私はこの不思議な出来事が嘘でないことを告げるように、
よっすぃーの目を見ながら訥々と話す。
最初よっすぃーは微笑みながら、聞いているうちに真剣な顔に変わっていく。
私が話を作るような性格じゃないのを知っているから、
この不思議な犬のことを真剣に考えてくれているのだ。
遠くからも見えるような大きさで私を待ち、そして見つめていた。
あれだけ目立つ光を放っていながら、誰も気がついていないようだったこと。
私が近づくと名残惜しそうに消えていったこと。
いま思い出しても不思議と言う言葉しか浮かばない。
渋谷の地下にあるコンコースに時折足音が響く。
話し終えてから少しの間沈黙があった。
やっぱり変に思われちゃったかな?
普通に考えたら私の頭がおかしくなったと思うのが常識だよね。
私は恐る恐る尋ねる。
「やっぱり変かなぁ」
変だよね。冷静に考えて変だと思う。
頭がおかしくなったとしか思えない寓話。
私自身はおかしくないと思っていても、気が付かないうちにまわりとズレてきた。
そんなことがあり得るのかも知れない。
学校をやめてから1ヶ月。影響がないとは言い切れない。
こんなこと言うべきじゃなかったのかな?
例え気の置けないよっすぃーにも言うべきじゃなかったのかな?
意を決して、私が『ゴメン、いまの全部冗談。おもしろかった?』と言おうとした瞬間。
「うううん、おもしろかったよ。不思議な話だね」
よっすぃーはようやく整理がついたのか、ゆっくりと切り出した。
「まるで『白い犬とワルツを』みたい」
「えっ?!」目を丸くして動きが止まる私に向かってよっすぃーは続ける。
「知らないの?来月からロードショーも始まるんだよ。
去年話題になったベストセラー小説」
…知らなかった。学校をやめて以来一切の情報回収を遮断している。
いや去年一年間もライヴ以外には外界との接点を拒んでいた気がする。
それはそれで支障がないのだから、現在は情報過多なのだと思っていたのに…
うつむき加減に思索する私に向かってよっすぃーはさらに続けた。
「ごっちんみたいな世捨て人じゃないんだから知っているって。
あ、もしかして私が教科書と『クッキーシーン』以外興味ないと思っているなぁ。
ヨシオさんをバカにしているだろう。プンプン!」
よっすぃーはむくれたフリをする。よっすぃーは自分を下げることで、
不安定な私のことを気遣ってくれているのだ。
あくまでもさりげなく…
感謝。ありがとう、よっすぃー。
しかし、よっすぃーも読んでいるようなベストセラーとは…
ちょっと興味が沸いてきた。
よっすぃーはあの学校で成績トップにいる優等生。
そのよっすぃーが唯一見る雑誌が『クッキーシーン』と言う
マニアックな洋楽を紹介したもの。
こんなのを読んでいるからなのだろう、よっすぃーの去年のフェイバリットは、
ベンズ・シンフォニック・オーケストラ
よっすぃーに借りて聴いてみたが、それほどいいとは思わなかった。
それだったらまだ私はトータスのほうが好きだ。人それぞれと言うことだろう。
いや、違う『白い犬とワルツを』の話だった…
どんな話なのだろう?タイトルから察するに白い犬が出てくるのだろう。
でも犬とワルツなんてどうやって踊るの?
もしかしたら全然勘違い?知らないことが怖い。
いや、たぶん知ってしまうことも怖い…
よっすぃーが、そう言うのだから似ている状況があるのだろう。
ちょっと興味が沸いてきた。読んでみようかな。
久しぶりにネット検索で関連ページを探してみよう。そのためには…
「それって誰が書いているの?」
「う〜ん確かなんだかケイ。外国作家。よく覚えていないや」
よっすぃーにしては珍しい。彼女にも覚えていないことがあるんだ。
「ケイ?」え〜っと。「あのさっきの…」
「いっちおう言って置くけど保田圭さんとは違うからね」
…先回りされてしまった。
さっきからよっすぃーには助けられてばっかりだったから逆襲したかったのにな。
きょうは連戦連敗みたいだ。あんまり無理しないようにしよう。
私のギャグがおもしろかったためしも数えるほどしかないことだし…
よっすぃーの目を見た。私を安心させてくれる笑顔だ。
負けて本望かな。
「そろそろ時間だね。アリガト、こんな話に付き合ってくれて」
「ううん、おもしろかったよ。きょうのライヴと甲乙つけがたいね。
いつか自分にも、その白い犬が見られるようになるといいなぁ」
私は真意がわからず、小首をかしげる。
「小説では、他人にも見られるようになるところがクライマックスなんだよ」
「ふ〜ん」
似ていると思う。他の誰にも見えない私だけに見える白い犬。
少なくともここまでは同じだ。
私にだけしか見えないと言うことは、
たとえ私が表面上この世で一番信頼できる人物として、
よっすぃーを選び告白したのだとしても、
(まだ実験していないとは言え)他と同じように見えないのならば
その他大勢の人となんら変わりはない。
自分にとって無価値な人々と同格になってしまうのだ。
よっすぃーが私にとって重要な存在だなんて、そもそも思い違いなのか?
