題名 リュウケミア
普段どおりの楽屋だった。
いつもと同じ風景、いつもと同じメンバー。
相変わらず仕事はハード、しかし順調。
そして、何も変わらない日常──
メンバーみんながそう思っていた。
「よっすぃー、ベーグルあるよ?食べる?」
その日、石川は楽屋でボーっと雑誌をながめている吉澤に声を掛けた。
彼女は吉澤の好物であるベーグルを買ってきていた。
そして吉澤の前のテーブルにそれを置く。
「いったらっきまーす」
そばにいた辻が早速いただこうと、袋に手を伸ばす。
加護もベーグルの入った袋を覗こうとする。
「あ、辻ちゃん、だめ。よっすぃーのなんだから」
それを見た石川は、辻に取られてはいけないと思って、
ベーグルの入った袋を漁ろうとした辻をたしなめた。
「えー?」
と、言って、不満そうに辻は吉澤をみる。
吉澤は石川の声に反応もせずに雑誌を眺めていた。ふと、辻と加護の視線に気付く。
顔を上げると、3人ががちょっと不機嫌そうに吉澤を見ていた。
「あ、みんな、食べていいよ。梨華ちゃん、ごめんね。
ちょっと口内炎が出来てさ、あんまり食べたくないんだ」
吉澤はここ数日、口内炎に悩まされていた。
そのせいか、あまり食欲がない。
「せっかく買ってきたのに……」
と、石川はすねるように唇を尖らせながら言った。
彼女は吉澤に食べてもらいたかったのである。
せっかく遠いところまで行って買ってきたのに─ そう思っていた。
吉澤は石川の表情を見た。また、いつものように拗ねてしまうかもしれない。
ここは無理してでも食べようと思った。
別に食べれないことはない。元来好物であるものでもあるし。
「いや、やっぱりたべる」
そういうと、吉澤は辻、加護からベーグルの入った袋を取り上げた。
二人は不満そうに文句を言いながらも、しぶしぶ了解した。
石川の吉澤びいきには、すでに二人もあきらめているようである。
そして、石川も嬉しそうに微笑んだ。
吉澤は、袋からベーグルを取り出しだす。いつものベーグルの匂い。
大好きな匂いだ。
口の中が痛いのか、いつもより小さい口でそれをかじる。
時間が経っていたのか、少しだけベーグルは固かった。
「あ、血─」
吉澤の手にある、半円上にかじり取られたベーグルには、
うっすらと血がついていた。
「よっすぃー、歯槽膿漏やな。もうおばちゃんやな」
辻と一緒にそれをうらやましそうに見ていた加護が言う。
「大丈夫?ちゃんと歯磨きしてる?」
石川は心配そうに吉澤を見た。
「え?大丈夫だよ。磨いてるって、あたりまえじゃん。
てか、おばちゃんじゃないよ!加護」
吉澤は血が出たことに少し驚きながらも、別に対して気に求めずにいた。
相変わらず心配性だな、私は丈夫なんだから大丈夫。
そう思いながら、ベーグルをもう一度かじった。
「じゃあ、ちょっと固かったのかな?時間経っちゃったから…。ごめん」
石川はすまなそうに謝る。
(いけない、梨華ちゃんがネガティブになる)
そう思って吉澤は、気にしないでと言って微笑んだ。
それならいいんだけど、と石川はすこしホッと胸をなでおろす。
吉澤は口の中が痛いのを我慢しながら、
ベーグルを食べ終え、本番へと向かった。
石川も、吉澤も別に対した話題でもないと思っていた。
それを聞いていたメンバーたちも、ごくふつうの会話だと思っていた。
数日後、吉澤は仕事に向かう前、自宅で歯磨きをしていた。
少し気だるい体を覚ますように力をいれて磨く。
「また、血が出てるなあ」
吉澤は、シンクに流れていく、自分の吐いた歯磨き粉が
ピンク色に染まっているのに気付いた。
あれ以来、歯茎からの出血はつづいている。
相変わらず、口内炎も治っていない。
「歯医者にいったらいいのかな?病院かなあ?」
そんなことを考えながら、家を出ようとする。
すこし、頭がふらふらする。全身が少しけだるい。
「最近、ご飯あんまりたべれてないからなあ」
そうつぶやきながら、少しだけふらつく体をグッとさせるように脚に力をいれ、
仕事へと向かった。
仕事はとても忙しかった。新曲のダンスの振り付けは難しく、
メンバーたちは夜遅くまで、ダンスレッスンをしている。
レッスンの途中で、メンバーたちはジュースを飲みながら
休憩を取っていた。石川は床に座って休んでいる吉澤にペットボトルを渡す。
「ねえ、よっすぃー、なんか最近顔色わるいよ?ご飯たべてる?」
石川はふと吉澤の顔色があまり良くないことに気付いた。
そういえば今日のダンスもいつもの切れがない。そんなことを感じていた。
「うーん、あんまりかなあ。でも、すこしやせたよ。梨華ちゃんに追いつくのももう少しだね」
確かに体調はあまりよくない。でもそんなに気にするほどのことでもないだろう、
またいつもの心配性が始まったなと思いながら、吉澤は笑った。
しかし、石川は吉澤の表情に、少し生気がないような気がして不安になっていた。
「でも、ちゃんと食べなきゃだめだよ」
吉澤より一つ年上。自分は彼女のお姉さんみたいなものなんだから、
そう石川は思っていた。つい、口調がきつくなる。
「うん、わかってる」
石川が心配して言ってるのであることは分かってはいたが、
