地上最強に最も近い存在が目の前に立っている。
その事実が後藤真希の闘争心を今までにないくらい熱く熱く燃え滾らせていた。
宇多田ヒカルが指をチョイチョイと自分の方へ向ける。
(誘っている、地上最強が私を誘っている)
(今…ここで…この拳を…あの顔にぶち込めば…)
(私が地上最強!)
後藤真希が飛んだ。もうこの闘争心を抑え切ることができなかったのだ。
疾い。今までで最高の動き。完璧のタイミング。伝家の宝刀、双龍脚!
「まあまあね」
だが宇多田ヒカルはこれを難なく避ける。
いや違う、避けさせたのだ。蹴り足が途中で止まる。時同じくして後藤の右腕が風に乗る。
フェイント!必殺奥義を囮に、本命はこちらだったのだ。これには流石の宇多田も…
「やっぱりまあまあだ」
後藤の右腕は空を切った。宇多田ヒカルは何事もなかった様に佇んでいた。
誰かが言った。
「これがWait&See…地上最強の防御」
Wait&See…その名の通り「待つ」ことと「見る」ことを基本としたスタイル。
宇多田ヒカルがこのスタイルに入ったとき、彼女に見切れないものはないと言われている。
単純だが、単純だからこそ対処の仕様がない。地上最強の防御と呼ばれる由縁。
その後、後藤真希は幾度の攻撃を繰り出す。その全てが素晴らしいものであった。
けれども、宇多田ヒカルにはかすり傷の一つ付けることができなかった。
肩で大きく息をする後藤。彼女のこの様な姿を見るのは誰もが初めてである。
対する宇多田は汗一つかいていない。試合前と同じ表情。
「もういい?今度はこっちがいくよ」
空気が一変する。宇多田ヒカルがスタイルを変えたのだ。後藤は慌てて構え直す。
(え?何これ?ちょ…読めない)
全ての突きが、蹴りが、後藤にクリーンヒットしていた。
後藤も防御はしている。だが何故か躱すことができないのだ。
(動きが読めない…予測ができない…防御できない)
これが宇多田ヒカルの攻撃スタイルAutomatic
己の意志とは無関係に自動化された技の数々、思考していては追いつくはずがない。
後藤真希の顔に体に、傷と痛みが蓄積してゆく。
「とどめ」
会場の全ての人間が息を飲んだ。その姿に完全に魅せられていた。
宙に蹴り上げた後藤を追って自らも舞い、そして後藤の頭部に手を添え振動を与える。
意識を奪われ落ち行く後藤真希の姿は、さながら散り行く桜の様にも見えた。
「SAKURAドロップス」
あまりに強烈にしてあまりに優雅な、宇多田ヒカルの最新奥義であった。
かつてはモームス最大トーナメント最強の王者であった後藤真希をして、この強さ。
特別力がある訳でもない。特別動きが速い訳でもない。特殊な能力がある訳でもない。
ただ強いのだ。
宇多田ヒカルはただ強い、それだけなのだ。そしてこの世界ではそれが全てなのだ。
「レベルが違い過ぎる」
観覧席にいた飯田が悔し気に唇を噛んだ。達人保田ですら震えが止まらない。
病室のモニターで観戦していた石川と吉澤は互いに言葉も出ずにいた。
自分達がずっと追い続けてきた娘が、何もできずに負ける。その現実の重さ。
後藤真希の敗北。誰の頭の中にもその七文字が浮かんでいた。ただ二人を除いて…
グラップラー真理。奇跡を起こせるもんだ!彼女は自らの体でそれを証明してみせた。
そしてもう一人…なっち。安倍なつみが後藤真希を睨み付ける。
こんな処で終る気かと!お前が本当に闘いたい相手は誰だと!
私はここにいるぜと!
後藤真希は目覚めた。そしてふらふらと立ち上がった。
(誰かが呼んだ気がした。ううん、それが誰かは分かっている)
宇多田ヒカルは眼をパチクリさせた。そして少し笑みを浮かべた。
(あの技を受けて立ち上がるか。いいねぇ、それでなきゃ参加した意味がないよん)
後藤真希と宇多田ヒカルが再び合い並ぶ。
「さぁてどうくるゴマキちゃん?何か対策みつけた?」
「ない。みつかんない。でもだけど負ける訳にはいかないんだよね」
「ワガママ?」
「これが普通の試合だった多分もう起きなかった。でもこれは、この大会は違うんだよね」
「……」
いつしか後藤真希の双眸に熱いものが込み上げていた。
「わたしにはこれが最後だし…まだ決着を付けなきゃいけない奴等がいるんだよね」
「その小さな体で奇跡を起こせる奴がいる」
「多分私を越えるくらいの未知数のモンスターが二人程いる」
「そして…なっちがいる」
「彼女等と決着付けないまま…卒業はできないんだよね。だから…だから負けない!」
王者の咆哮。その手が再び拳を握る。後藤真希の全ての想いを乗せた最後の一撃!
宇多田ヒカルは「見た」。と同時に後藤真希の熱き想いに一瞬「見とれた」。
その一瞬が僅かな遅れを誘った。地上最強の防御が崩れた。
ピシッ!
紅き血が舞う。宇多田ヒカルの頬に紅い線が浮かび上がっていた。
「傷だ。」
「宇多田ヒカルに傷を付けた!」
観客席が湧く。宇多田ヒカルに傷を付けた女は過去に一人しかいない。それ程の出来事。
後藤真希は拳を突き出したまま、もう動く力も残ってはいなかった。
宇多田ヒカルは頬に手を当て、久しぶりに見る自分の血を確かめた。そして思った。
(ここで潰すには惜しい)
「ゴマキちゃん。ここは貸しといてあげる」
くるりと背を向けた宇多田ヒカル、彼女の口から信じ難い言葉が出た。
「え?」
「もう飽きちゃった。アタシはここらでおいとまします。んじゃね〜」
手を振って宇多田ヒカルは闘技場を出ていった。最後まで読めない行動。
結果、宇多田ヒカルの途中退場、勝者には後藤真希の名が高らかに挙げられる。
(どうせなら優勝してこっちの世界に来い!後藤真希!)
地上最強の女は自らの舞台へと戻り、いつの日か借りを返しに来るのを待っている。