【T・E・N】 第37話 保田と後藤
渡米した保田は最先端の火傷治療の権威とも言われている、とある外科医の
もとで治療に専念することにした。初老のどっしりとした体格の医師は(日本
での担当医の冷たい目とは違って)太い黒縁メガネの奧から優しい瞳を保田に
さしのべて、ゆっくりと語った。
(ノープロブレム、きっと元の姿に戻れますよ、ヤマトナデシコさん)
アメリカ北西部の豊かな自然に囲まれた環境の中で、保田は充実した時間を
過ごしていた。「治療に専念」のつもりだったが気を紛らわすためとの名目で
英語の勉強やヴォイストレーニング(ただしこれは医者に止められることもし
ばしばあった)、さらには作曲までにも精を出す日々。
周囲の人々は勿論のこと、自分でもびっくりするぐらい精力的に取り組んだ。
アメリカは胸のもやもやした何かを忘れて、掲げた目標に没頭するのにはもっ
てこいの国だった。いや、日本でなければどこでも良かったのかもしれないが。
(自暴自棄になりかけていた、こんな自分に期待をかけてくれている人たちを
裏切るわけにはいかない)
逆境でも、なお燃え続ける「ムスメ魂」は異国の地でもいかんなく発揮され
ていた。
施設には同じ境遇に悩んでいる様々な人種の患者がおり、お互いを励ましあっ
た。それぞれの国の歌を教えあい、そして合唱する。
ほんとうの意味での、音楽の楽しさを全身に染み込ませたのもこの時期だ。
日本でも、アメリカでも多くの人に支えられて、保田は生きる勇気をもらっ
た気がしたのであった。
そんな最初の一年が経過し、異国での生活がようやく馴染んできた頃。
モーニング娘。時代の盟友・後藤真希もアメリカ留学している、という話を
保田は元マネージャーの和田の口から聞いた。
しかも、記憶を失っているという。
このことを知っているのは、親族と所属事務所関係者、そして元メンバーの
中でもごく一部だけらしいことも分かった。
マスコミには療養中とだけ伝えられ、事実を知っている人それぞれに、記憶
喪失の事に関しても米留学のことに関しても、厳しい箝口令が布かれていた。
それを聞いてもなお保田はアメリカでの孤独な闘いとの中で、あの後藤に会
いに行きたいという願望が日に日に高まっていくのを感じた。自分の住んでい
るとなりの州に生活していると分かったときは、いよいよその気持ちは抑え難
くなってきた。
いてもたってもいられなくなり、かつて所属した事務所に相談する。
決して自分の身分を明かしたり、モーニング娘。時代の話をしたりしないで
ほしいという条件つきで、住所を教えてもらった。
・・・だが会ったところで、記憶を失っている後藤に何と声をかけたらいい
のだろう?
それに加えて、自分はまだ人前に出れるような状態ではない。自分がもし逆
の立場だったら、異国で顔に傷を負った見知らぬ女性に突然訪ねられても困惑
するだけだろう。
結局、保田は考えがまとまらないまま、担当医から2日の休暇を貰ってカリ
フォルニア州・サンフランシスコにある後藤の住んでいるアパートへと向かっ
た。
サンフランシスコという言葉の響きに保田はどこかレトリックな、セピア色
のイメージを抱いていた。飛行機の座席から見おろして、眼下に広がる霧に包
まれた都市。赤レンガ色の巨大な鉄橋などがそのイメージを強くする。
どこか、夢見心地。
あの歌のメロディが、保田の頭の中で延々とループして流れている。
(邦題では「夢のサンフランシスコ」って言われるぐらいだしね)
そのメロディとは、往年の名曲・スコット=マッケンジーの「“花の”サン
フランシスコ」だった。
空港を降りて中心地のユニオン・スクエアへとバスで向かう。それに乗って
いる30分程の間に窓の外を眺めながら保田は、自分の抱いていたイメージが
半分当たっていて、半分的外れなことが分かってきた。
懐かしさと近代的な先進性とが一体となった、洗練された都市。
ユニオン・スウエア(正方形)はまさにその近代都市の象徴のように保田の
目には映った。そこの近くの予約してあったホテルに荷物を預け、冬が近いと
はいえ温暖なアメリカ西海岸においては不自然なくらいの厚着で保田はダウン
タウンへのバスへと乗り込んだ。
周囲には名所の「ゴールデンゲート・ブリッジ(さきほど飛行機の中から見
た巨大な鉄橋だ)」や「フィッシャーマンズ・ワーフ」などへと向かう観光客
の姿が多く見て取れる。
坂がとりわけ多い市内への移動は、風情ある黄色いケーブルカーに乗るのが
観光客の定番だ。
後藤の住んでいるアパートのブロックの近くにはそのケーブルカーの路線は
無い。あるいは冷静だったら少し遠回りしてでも、ちょっとした市内観光を楽
しみたいと思ったかもしれない。
しかし頭の中が後藤のことで一杯の保田は、なりふりかまわず最短距離の市
バスへと乗り込んだ。
中心地から遠くなるにつれて、徐々に車内の客の姿も少なくなる。
いつの間にかバスに揺られているのは運転手と保田、そして若いカップルの
4人だけになった。
少しだけ西へ傾いたオレンジ色の太陽が、保田を正面から照らす。
テンガロンハットを深めに被っているとはいえ、直射日光を浴びるとさすが
に顔の傷が目立つ。光を背に浴びるように保田は向かい側の座席へと移動した。
後藤との再会は突然、意外な形となって目の前にあらわれた。
【37-保田と後藤】END
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