体調のすぐれない吉澤にとっては少し、鬱陶しいものであった。
しかし、冷たくあしらうわけにもいかない。そうすれば、石川が
落ち込んでしまうのは目に見えている。
石川はふと、吉澤の白い脚に、紫色のアザがあるのにきづいた。
「あれ、どこかで脚ぶつけたの?大丈夫?」
と、石川がまた不安そうに尋ねた。
吉澤は全く心当たりがなかった。そのことに気付いてもいなかった。
相変わらず心配性だなとおもいながらも、そのアザを少し抑えてみる。
「痛くない、大丈夫。私、体は丈夫だから、心配しないで」
そういって吉澤は少し微笑んで答えた。
石川に心配を掛けたくなかったのであろう。
しかし、石川は不安げな表情をかえないまま、吉澤を見ていた。
彼女には、少しだけ心にひっかかるものがあるようであった。
「はい、始めるよ!」
夏まゆみが手を叩く。メンバーたちはおのおのの立ち位置につく。
曲が流れ始めダンスの練習が再開された。
新曲の踊りは複雑で、早い。ハードな振りがつづく。
曲はまだ始まったばかりなのに、吉澤は肩で息をしていた。
吉澤のダンスがメンバーたちから遅れる。メンバーたちは吉澤をちらりと見る。
今日の吉澤はなんかおかしい、そんな雰囲気がメンバーたちに伝わる。
「吉澤!遅れてるわよ!練習してきたの!?」
夏の厳しい叱責がスタジオに響く。
吉澤自身も遅れているのは分かっていた。ただどうしても体が動かない。
焦れば焦るほど足がふらつく。今日はおかしい、何かが違うと感じていた。
ふと、脈拍が異常に速くなっているのに気付く。
冷や汗が滝のように流れていく。
(ダメだ、今日はついていけない…)
そう思って踊るのを止めようとしたときであった。
急に吉澤の目の前がぼやけ始める。
そしてカーテンが下りるように視界がなくなっていく。
あ、まずいと思った瞬間、体にふわっとした感覚を感じると
そのまま吉澤は意識を失った。
突然、フローリングの床の上に大きな衝撃が伝わる。
崩れ落ちるように、吉澤の姿が急に視界から消える。
一瞬にしてメンバーたちの表情が変わる。
「よっすぃー!」
練習場に悲鳴が上がった。後藤が真っ先に駆け寄る。
「ねえ、よっすぃー、よっすぃー」
必死な表情で肩を叩きながら吉澤に声を掛ける。
しかし、吉澤はぐったりしたまま、動かない。
「ダメ、意識がない。救急車!」
いつも静かな後藤が、大きな声で叫んだ。
マネージャーが携帯電話で救急車を呼ぶ。
保田は、倒れて動かない吉澤にむかって、必死に呼びかけ続ける。
しかし、全く反応がない。メンバーたちに緊張が走る。
「大丈夫、ちゃんと息をしてるから!」
後藤は吉澤が呼吸をしていることに気付き、
メンバーたちに落ち着くように諭す。
辻は泣き出している。それを矢口と加護が慰める。
石川はただ、呆然としているだけであった。
まるで夢の中の出来事の様に感じていた。
そして、あまりのことに何も動けずにいた。
救急車はすぐに到着し、吉澤が運ばれていく。マネージャー、保田、後藤の3人が付き添う。
手際よく、隊員たちが吉澤を運び出す。倒れてから運び出されるまで、15分は経ってただろう。
しかし、メンバーにはほんの数分の出来事のように感じた。
スタジオの扉から吉澤の姿が消える。残されたメンバーたちは呆然とその姿を見送っていた。
「わ、私も行きます!」
石川は叫んだ。メンバーたちは驚いたが、突然駆け出した石川を止める間もなかった。
石川は息を切らせて階段を駆け下りる。
吉澤が心配でたまらなかった。はなれたくない、そう思っていた。
すでに救急車の中にいる、吉澤たちを追いかけて走る。
外に出ると救急隊員が後ろのハッチを閉めようとしているところだった。
赤いランプがまぶしく点滅し始める。その光に気付いた石川は
閉まろうとするハッチに飛び込んだ。
「危ない!」
救急隊員が驚いてハッチを押さえる。
「石川!?」
「どうしたの!?」
後藤と保田は突然視界に石川が入ってきて驚いた。
「いえ、し、心配で…」
息を切らせながら答える。
それしか、答えられなかった。
後藤と保田もそれ以上は何も言わなかった。
吉澤を心配する気持ちは自分たちにも痛いほどわかる。
自分たちに石川を止める権利はないということは分かっていた。
「もう、気をつけてください」
救急隊員は不機嫌そうに言う。
「す、すみません……」
石川はとりあえず謝ったが、心の中はそれどころではなかった。
「ダンス中に意識消失し転倒した16歳の女性。意識レベルは300。受け入れできますか?」
前方から救急隊員の真剣な声が聞こえる。否応なく車内は緊張感に包まれる。
それが石川の心をさらに不安にさせる。
(いやだよ、死んじゃ嫌だよ……)
目の前に動かない吉澤が横たわっている。もともと白い彼女の顔は
さらに透き通るように白くなっていた。
石川は、自分が吉澤が体調が悪いことを知りながら、
ダンスの練習を止めてあげなかったこと、そして、
倒れたときに、真っ先に彼女の元へ駆け寄れなかったことを悔やんでいた。
「受け入れ可能です」
「了解。では、出発します」
隊員たちが受け入れ病院への連絡を済ませる。
救急車は、けたたましいサイレンを鳴らしながら、スタジオを後にした。