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ほとんど寝つけないまま朝を迎えた。
朝といってもまだ6時。秋も近いせいで、スズメの鳴き声や朝日の光な
ど朝らしい因子はまだ窓からは飛び込んでこない。
腰と額が痛い。昨日一晩中、テーブルに額をつけていた証拠だ。
油が浮いているのか頬や鼻のてっぺんが気持ち悪くて手の甲でゴシゴ
シと拭った。
ふと目の前にマリの書かれた便箋が映る。
夢ではないのだと改めて悟る。それでも中身が変わっているのでは?
と思い、目を擦ってからもう一度見る。そして又絶望の淵に落とされる。
最悪の朝だった。
しかし、昨日に比べて身体に少し変化があることに気づいた。
今自分がいるところから一歩前にカラダがあるみたいな感じがする。
幽体離脱が常に行われているような感じ。究極的に打ちのめされた気
分になるとココロは自分のカラダに居座ることさえイヤになるのだろうか。
「お腹すいた‥」
ひとり言。誰の耳にも届かない。私はマリが作ってくれたであろう料理
を見た。そして最後の会話で私が「豪勢な料理をよろしく」と言ったことを
思い出した。
「これが豪勢かよ‥」
鼻をすすりながら呟いた。もちろん誰の耳にも届かない。ご飯と味噌汁
とキャベツの千切りと冷凍食品のほうれん草とサバの味噌煮の缶詰。私
はキレイに形が整えられたほうれん草を醤油もつけずにつまんで食べる。
「おいしくない‥」
例え、それが手作りであっても同じだっただろう。何度も何度も咀嚼
して飲み込んだ。
冷蔵庫に「今日はゴミの日」とマリの字で書かれた大きめの付箋紙が
貼られているのを見つけた。
さらに周りを見渡すと台所にはマリ用のお茶碗が二つ洗っていないま
ま置かれていた。
壁にはマリが刺した画鋲が七つ、北斗七星の形を作っていた。
机にはマリが買ってきたセンスの悪いヤジロベーが置いてあった。
そして、壁にかけられたクリップボードにはマリと私がじゃれ合っている
写真が貼られていた。
この部屋の全てにマリの残した面影がある。ぬくもりがある。
でも肝心のマリがいない。
マリは巣立ったのだ。
これはマリも使った言葉だ。この言葉を丸々信じようと思った。ちょっとウ
ソっぽいけど、盲目的に信じようとしないと私は前に進めない。
一生繋がらなくなったマリの携帯電話にもう一度電話をかけた。利用停
止のコールが鳴る中、私は叫んだ。
「マリー! バカやろう!」
マリのココロに届いてほしい。
私のいないところで何とか幸せになってほしい。
そして、またマリと笑って出会いたい。
ココロからそう願った。
電話を切り、親機に置こうとした時に、その液晶部分が点滅しているこ
とに気づく。どうやら留守電が入れられているようだ。再生ボタンを押すと
キュルキュルと音を立てた後に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「携帯に電話したんやけど、つながらんかったからこっちに電話しました。
何時でもいいから電話してくれへん?」
ユウコの独特の関西弁は昨日も会っていたというのにひどく懐かしさ
を覚える。そしてその次には虚しさが流れ込む。自分のペースを乱した
くないユウコから「何時でもいい」なんて言葉が口に出ること自体おかし
い。それと口調の端々から漏れる重々しさを加味して、ああ終わったな、
と悟ったのだ。もう諦めがカラダを支配していた。
「もしもし、ユウちゃん」
液晶部分に表示されていたユウコの電話番号に電話した。普段は起き
ていそうにない時間だったが、ユウコはすぐに出た。まるで右手に携帯電
話を常に持ち構えていたかのように。
「サヤカか。おはよ‥」
いつもの『”ちゃん”付けするのはやめーや』という、イヤそうに、だけど
嬉しそうに言うユウコではなかった。
