないものの、この衝撃を下の階にいるメンバーにまで
伝搬させる必要はないと思った。
こうした特殊なイベントで、お互い過敏になっている。
だが吉澤と石川が、辻の姿を見たのを表沙汰しないことを二人で誓ったのと
同じように、このこともあまり波風を立てない方がいいような予感がしたのだ。
「矢口さん、立てますか」
吉澤は矢口の震えている肩に静かに手を添えて、とりあえずこの場を離れよ
うとした。
さきほどまでショックで腰を抜かしていたようにも見えたが、よろめきなが
らも立ち上がる矢口。一刻も早くこのバスルームから出たいという気持ちは、
彼女も同じようだ。乱れている衣服―――オーバーオールを履き直しながら、
フラフラとその場所を後にする。
それを後ろから吉澤は支えながら、一歩一歩踏み出す。
二人が中から出たところで、忌まわしい空間を封印するかのように吉澤はそ
の扉を閉めきった。
矢口がここ数年、芸能界で冷遇されてきたのは吉澤も知ってる。
弱気になっているのかもしれない。
大きな流れに逆らわずに生きているはずなのに、なぜか窮地に追いつめられ
てゆく不条理に、あくまでも生真面目に立ち向かっていたのが矢口だった。思
えば解散する前からそうだったのかもしれない。吉澤の目からみても、矢口に
対して時には強引な「そりゃないだろう」といった事務所の扱いが、見え隠れ
することがしばしばあった。それに対してきっと不満があるはずなのに、表立っ
て逆らうこともなく従順に明るく振る舞ってきた矢口。そしてグループの解散
が決定。ソロとして、やっと自分のやりたい仕事の方向性が確立できると思っ
た矢先に、あの武道館での事件が起こった。モーニング娘。―――というより
ハロープロジェクトという枠組みの中で、それに合わせた仕事しかさせてもら
えなかった自分が、ようやく芸能界全体を視野に入れた活動の場を与えられる
と思っていたのに、それをすべて破壊されてしまったのだ。
それでも矢口は自分のスタンスを変えようとはしなかった。自分のキャラク
ターを活かせる場を模索し続けた。しかしそれは、結果的に功を奏したとはい
えないだろう。
その矢口に対して、ある意味吉澤は逆の生き方を貫いてきた。吉澤が選択し
たのは、常人の理解の範疇を遥か超える変化を遂げること―――つまり「男」
になること―――だった。すべての人の支持を得られないのは、承知の上での
行動だった。だがそれによってモーニング娘。在籍中とはまったく異質の、熱
狂的な支持層も得ることができた。吉澤は現在自分が置かれた状況に、ある程
度満足はしている。少々荒療治ではあったかもしれないが。
しかし矢口はその努力とは裏腹に、カタルシスを得られないまま現在に至っ
ているのだ。
そんな解散後の苦渋の日々を過ごしてきた矢口にとって、もしかしたらこう
いった同窓会の場に出席することはノスタルジィ以前に大きすぎるストレスと
なって、のしかかっているのかもしれない、と吉澤は思った。
いまだに矢口が泣き叫ぶ原因となった、あの血まみれ?のトイレについては
吉澤もよくわからないでいるが、そういったバックボーンがあることを、これ
からの矢口との対話の上で理解しておかなければ、真実は導き出せない。
そう吉澤の「女の勘」が訴えかけてきたのだ。
ベッドに矢口を座らせると、ようやく落ちつきを取り戻し始めたようだった。
「何なのよ、ここは・・・」
やっと叫び声以外の―――落ちついた矢口の声が聞けた。しかし事態は好転
したわけではない。いまだ泣きベソをかいてうつむいている。が、さきほどの
パニック状態は脱したようなので、吉澤は詳しい話を聞かなければ、と思った。
「じゃあ、流れ出てきた水が赤かった、と」
吉澤が廊下側の壁によしかかりながら、腕を組んで尋ねる。
そこで部屋のドアがガチャ、と閉まる音がした。
「なんとか、ごまかしてきたよ」
安倍も部屋に入ってきて、今度はベッドで縮んでいる矢口の隣りに座って肩
を抱く。
「だいじょーぶ?」
涙を拭いながら、コクコクと頷く矢口。
「で、結局何だったの」
と安倍に訊かれて、吉澤は締め切ったユニットバスの扉に視線を移動させる
が、あの状況はどうも説明しづらい。要するにトイレの水を流したら、赤い液
体が流れ出てきた、ということしか現時点では分かっていない。そこに至るま
でどのような経緯があったかは矢口の説明を待たなければならない。
だが確かに「あれ」を血だと判断する材料が矢口にはあったはずだ。考えよ
うによっては、長い間使われていなかったトイレ。水道管が錆びていて、タン
クにはそれにより茶褐色に染まった液体が貯まっていたという考え方もできな
くはない。そう思ったのは、ちょうど吉澤がいま経営している店で似たような
ことがあったからだ。あれはまだ“Doll’s EYE”を開店させる前だっ
た。長い間空いていた貸店舗の下見に行ったとき、なに気に水道の蛇口をひね
ると赤茶色の液体が流れ出てきて驚いたことがある。不動産業者は苦笑いしな