私がそう思い込みたかっただけなのか?
これはよっすぃーに対して失礼だとは承知。
だけど、この不安は否めない。
もしも、その白い犬を見られる機会ができたとしても、
よっすぃーが白い犬を確認できなかったとしたら…
いやいやそんなことは起こるはずがない。
よっすぃーには見えてくれるはずだ。
すぐにではないかもしれないが、よっすぃーには見えてくれるはずだ。
じゃないと…
いや見えてくれるに違いない。違いないのだ。
そう思わないとやり切れない。よっすぃーの存在意義を疑うなんて…
そんなことは思いたくもないし、あるはずがない。
そして、こんなことを考えているなんて悟られたくはない。
だから、私のそんな心の葛藤を払拭するように強く思い込む。
そう、この白い犬がよっすぃーにも見えて共有できるとしたら、
どんなに素敵なんだろう。
たぶん私はよっすぃーにこの犬を見てもらいたい。
この素敵な出来事をもっと上の部分で共有したい。
そうなるにはどうしたら?
まったく同じ展開になるとは思えないが、『白い犬とワルツを』のなかに
ヒントらしきものがあるかもしれない。
探し物は案外単純なところに潜んでいるものなのだ。
それに、最近は小説なんかまったく読んでいないことにも気がついた。
読んでみようかな。
たぶん読んでみたほうがいいだろうな。
「じゃあね、よっすぃー。また連絡するよ」
「またねぇ〜、ごっちん」
私たちは渋谷駅構内で別れた。よっすぃーは埼京線。私は銀座線に乗るために。
銀座線の渋谷駅は始発駅ということもあり座ることができる。
電車の中は静かではないけど、それぞれが他人に干渉しないモードに入っているから、
けっこう自分の空間を構築することが可能だ。
そこで私はきょうの不思議な出来事。素晴らしかったライヴのこと。
今日出逢った圭さんのこと。そしてよっすぃーに教えてもらったヒント。
それらのことを反芻してみた。
納得のいく結論なんか出そうにないけど、
考えないと整理しきれないくらいいっぱいあった。
そういえば最近は深い思索に入っていないな。
学校を辞めてから、考えるのを拒否していた部分もあるから
重くて仕方がない。なんか錆びついているような感じだ。
使わないと衰えると言うところか?
