吉澤の左目のまぶたが血で腫れ上がっている。
同じく紺野の左手がグチャグチャに潰れている。
(これしかなかった…)
反対の腕を決められる寸前、紺野は指が折れた方の拳で起死回生のカウンターを放った。
(逃れるには片手を捨てるしかなかった。)
「正気じゃねえ、折れた手で殴るか普通。」
あまりの暴挙にあの飯田すら驚きの声をあげる。
「普通でこんな闘いできないよ。」
そう答える矢口の武者震いは一向に収まりそうにない。
吉澤は床に零れ落ちた自分の血を見て、視覚の異変に気付いた。
(ぼやける、片目じゃ距離感が掴めない)
「距離感がないでしょう、まだ続けますか?」
左手を抑えながら対戦相手がそう聞いてくる。
「ターコ、お前なんか片目で十分、まだまだこれからだ!」
それでも吉澤は嬉しそうに構え直す。紺野もそれに応じる。
「ええ、貴方など片手で十分、まだまだこれからです。」
これだけの深手を負ってもまだ自分につきあってくれる娘に、吉澤は打ち震えた。
(こいつ、最っ高おぉぉぉぉーーーー!!)
ハンデはない、損傷は互いに五分五分。
(さっきから感じてるんだ、もうちょっとで…)
吉澤は自分の中に潜む繋ぎ止められたナニカの存在に少しずつ気付き始めていた。
紺野が間合いを詰める。ローとミドルのコンビネーションで攻め立てる。
打撃がヒットする度、鎖が緩む。
牙を濡らし飢えた獣の如きナニカを抑え付けた鎖が解かれようとしている。
(こいつが出てきたらどうなるかわからない)
それでも紺野の猛攻は留まる事を知らない。
片手とは思えない程の連打、反撃をする間もない圧倒的乱舞。
(もうやめろ、やめろ紺野、これ以上続くと私はおまえを…)
文句無しの空手家の闘い、極真の神髄を余す所なく繰り出す紺野。
もう限界が近づいているのか、吉澤の動きは鈍くなって来ている。
ガクン、吉澤の片膝が落ちる。その隙を逃す紺野ではない。
ある程度格闘技に詳しい者ならば、その一撃は絶対に立ち上がる事の出来ない一撃だと
判断できる事がある。その瞬間、紺野が放ったハイキックはまさにそれに当った。
――――――――決まった――――――――――
誰の胸にも決着の二文字が浮かび上がった。
紺野あさ美の勝ちだと。
意識半ば、崩れ落ちる吉澤の視界にあいつの姿が入った。
(ごっちん。)
ずっとずっと、追い続けてきた娘。後藤真希。
(どんな顔して私を見てる。)
(ぼやけてよく見えない。)
(いや、私のことなんか見てもいないんだろ…)
(ごっちんはいつも上を向いてる。私の事なんか振り返りもせずに)
(負けられない)
(あいつを振り向かせるまで、私は負けられないんだ!)
ブチン。
鎖が切れた。
吉澤の中に眠るナニカが産声を上げた。
「勝負あ…っ!」
決着の合図を掛けようと声を張り上げていた審判が、その異常事態に喉を詰まらせた。
吉澤ひとみが立っていた。
いやそれはさっきまでの吉澤ひとみではない。
誰も、後藤すら知らない吉澤ひとみがそこにいた。
闘いはまだ終っていない。
肩で息する紺野にとってそれは悪夢に他ならない。
どれだけ拳を打ち込んでも、どれだけ蹴り込んでも、彼女は起き上がってくる。
まるで悪魔の様な強さを携えて。
そして今、再び立ち上がってきた吉澤ひとみは違っていた。
対峙するだけで寿命が縮まりそうなほどの圧迫感を発している。
(冗談でしょう…)
獣が牙を剥く。
破壊力、技のキレ、スピード、全てが規格外。人間の領域の限界に達しようとしている。
紺野は知っていた。もう自分には抵抗する力も残されていない事を。
吉澤の拳が頬を突き刺す度、紺野の顔が変形してゆく。
(もう無理…)
ここで紺野がギブアップしても誰も責める事はできない。
それくらいこの吉澤ひとみは強かった。
しかし紺野は踏みとどまった。彼女にもまた引けない理由があるのだ。
(ギブアップするくらいなら向き合って死んだ方がマシだ!)
引けない者同士の最後の激突。その空間に神が舞い下りた。
To be continued