がら「ここしばらく使われていなかったからねぇ」と弁解した。
もしかしたらこの部屋も長い間使われていなかったため、タンクに褐色の鉄
錆びが混じった水が貯まっていたとしても不自然ではないだろう。そして矢口
にとって、流れ出てきたその水が血に見えたとしても。
その考えを、吉澤は矢口にぶつけてみることにした。何よりも矢口には笑顔
が似合う。にもかかわらず、5年振りの再会だというのにずっと泣き顔しか見
ていないことにこそ、吉澤は動揺しているのだった。
矢口は小さな肩を震わせながら、吉澤の考えの一部始終を聞いていた。
いまだ状況が把握できない様子の安倍だが、吉澤の話の端々から矢口が泣き
叫んだ原因がトイレにあることぐらいは理解したようだ。
吉澤が、いくつかの慰めの言葉を交えながらその「水に錆びが混じっていた
だけだった説」を終えた。
しばらくの間の後、ずっとうつむいていた矢口が首を横に振りつつ吉澤を見
上げる。
「うぐっ・・・違うよ。なんか、ヒック、タンクに詰まったもん。全部水流れ
なかったもん」
「ああ」
その言葉に続けて吉澤は「それでウンコが流れていなかったのか」と言いそ
うになったが、あわてて喉元で引っ込めた。これ以上矢口を傷つけては、いよ
いよ真相は解明できないだろう。
嗚咽混じりの悲痛な声とともに矢口は続ける。
「きっとね、なんか動物の死体とかなんかがね、詰まっているんだよ。ヒック、
それの血なんだよ」
「まってよ、なんでそんなとこまで決めつけるの?」
ここで安倍が口を挟む。
「ちょっと、よっすぃー確かめてきてよ!」
「え? 俺が!?」
「そうだよ、タンクの中に何が詰まっているのか調べてきてよ!」
「そんな・・・さすがにイヤだよ・・・俺だって・・・」
何かタンクの中に詰まっている、という矢口の話を聞いて吉澤も自分の立て
た仮説に若干自信が持てなくなってきた。確かに赤い液体が流れてきて、そし
てその水が全部流れず途中で詰まったとなれば、矢口の言うような「血→タン
クの中に死体」といった符合も、妄想と一言で片づけるわけにはいかないだろ
う。
「ちょっと、それでも男の子なの!」
と、安倍が真顔で叫ぶ。
「はぁ?」
と吉澤は顔を歪める。こんな時だけ(だけ、といっても安倍に再会してまだ
間もないが)自分が男になったことを、都合よく持ち上げる態度に吉澤は少し
だけカチン、ときた。
「くっくっくっく・・・」
そんなときに、意外なところから笑いを必死に抑えようとしている声が聞こ
えてきた。矢口だ。
相変わらず頬は涙に濡れているが、目は泣いていて口元は笑ってるという微
妙な表情のまま、矢口は再びうつむいた。
確かに第三者から見たらヘンな会話だったかな、と吉澤も思い始めてきた。
自分のことで笑われたにもかかわらず、どこかすがすがしいのは、やはり矢口
の笑顔の片鱗でも見ることができたことに起因しているのだろう。
「・・・とにかく・・・俺はゴメンだよ」
吉澤は安倍の要求を突っぱねる。
「たしかにさぁ、ネズミか何かが足を滑らせて貯水タンクの中に落ちて詰まっ
ているのかもしんないけどな」
吉澤はこの論理が矛盾だらけなことに、言いながら自分自身気がついた。
閉めきったタンクの中に、どうやってネズミが落ちるのか?
仮に何らかの弾みで落ちたとしても溺れ死ぬだけで、水が血に染まることは
ないのではないか?
それにネズミほどの小さな身体で、あれほど真っ赤になるだろうか?
やはり錆びた水道水がタンクに貯まっていて、流す際になんらかの原因で、
途中水が詰まったと考えるしかないのではないか。少なくてもその結論に達し
ないことには、ほかに―――考えたくはなかったが「人為的」な仕掛けであっ
たという推論もそのうち出てくるかもしれない。それによってお互い疑心暗鬼
になることだけは避けなければならなかった。
しばらく沈黙が続いた。
他の安倍・矢口の二人も、今の吉澤と同じ事を考えているような表情だ。
「そういえば」
矢口は思い出した。
曲がりくねった長い山道を経てやっとたどり着いた、圧倒的なスケールのこ
の屋敷(つんく邸♂)を外から見上げたときのことを。
2階の多分こちら側(東棟)の部屋の中から―――白いワンピースを来た黒
髪の少女が、矢口たちを見つめていた。
誰かは分からない。でも、どこか懐かしい。となりの飯田の部屋のような気
もするし、今矢口たちがいる「Alive」の部屋だったかもしれない。
それはよく思い出せない。
でもなにか胸騒ぎがする。
洋館。少女。流血。
矢口の背筋に冷たい汗がツツー、と流れる。
「なにが、そういえば、なの? やぐ・・・」
安倍が下からのぞき込む。いつの間にか嗚咽の治まった矢口が、固い決意の
ようなものを秘めた目で安倍に語りかける。しかしそれは、さきほどの安倍の
質問に対する答えでななく、自分自身に対して言い聞かせているような口調だっ
た。
「わたし・・・この部屋イヤ。代わってもらう」
【52-矢口と吉澤】END
NEXT 【53-安倍と吉澤】