「おはよ。ごめんね、こんな時間に」
「いや、いいんや。あたしが言ったことやしな‥」
「うん、それで何?」
ちょっと間が空く。
「アホなことを聞くかもしれんけどな」
「うん」
「サヤカ‥」
口が止まった。いつもズカズカと言いたいことを言いまくるユウコがこう
してためらいを見せる。少し前の私を誠実でいい子と思ってくれていたか
ら後ろめたいのだろう。
ちょっと嬉しかった。だけど、次に続く言葉がわかっていることをこれ以
上、もったいぶらせるのはイヤだった。
「辞めるよ。ユウちゃんを騙してたようなもんだし」
電話の向こうでは驚きの吐息が聞こえた。
「そ、それじゃあ‥」
「うん、私はウリをやってる最低な女だよ」
ユウコは常日頃「性を売り物をする人間は最低だ」と言っていた。これ
はユウコのポリシーでどんな人間であろうと、その考えを覆すことができ
ない屈強たるものだ。それを知っているから、いつもココロがチクリと痛
んだ。ユウコたちと仲が良くなればなるほどその痛みの強さは大きくなっ
ていた。
だから、もう潮時なんだ。
そう正当化するように言い聞かせながら私は自分を卑下する言葉を発
した。
ユウコは押し黙っていた。葛藤が向こう側で繰り広げられているのがわ
かる。そしてその葛藤の結論がどちらに傾くかということも。
「何も言わなくていいから聞いて」
私は言った。ユウコは小声で「うん」と言った。
「ホントはちゃんと会って言いたかったんだけど、ユウちゃんにめぐり会え
て本当によかった。親とは絶縁して、エンコーしまくって、風俗で働いて‥
って影の道をコソコソと歩いていた人生の中で、ユウちゃんやカオリやナ
ッチと会えたことは一筋の光を与えてくれてるみたいに感じていたんだよ」
「サヤカ、あたしはな‥」
「だから、何も言わなくてもいいから‥。ユウちゃんがどんな人間かだなん
てよく知ってるよ。どんなにお涙頂戴のドラマを語ったところでユウちゃん
の気持ちは揺らがない。だけど、どうしても言いたいんだ。ありがとう、そし
て、さよならって」
マイペースだから、わがままだから、社会のしがらみに屈していないから、
そして性を売り物にすることが何よりもキライな人だからスキだったんだ。
そして、羨ましかったんだ。
「‥サヤカ。すまんな‥」
ユウコは涙を浮かべているのだろうか、ユウコらしからぬモゴモゴとした
口調だった。
「うん、ありがと。さよなら」
余韻とか全てをスパッと切断したくて、私は突然、電話を切った。向こう
は驚いているかもしれない。だけど、もしかしたら納得しているかもしれな
い。どっちにしろ、もう電話はかかってこないだろう。
私は自分に向けた怒りに任せて電話の横にあったホッチキスを鏡に向
かって投げた。私の全身をそっくり映し出していた鏡は無残にヒビが入る。
ちょうど私の顔の眉間あたりからそのヒビが入っていて、それがまるで
”サヤカ”という人物の崩壊を示しているようでおもしろかった。
――みんな消えていく。
そして割れた鏡を見て、自分ももうすぐ消えるのではないか? と思っ
た。もうこの大地で生きていくには、大切な人を作りすぎ、そして作った
分と同じだけ失った。私は元に戻らなければならない。あの生死さえ、
性差さえ、次元さえ超えたあの子の元へ―――。
ハッとした。
私の脳裏に浮かんだのはあの子ではなかった。将棋倒しのように私の
元を離れる流れの中で、投げやりな気持ちは勝手にその倒された中に入
れてしまっていたのだろうか。
もしかしたらムダなのかもしれない。しかし、これが本当に最後の望み
である以上、賭けなければいけない。
運命を握る存在に挑戦する。
一時、私は一日に何度も電話をかけていた。だから電話番号は自然と
記憶されていた。
生きることを教えてくれた人に、愛することを教えてくれた人に――。
私はユウキに電話をかける。