【T・E・N】 第48話 矢口
なんで―――あんな態度をとってしまったんだろう。
矢口は自分に割り当てられた「Alive」の部屋のセミダブルベッドで、
仰向けに大の字になり静かに天井を見つめている。解散後も矢口の背は当然の
ようにまったく伸びず、身体いっぱい広げてもベッドが普通の体格の娘に比べ
てやけに広くダブルベッド並に感じられる。
矢口が凝視するのは、ロココ調の複雑な紋様が描かれた千草色の天井の壁紙。
まるで彼女の混沌と渦巻いている今の心の中を映し出しているようでもある。
なんでなんだろ。
この屋敷に一歩踏み入れた瞬間から感じた、あの違和感。
矢口にそんな経験は無いが、まるで異空間に迷い込んでしまったかのようだっ
た。神隠しに逢ったかのような、と形容してしまうのは6、7年ほど昔に大ヒッ
トしたあの映画の影響だろうか。
車の中で安倍に話したような、芸能人として落ちぶれた自分を見て欲しくな
いという羞恥心。この同窓会に参加したくないという気持ちはそこからから来
るものだと考えていた。
だからある程度最初の対面がぎこちないものになるかもしれない、というこ
とは矢口も予測していた。
しかし、それとはまた別の問題のような気がするのだ。
何かここは自分が居るべき場所ではないのではないか、といった喉に魚の骨
が刺さったかのような異物感を矢口自身が味わっている。
ついさきほどの再会を、もう一度矢口の頭の中で整理してみる。
車椅子に乗っている加護。
耳が不自由な飯田。
表面上は明るいが、あんな事件があっただけに不気味な石川。
そして昔から、何を考えているんだかよく分からない紺野。
他にも誰かいたような気がするが、今はそんなことはどうでもいい。
矢口は別に身体にハンディキャップを持っている人に対して、特別な偏見が
あるわけではない。加護の下半身が麻痺したというのは知っていたし、爆破事
件直後お見舞いにも行ったからその姿も見ている。
飯田が聴覚を失ったことも、またそれを隠そうとしていることもメンバーに
教えられて、随分前から知っていた。
それを目の当たりにすることは、あらかじめここに来るにあたって覚悟はし
ていた。
なんでだろう。
ここでは普通じゃないことが、普通なんだろうか。
なんだか自分がいてはいけないような感じがするのは、そのため?
客観的に見て私が一番、マトモだし。
矢口は強く断言できる。
誤解を招く恐れがあるので口に出して言ったことはないが、ここでいう「マ
トモ」とはつまり、いかに世間に溶け込んで生きているかということだ。
娘。だった頃から歌でもトークでもソツなくこなしてきたつもりだし、メン
バー内での人望も並以上だったと自負している。背が低いというコンプレック
スすら、明るいキャラクターで跳ね返してきた。生放送のラジオレギュラーも
こなしていた矢口は、臨機応変に対応できる能力はメンバー随一だったと自他
ともに認めていたし、それは現在も変わっていない。
でも事件後はそれが通用しなくなった。正確にいうと、それが正しいことと
は受け取ってもらえなくなった。
世間が娘。を見る目が変わったからだ。
そして他のメンバーも変わった。変わりすぎた。
じゃあここでは私は異端児ってわけ?
だからかな? なんかチガウって感じるのは。
矢口は自嘲を込めた笑みを浮かべる。
他のメンバーの一部が世間から隔離された位置にいることを当然のように受
け入れている(事件と、その後の境遇を考えると無理もないが)のに対して、
矢口は常にこの5年間、世間に溶け込む努力を怠ったことはない。
でもそれが芸能人としての成功に結びつかないところに、矢口真里の苦悩が
あった。
いったん思考を停止して、矢口は耳を澄ませる。シーシーシー、ジュクジュ
クといったシジュウカラ(四十雀)のさえずりが心地よい。電車のブレーキ音
も、車のクラクションも、女子高生が騒ぎ立てる声も、ここで聞こえることは
まずありえない。
そして改めて、ここは異世界であると確信するのだった。
そう思わないことには、矢口自身があんな態度をとったということに納得で
きない。
そういえば、純粋に娘。だけでこんな人里離れたところで集まるということ
は現役の頃ですらなかった。夏のライブなどではけっこうな田舎で開催される
ことも多く、またメンバー同士だけで自主的にミーティングすることもしばし
ばあった。しかし周囲にマネージャーもスタッフも家族も店員もいない、そん
な場所にメンバーだけで集まるのは、このグループが結成されてから10年の
歴史の中でこれが初めてかもしれない。
その事実に気がついたとき、矢口の胸の中に何かまた別の、体験したことの
ないような気持ちの高ぶりを感じた。
なぜか矢口は、何日か何カ月か前にWeb上に公開されている風俗嬢の日記
を読み漁っていたことを思い出した。
ネットサーフィンをしながらふと迷い込んだのだが、仕事内容の描写よりも
その生き様に強い興味を抱いた。両親や恋人の暴力。過食症や鬱などの精神病。
逃げられた夫の借金を返すために風俗業界に身を落とす妻。浮沈の激しい芸能
界にも通じるものがあるが、そういった「極端な人生」を自分に影響が及ばな
い場所から見つめるのはいつだって楽しいものだ。我ながら無責任だな、と自
