私の心臓はあの時からその鼓動を止めたまま、まるで機械仕掛けのポンプみたいに与え
られた仕事を淡々とこなしている。決して乱れることなく、揺らぐ事なく淡々と。きっと
私は待っていたんだと思う。あの情熱を、あの興奮をもう一度私に与えてくれる人を。そ
してそれができるのはあの人しかいないと思っていた。だからその彼女が消えた時思った
んだ、これで私の胸のスイッチが入る事は完全になくなったと。
ドクン……
だけどこの鼓動は何?今また胸が高鳴っている。これはあんたのせい?それとも…
確かめてやる!
『後藤真希だあああああ!!』
王者の入場。決勝への椅子をかけた闘いがいよいよ始まる。この場所に後藤真希が立っ
ている事は誰もが容易に想像できた。それこそは勝利が当然とされる王者としての扱い。
だが、対する相手の娘は、まさかここまで上り詰めるとは想像し難い存在であった。少な
くともこの大会が始まる前までは。
『対するは辻希美!!』
さぁ、はじめよう。
あんたに私のスイッチを入れるだけの器があるのかどうか。みせてもらうよ。
「隣、いいかね?」
「ん、ああ。」
「どれ、よっこらしょっと。」
この大一番を特等席で観戦しようと、特別観覧席に座り込んでいたTAP会館館長飯田
圭織の隣に腰を下ろしたのはなんとプッチ総帥保田圭であった。思わぬ所で格闘技界の二
巨頭が肩を並べることになった。
「飯田さんや、おぬしはどうみる。このカード。」
因縁浅からぬこの二人、先に声を掛けてきたのは老獪保田圭であった。
「なんだい婆さん、わざわざ俺の予想を聞きに来たのかい?」
「フォッフォッフォッ、ちと気になっての。」
「辻のことか。」
「うむ、罷りなりにもお主を倒した程の娘じゃからのう。」
「強いぜ。」
「ほお、ではおぬしの予想では、勝つのはあの娘と?」
「いや、無理だろう。」
飯田の瞳は、闘技場に立つ二人の猛者を冷静に見下ろしていた。
「ひゃ……99%、勝つのは後藤だろうよ。」
保田がうなずく。当然、誰がどう見ても後藤の方が上。
だが100とは言い切れない。あの小さな娘は1%の何かを秘めている。
『はじめぃ!!!』
開始の合図がなる。さあ熱き闘いが始ま……
「後藤さん。」
静かに乾いた声が闘技場に落ちた。その声は確かに辻の口から出ていた。いつもの辻な
ら開始の合図と共に拳を振り上げて突っ込んでくるはず。明らかに様子がおかしい、今ま
での辻とは明らかに雰囲気が異なっている。思わず後藤まで動きが止まってしまった。
「棄権してくらさい。」
出てきたのはあまりに場違いな科白。イントネーションがおかしいだけだと思っていた
が、どうやら日本語の使い方までおかしいみたいだね、この子は。
「あなたをころしたくはないのれす。」
拳を右胸あたりに持ち上げ呟く辻。その肩は微かに震えている。
(あいぼん……)
「いまのののはもうじぶんれもとめられない。」
怒りという未知の感情、辻は怖くて仕方なかった。この感情に身を任せて力を解放して
しまうことが。一体どうなってしまうのか。
(松浦亜弥)
この力を使うのはあいつだけ、大事な約束を、大切な友達を、全てを奪った憎き女。
だから何の罪もない人にこの力を使うことはしたくない。
「お願い、棄権してくらさい。後藤さん。」
幼子が父親の身を案じるか?アリが象の身を案じるか?
「とめなくていい。」
「ふぇ?」
「それでいい、殺す気で来い。でなければ私がお前を殺す!」
後藤の飛び出し、右のハイキック。咄嗟に身をかがめる辻、背の小ささが幸いし、かろ
うじて躱せた、と思うのも束の間、左ハイキック。伝家の宝刀、双龍脚!辻が崩れ落ちる。
小川戦と同じパーフェクトコンビネーションが決まった。だがまだ王者は止まらない。三
つ目の牙が天を駆ける。落ちる辻のアゴを爪先が捕らえた。小さな体が宙に舞った。防御
不可能、ダウンすら許さない、息も付かせぬ後藤の光速打撃は終わりを見せない。右フッ
ク、左ストレート。あまりの速度に辻は防御どころか反応することさえできない。重過ぎ
る後藤の一撃を全てもらっている。
「真希は本当に殺す気じゃ。」
保田の頬に汗が流れ落ちる。未だかつてこれほどの後藤真希を見た事はなかった。なぜ
そこまでこの娘にこだわる。挑発を受けたからか?それとも…
(何をしてる、早くみせてみなよ、殺すんだろ私を)
(それなんだよ私が望んでいたのは、自分でも抑え切れない程の力)
(あいつも、なっちもそれを持っていた。小さな体に修羅を押え込んでいた。)
「解放してあげるよ、私が!」
「またケンカしたって、あの子。」
「かわいい顔して、とんでもない暴力魔だってな。怖い怖い。」
孤児院の薄暗い部屋の片隅で少女はいつも独りぼっちで泣いていた。
「希美ちゃん、どうしてケンカなんかするの?」
「らって、みんなののをバカにすんらもん、お父さんもお母さんもいないって…」
顔も知らない両親、物心ついた時からずっとひとりぼっちだった。
「だからって暴力は駄目、あなたは強い子だから分かるわよね。」
強さは誰かを悲しませる物じゃない、誰かに勇気を与えるものだって。
「わかんない、わかんないよ先生!!」
孤児院を飛び出して当てもなく走った。走り続けた。見た事もない町角で、疲れと空腹
により少女はついに足が止まった。その眼に街頭放送の映像が映し出される。
『安倍なつみダウーーーン!!立ち上がった!!また立ち上がったぁーーー!!!』
偶然だったそれを見れたことは。倒れても倒れても立ち上がる、決してあきらめない本
物の強さ。少女は勇気をもらう。そして願う。私もあんな風になりたいと。
あの日あの時焦がれた場所に少女は立っていた。目の前には後藤真希。少女は今なっち
の場所にいた、本物の強さを手にして。
(なっちさん、ののも少しはつよくなれたかなぁ…)
ピシィ!
王者の頬に赤き線が刻まれた。この大会を通じて初めて負う傷。後藤は動きを止めた。
ついに、ついに、目覚めたか!?
頭を下向きにうつむいたまま、右拳をゆっくりと中央へと運ぶ辻。
ドクン……
(忘れもしない、この衝撃、この胸の高鳴り)
(ようやく、ようやく叶うんだね、なっち……いや、辻希美。)
修羅の目覚め。
(これでようやくあんたは私となっちに並んだ。)
「後藤さん…ありがろう。もうまよわないから。」
初めてできた大切なトモダチの為に、それを奪った憎き仇の為に。
「全力れあなたをたおす。」
空気が変わった。彼女が変えた。
ドクン…ドクン…
もうこの鼓動が鳴り止む事はない。スイッチは入った。あいつが入れた。
3年越しの真希の想いが、今ようやく叶ったのだ。
To be continued