深く考える価値のありそうなことがなかったとも言えるだろうが、
それは私の“やる気”のなさに起因するところも大きい。
いや能動的に拒否していた部分もあるだろう。
だけど、いまは考えてることが楽しい。
本当にきょうはいろいろなことがあったと思う。
電車を乗り継いで小岩に着いた。
もう春とは言え、夜はまだ肌寒い。
寒さから身を守るべく体の筋肉を収縮させてみる。
左側が少しかけた月が見える。凍える月。
ここからは通いなれた道。典型的な下町。
こんな下町気質のところでは、顔見知りに出会うとひとしきり近況を聞かれてしまう。
それでなくともあまり人との交流を避けたい私には、
そんな人情味がうざく感じることがある。
暖かさ、優しさにあふれているのはわかっていても逃げ出したい気分だ。
特に学校を中途で辞めた引け目を感じているので、できるならば誰とも会いたくない。
だから、こんな時間にここを通るのは好都合だった。
いつもの夜の静かな下町。
普段はその“真夜中の恩恵”に預かるだけでなにも感じたりはしないが、
きょうのいろんな出来事のおかげで、何か新鮮な雰囲気がある。
ほとんど閉ざされたシャッターにも活気がにじみ出ている感じ。
普段ならそう思わないのに、心持ちですべてが変わることを実感した。
路傍に桜を見かける。ほぼ満開の桜。
街頭に照らされて艶やかに輝いている。
色彩の鮮やかさが夜の色をバックに浮き上がっているみたいだ。
でも、こんな季節の移ろいに気づいたのも久しぶりかもしれない。
そういえば昼間にはツバメの姿も見たなぁ。
この季節の風の強い日には、ツバメが群れを成して現れてきたはず。
ツバメ。ツバクラメ。
そういえばツバクラメで有名な歌があったと思う。
なんだったろう。授業で出てきた気がする。
…思い出せない。あとでユウキに聞いてみよう。
あいつなら知っていると思う。
あいつは私よりも数段頭の出来がいい。
だが、そのことに悔しさは沸いてこない。
そもそも、そこに自分のアイデンティティを感じていないからだろう。
珍しく前向きだな。知りたいと思うなんて。
なにか自分の中に活気が蘇ってきたのかもしれない。
最近は、こんなに疑問を持ったり、感動したり全然なかった気がする。
自分の中ではうれしい変革だ。
いや、普通の人としての感覚が戻ってきたと言うことだろうか。
昔はそれこそ普通に感情を表すことができていたと思う。
この変化をもたらしたきっかけと言えばやっぱり、
“初恋の嵐”を置いて他にはないだろう。
彼らの「untitled」を聴いているときに、あの白い犬が現れたのだから。
それ以外に原因を求めることは無意味だろう。
この世界には事象と、その事象を起こす原因がある。
あの白い犬が現れてきたのにもそれなりの原因があるはずなのだ。
それを曖昧なままにして置くことも可能だし、
その逆に解明しなければ居ても立ってもいられない場合もある。
どんな角度から研究しても、それらの関連が見いだせない時には、
“不思議”や“偶然”と言うブラックボックスを使ってスケープゴートにしてしまう。
わからないままにして置くよりも、
何か理由を付けて理解できる範囲にしてしまうほうが人間は安心できるらしい。
少なくともいまの自分には理解できる。
このままブラックボックスに放り込むなどもったいなくてしょうがないからだ。
ホントに変わったな。つい最近はこんな深い考察をすることもなかったのに、
やる気のかけらもないはずの私が、こんなにも変わるなんて…
ポケットの中の携帯がMAIL着信を告げる。
「みにもにテレフォン」とか言う曲らしい。
これはマリーにイタズラされて着メロが自分の知らない曲になっている。
特にお気に入りがあるわけでもないので変更していない。
私の印象はかわいらしいけど変な曲。
人前でチョット恥ずかしいような感じがするくらいだろうか。
そう言えば以前電車の中で鳴った着信音に周りの人が笑っていた。
子供もいた。サラリーマン風の人もいた。
いったいこの曲はなんなのだろうか?
私が似合わないと言うことなのか?
別に笑われることに関してはさほど気にならないが、
ふつうの人がふつうに知っていると言うことのほうが気になる。
私は世捨て人としてのランクの高いほうにいるようだ。
MAILは予想通りよっすぃーからだった。
たった一言「テリー・ケイ」
よっすぃーらしさに溢れたMAILだ。
この一言の中にいろんなものが詰められているのがわかる。
さっき思い出せなかった作家の名前を思い出して、
私がその小説に興味を持ったのを知っていたからすぐに教えてくれたのだ。
それと、あんな変な体験をカミングアウトした私を気遣ってくれた。
たった一言だから伝わることもある。
いまはよっすぃーに甘えていよう。これから私の方が助けることがあるかも知れない。
それまでは甘えていよう。
一言MAILの返事を書く
こちらも一言MAILで返信するのがいいだろう。
「サンクス」MAIL送信。
送った後、笑みがこぼれる。
よっすぃーの微笑んでくれた顔が目に浮かぶようだ。
ふふふ。
すると間髪入れずに着信があった。
こんなに早くはよっすぃーも返信できないだろう。
なに?
いぶかしげに内容を確認する。
それにもたった一言だけ「赤光」
送信者不明。
さっきまで笑っていた顔が急に強ばってくるのがわかる。
いったいなんなのこれは?