省しつつも誰に知られるわけでも、誰に迷惑をかけるわけでもないことに安心
感を覚えた。
しかしだからといってその業界に興味を持ち、たとえば風俗嬢の友達を作り
たいとか思うわけではない。あくまでも矢口が楽しいと感じる境界線というの
は、異世界を外側から見つめるという「傍観」に留まり、少したりともその業
界に関わりを持ちたいとは思わない。何かの偶然でふと、そういった世界に生
きる者たちに会う機会があったとしても、嫌悪感のほうが先走ってしまうので
はないか、と自分で思う。
そして今まさにこの屋敷に訪れて矢口が感じた違和感というのは、それに近
いものだ。
外側から見ている分には構わないが、自分がいるべき領域ではないところに
あえて足を踏み込んでしまったかのような、そんな感触。
もちろん彼女らを風俗嬢と比べること自体馬鹿げているし、自分たち「モー
ニング娘。」もそういった傍観の(しかも比べものにならない程、大規模な)
対象であったことを忘れたわけではない。
それにしても、少々自分を正当化し過ぎるきらいがここ最近の矢口にはあっ
たのではないかと自身で感じている。
郷に入りては何とやらの諺にもあるように、意識のありようによってはこの
異空間に溶け込み、メンバー内の潤滑油的な役割をこなしていたあの頃の自分
に戻ることも可能かもしれない。
できるだろうか、今の自分に。
結果は問題ではない。ここに来てしまった以上やらざるを得ない、と矢口は
諦め半分に思った。
しかしそれと同時に、どう意識を変革しようと抗(あらが)えないような、
巨大が闇がこの屋敷を覆い尽くすといった不気味な予感も依然として拭えない
のだった。
そういえば・・・なっちも同じ気持ちなのかな。
唐突に矢口の脳裡をよぎるのは、つい先ほど自分と同じく、久しぶりの仲間
とのご対面に立ち会った安倍の姿。矢口自身この屋敷に足を踏み入れたときの
違和感に戸惑ってあんな態度をとってしまったが、安倍までもがあまりこの再
会に感動している様子がみられないのは意外だった。
仕事のことは別としても、安倍も事件後は矢口と比較的近いスタンスで娘。
と接してきたような気がする。
あの爆破事件においては、比較的軽い怪我で済んだ二人(安倍の骨折ですら
軽く感じるほどの凄惨な現場だった)。芸能界に残ったこととか、この5年間、
意外なほどメンバーと積極的に接しようとしなかったことなど、共通する項は
チラホラある。
だが、それとは別に矢口にとって気になる点がいくつかある。
事件後ずっとメンバーとの接触を避けてきたかと思えば、矢口にしつこく同
窓会に参加するように勧めてきて「なっちは、このイベントに乗り気なんだ」
と感じさせた・・・かと思えば、一転して屋敷に着いても特にメンバーとの再
会に感激している様子も見受けられない。安倍の行動にあまり一貫性が見られ
ないことだ。
娘。メンバーだった頃も、安倍自身に「自分はグループの中では特別な存在」
という意識が見え隠れしていたが、昨今の彼女の行動はそれとはまた違う。
正直、矢口は現在の「らしくない」安倍の考えていることがよくわからない。
分からないけど、今のところ矢口が真っ先に頼れるメンバーは安倍しかいな
いのも、また疑いようがない。
ついさきほど、この屋敷の2階にある自分たちの部屋の扉の前で「じゃ、私
ちょっとまた昼寝するから」と言って別れた安倍の表情を矢口は反芻する。
読みとれない。
喜び、哀しみ、疲れ、諦め、戸惑い・・・どの感情にもとれる。
専業女優になってからの、テレビのモニタやスクリーンの中での安倍の表現
力は、さすがに以前に比べ格段に上達したのは矢口も認めている。
しかしそれに対してオフショット時の安倍は、モーニング娘。だった頃のよ
うな思いっきり笑って、一直線に怒り、包み隠さず泣き叫ぶといったような一
元的な感情をあらわにするといったことはなく、どこか混沌とした、どうにで
も受けとめることができるような表情を浮かべていることが多い。
それもまたあの事件での後遺症なのだろう、と矢口は受けとめることにした。
あれやこれや考え詰めているうちに、気が付いたら矢口は便座に座っていた。
考え事をしていると、無意識のうちに勝手に身体が動いてしまうことは今まで
もよくあった。
(そうだ・・・一人ウジウジ思い詰めているのも私らしくないよね)
思えば矢口は今だけでなく、この5年間ずっと「ウジウジ」していたのかも
しれない。
薄暗い電灯が照らされるトイレ(ユニットバスルーム)の中で、手を組んで
クリーム色の床を見つめていた矢口がひとりウンウン頷き、やがてある「決心」
が心に芽生えた。
とにかく、行動してみよう。
居間に降りてミンナの現在(いま)を受け入れる努力をしよう。
矢口は立ち上がりトイレ(ユニットバス)の中でひとり「おっしゃぁぁー!」
と握り拳を作った。
鼻息も荒く洗浄タンクのコックをひねる。
ジャアァァーゴボボボボッ。
水が勢い良く出る音がした矢先、半分ぐらい流れ出てあとは何かタンクの中
に詰まったかのような鈍い音が矢口の耳に届く。「あれ?」と思った矢口は、
つい先ほどまで自分が座っていた便器に視線を落とす。
便座の内側が、真っ赤な液体で染まっていた。
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