「コラァみちよ、いつまでもウジウジしてないで仕事しろぃ!」
先輩の稲葉に怒鳴られるも、平家の表情から曇りの色は消えない。
憧れの格闘家なっちがいきなり敗戦した事が原因だ。
「だって…」
「記者が仕事に私情を持ち込むんじゃない!」
そんな事はわかっているのだが、そう簡単に納得できるものではない。
「先輩にはないんですか、そういうの。贔屓の選手とか。」
「え、私?うーん…まあ、いなくはないか。」
「誰っ?誰ですか?」
仕事の鬼の様な稲葉先輩にも、そんな一面があったのかと平家は驚いて聞き返した。
「矢口真里。」
それは選ばれし者だけが観戦を許される未知の世界、地下闘技場王者の名前。
「あの子のファイトが見たい為だけに、私は高い金を払ってその資格を得た。」
いつもクールだった稲葉の眼に情熱の色が見える。
「強いだけじゃないんだよ、見る者みんなを熱くさせるんだよあの子は。」
言葉にして聞かされるだけで、平家はなぜか胸にときめきを感じた。
(見たい、私も彼女のファイトを見たい!)
稲葉や平家だけではない。今や全観客がグラップラー真里の出陣を待ち望んでいた。
TAP会館の飯田、石川、加護は選手入場口に並び立っていた。
「なぁ館長、こない所にえんと控え室まで行かへんか?」
「駄目だよ、あいぼんが行っても邪魔になるだけだから。」
「なんやとぉ!梨華ちゃんのキィキィ声の方がよっぽど邪魔んなるわ!」
「なんですってー!そんなことないもぉーん(高音)!!」
「五月蝿――――い!!!!」
飯田の怒声にようやく二人は声を沈めた。
両脇で喧嘩をされて間に挟まれたのでは飯田も敵わない
「加護。石川の言う通り真里はウォーミングアップ中だ。ここで待っていよう。」
「せやけど…」
「真里のウォーミングアップはちょい特殊だから、近寄ったら怪我するかもしれない。」
「特殊?」
個室に矢口真里は一人、何者かと戦っていた。
空想の相手と実戦のシミュレーション、それが矢口のウォーミングアップなのである。
それによりポテンシャル最大の状態でいきなり試合に臨む事ができるのだ。
動きが止まった。全身から汗が滲み出ている。最高の状態。
さぁ御見せしよう、145cmの奇跡。
今、扉は開かれた。
汗を流しながら白壁の廊下を駆ける看護婦。
「先生、大変です。例の患者がまた発作を!」
「やれやれまたか。おい君、応援を用意しろ。二人…いや三人以上だ。」
先生と呼ばれた男が緊急棟へとひた走る。重体患者ばかりが集められたその病棟の中で
も最も奥地。男が目的の病室へと足を踏み入れると、たった一人の患者を相手に医師が数
人がかりで抑え付け悪戦苦闘している所だった。
「何をしている!ぼさっとしてないで君も手伝いたまえ!」
「あ、ああ。」
男は患者の左腕を抑え付ける。だが、全体重を乗せているにもかかわらず腕の力だけで
持ち上げられそうになる。とんでもない力の持ち主だ。やがて鎮静剤を持った応援が駆け
つけ、なんとかその場は事無きを得た。
「まったく、とんでもない娘だな。」
患者の名は石黒彩。全身が包帯で判別はし難いがれっきとした女性である。何かの格闘
技の大会での負傷者と言う情報だけは知っている。
「しかしこの化け物を病院送りにした女が存在するという事実が信じられないね。」
「人間じゃないよ、君も見ただろ彼女のカルテは。」
「ああ、私も多くの患者を見てきたがこんな残酷なのは初めてだ。吐き気がした。」
「心が抜け落ちているのか、例えるならばそう…」
その場に居合わせた全員の心に共通の単語が浮かび上がる。
「悪魔だ…。」
深い闇。終わりなどない、どこまでも続く深淵なる闇。
その闇の中で誰かが私を見ている。
お前は誰だ?
どうしてこっちを見ている?
やめろ!見るな!ほうっておいてくれ!
逃げられない、どこにも逃れる場所なんてない。
体が痛い。気を失いそうになる程痛い。
助けて、もうタスケテ…
「ッハア…ハアッ…ハアッ…」
薄暗い病室の中で石黒彩は目を覚ました。
悪夢から逃れた後に訪れるいつもの現実。変わらない現実。
全身が焼けるように痛み、腕を上げることすらできない。
悪夢でも現実でも、浮かぶ顔は一つ。あの悪魔のあの表情が寝ても覚めても付きまとう。
いっそ気が狂ってしまえば、どれだけ楽になれるだろう。
耳障りな幻聴すら聞こえてくる。
(あーやややや、やっやっやや♪)
石黒は己の名を恨んだ。
『只今より一回戦第8試合を開始します!!』
あれだけ熱気に包まれていた会場が、盆を返した様に静まり返っている。TAPの三人は
もちろん、すでに勝ち上がりを決めた他の選手達も息を飲んでその闘いの行く末を見守る。
『青竜の方角より、松浦亜弥選手の入場です!!!』
ついに現れた死神。松浦亜弥が闘技場の土に足を踏み入れた。
その空間に一斉に緊張が走る。
『続きまして白虎の方角――』
待望。まさにその言葉が相応しい。
皆の眼が入場ゲートに釘付けとなる。
『矢口真里選手の入場でーーーーす!!!』
入場アナウンスと共に大歓声を受け矢口真里が駆け込んでくる。当たり前の様に誰もが
そう思い込んでいた。
「ザワッ、ザワ…」
異変が起きた。
それは誰も想像すらしなかった出来事。
矢口が姿を見せない。
To be continued