【T・E・N】 第40話 矢口と安倍
9月23日午後1時。
この日は、郊外の撮影スタジオでドラマの収録を終えた安倍をそのまま矢口
が拾って、同窓会場であるつんく邸へと向かう段取りになっていた。
昨日の夕方から深夜、早朝、そして昼。
過酷な現場に立ち会い軽い仮眠しかとっていないらしい安倍は、矢口の車に
乗り込むなり緊張の糸が切れたのか、広々とした後部座席に横になり深い眠り
についてしまった。
2時間、そして3時間たってもまったく起きる気配がない。
その頃になると矢口は疲れは安倍ほどたまっていないにしろ、単調な山道を
話し相手もなく運転し続けるのにかなりの苦痛を感じていた。
眠気覚ましにFMラジオを聴いていたが、矢口の嫌いな曲が流れだしたため
に、洋楽のCDに切り替えた。スザンナ・ホフスの「Only Love」。
♪but every drop of rain that falls makes a flower grow
don't give up now, don't give up now
baby, don't you know
矢口はもちろん運転に集中していたのだが、そのフレーズを聴いたら自然と
涙がこみ上げてきた。
「ど、どーしたの? まりっぺ!?」
後ろから聞こえてきたその声で、安倍が目覚めたのを知った。
曲がりくねった山道をなるべく仲間を起こさないよう矢口は、いつもに増し
て慎重に運転していたつもりだった。しかし路面が荒れはじめ寝心地が悪かっ
たせいか、いつのまにか身体を横にしながらも安倍は目をぱちくりさせていた。
それは明るい曲調なだけに、意外に思ったのも無理はない。
矢口は慌てて適当な言い訳をして、その場を逃れた。自分でもその涙の理由
を知りたいぐらいだ。
安倍はしばらくうつろな目で黙っていたが、おもむろに起きあがりプラダの
ボストンバックからラップトップパソコンと携帯電話を取り出した。
「なっち、こんな山奥なのに繋がるの?」
曲がりくねった山道のため運転に集中せざるを得ない矢口。
バックミラーごしに見える、後部座席でPCを開いて何かをしている安倍を
チラチラ目にしながら呼びかける。
安倍が車窓を開いて電波を受信しやすいように左手に掲げている携帯電話は、
矢口の持っているような普通の薄っぺらい機種とは違ってちょっと黒くてゴツ
いものだった。その携帯とケーブルで繋がったパソコンでどうやらモバイルし
ているようである。
「ん〜、一応。衛星通信だから」
「ええ!? エーセー携帯なの、なっちのやつって!
あれって基本料金すごく高いって話だけど?」
地球上何処にいても繋がる、世界統一規格の携帯電話。数年前から存在はし
ていたものの、一般に普及し始めたのはごく最近の話で、それも非常に限られ
たの種類の人間でしか持っていないというシロモノだ。
「う〜ん、よくわかんない。事務所から渡されたヤツだし。
去年の映画の撮影のときに役にたったぁ」
安倍なつみ主演の離島を舞台にした生死をかけた「極限の愛」をテーマにし
た映画が昨年公開され、スマッシュヒットを飛ばしたのは記憶に新しい。
「そっそう、事務所にね・・・」
素気なく答える安倍に、矢口は複雑な心境になった。
同じ事務所に所属してはいるのにもかかわらず、当然矢口には衛星携帯電話
など支給されたりはしない。車のカップホルダーに入れてある2年前に発売さ
れた自分の携帯には、この秘境では当然のように「圏外」と表示されている。
安倍と矢口に待遇に差があるのは当然だし、昔から自覚していたつもりだっ
た。しかし、いざモノという形で目の当たりにすると、やはり矢口はガックリ
と肩を落とすのだった。
「たった一日ぐらい、外の世界のこと忘れちゃいたほうがいいかぁ」
ちょっと反省まじりになりながらも、安倍はパソコンの液晶画面に目を走ら
せる。ときどきキーボードを叩き、メールチェックとその返事をしているよう
に見える。
「まあ、別にそんなことはないとは思うけど」
矢口は本心でそう言った。
未だにメンバーだけの世界を素直に楽しもう、という気にはなれないでいた。
あれほど5年前まであたり前だった、メンバーだけの顔合わせ。
だけど現在では、娘。の中に身を置いている矢口、というシチュエーション
を想像できない自分がいる。
ああいった形での幕切れを迎えたグループが5年という時を隔てて人里離れ
た屋敷に集まり同窓会をしようといったことに、とてつもなく不吉な予感とピ
リピリした緊張感を矢口は抱かずにはいられないのだ。
あまりメンバーには関わりたくない、という矢口のその想いは2年前、アメ
リカで後藤の身に起こったあの事件でより一層強くなった。
(私だけなのかぁ・・・? 9人も集まるのが意外だと思ったのは)
できることなら参加したくない、という気持ちは今も変わっていない。
どこかの都内の料亭などで開催される同窓会であれば、途中で気分を害した
ら、適当な理由をつけて退席すれば済むのに、と矢口は思う。まだ逃げ場があ
る。同窓会の開かれる場所がこの山奥のつんく邸だと知ったときには、ギリギ
リになるまでキャンセルしようかどうか迷っていたぐらいだ。
が、安倍の半ば強引な推しと説得によって出席せざるを得なくなった。
安倍が目覚めたため、ようやく矢口はまともに彼女に話を振ってみよう、と
いう気持ちになった。
「それにしてもなっち、ホント仕事忙しそうだよねー」
「う、ん〜、ホン(台本)覚えるのが大変なんだよ〜、あたし物覚え悪いから」
「もうみんな豪邸に集まっているのかなぁ?」
「えへへ、このままだとちょっと遅刻しちゃいそうだよね」
「なっちの場合はもうモーニングの時代からミンナあきらめているって」
久しぶりにハイトーンヴォイスでケラケラ笑う矢口。
撮影が押しただけで遅刻の原因は安倍にない。それゆえ、ムスっとした表情
を浮かべて反論する。
「そうかなぁ? 自分では昔もあんまり遅刻したキオクってないんだけど!」
矢口はふくれた安倍をハイハイ、と軽くあしらう。
「でね、なっち」
「何?」
「私本当はこの同窓会に参加する気なかったの」
矢口がぽろりと漏らした本音に、安倍は息をのむ。
「・・・どうして?」
運転手である矢口は上唇をちょっとだけ尖らせて、ずっと山道の先を見つめ
ている。先ほどの笑顔とはあきらかに違う。
何かを考え込んでいるような、懐かしんでいるような、迷っているような、
そんな表情だった。
【40-矢口と安倍】END
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