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土地勘は別に悪いというわけではないと思うが、迷ってしまった。ナツミ
のマンションの近くまでは前も一人で来たし、実際カオリを呼んだ公園まで
はすぐに辿りつけたのだが、それからどうやってナツミやカオリのマンション
に向かったかが思い出せない。それはこの集合マンションは同じような形
をしていてインパクトが少なかったからだ。
一応、マンションそれぞれに番号が書かれてあり、この番号とところどこ
ろに設置されている道案内の標識を頼りにすれば容易に見つかるのだろ
うが、いかんせんその棟の番号が思い出せない。カオリに電話して聞けば
いいのだろうが、今日はカオリに会うつもりはなかった、というよりナツミに
会いに足を運んでいることを誰にも知られたくなかったので電話はしなかった。
私は必死で記憶の糸をたぐりよせる。前に来た時はもっと夜の底にどっ
ぷりと浸かっている時間だったので、周りのイメージが少し違っていた。
右や左に立ち並ぶマンションの窓一つ一つに明かりが点いている。どこ
の家庭も食卓が賑やかそうな時間だ。無邪気にはしゃぎまくる子供たち。
その様子をタバコを吸いながら優しい眼差しを見せるお父さん。エプロン
姿で食器を洗いながら、「静かにしなさい」と叱りつけるお母さん。
凡庸でとりとめのない”家族”という単位がいくつもの窓から溢れている。
私には決して訪れることのない気がする幸せの黄色い光。
早く逃げたかった。平凡な幸せに包まれた人々が自分を見下ろし、蔑ん
でいる気がしたから。
私は深い闇に飲み込まれる直前の曖昧な暗さの中、足を早めた。
ある小道を通ったときに、赤のオープンカーが目に入った。これは前
に見たとようやく記憶の一端と絡みついた。するとぼんやりとながらカオ
リの家への経路が頭で作られた。これを頼りに私は適当にマンション
に飛び込んだ。5号棟と書かれている。その数字を見た時、同じく忘れ
ていた二人の部屋番号も脳の中を流れた。確かナツミが810室でカオリ
が808号室だ。
エレベーターで8階に昇り、そこからふと横を見る。壁に「6」と書か
れた棟のてっぺんの位置と空の角度が前に見た時と一致していたこと
で、記憶が確かだということを確信させた。
廊下はざらついた灰色のコンクリートでできていて、靴を履いているに
も関わらず、冷えた感触が足から伝わってくる。冬になれば、もっとそれ
を感じることができるだろう。足音が無機質に響く。
ナツミの家の前に来た。玄関の下の方にポストにはチラシがいくつか
挟まっている。扉の横にはスモークされた赤ん坊でさえ入れないほどの小
さな窓が半開きになっている。カオリの家の構造と同じはずだからこの向
こうはバスルームだろう。
私はムダだとはわかっていながら、その半分開いた窓から中を覗こうと
した。2、3度チャイムも鳴らした。
しかし、反応はなかった。カギが開いている可能性もあるのでノブを回し
てみたがカギはしっかりとかけられていた。
「やっぱり」と思いつつも、落胆している自分がいる。
十中八九いないと思いながら、こうして足を運ばせたのは”マリが私の運
命を握っている”という直感以外の何物でもない。
”直感”というものはどこか超然としたものであり、理路を超えてもたらされ
る真実へのルートにもなるものだ。これは別に特別な人間のみが持つもの
ではなく、誰しもが生きていく中で何度かは訪れる。
その思考では結ばれない真実の存在を信じてここまできたのに、間違い
だったことは何か自分の能力を否定された気がした。だからこんなにもショ
ックなのかもしれない。
最後にもう一度チャイムを鳴らしてみたが、誰に届くことなくドアの向こう
に広がった音は虚しく消えていく。少し悔しさの捌け口にでもするように軽く
ドアを叩いた。
早く家に帰ろう。マリに会おう。そして今日のこと――いや、今までのナ
ツミやカオリのことを話してみよう。拳から伝わるドアの冷たさを感じながら
そう思った。
”マキ”のこともほとんど抵抗なく受け入れてくれたマリならきっと、この肩
透かしの直感を受け入れてくれるだろう。事情をよく知らないマリからは有
用な言葉は何にも得られないだろうが、告白できるというだけで肩の荷が
下りるような気がする。
そう思いながら、カラダを45度回転させた時に、二つの影が私の視界に
入った。
髪がまた若干伸びたカオリと両手にスーパーの袋を持った男だった。
真っ赤な帽子を被っていて長身のカオリよりもさらに頭一つ背が高い。帽
子のせいで顔はよくわからないが20代半ばぐらいだろうか。
「カオリ」
声を掛けたのは私だ。晩夏と初秋をミックスさせた匂いが漂っているこの
時期にはあまり似合わない冬仕様のロングコートを着たカオリは私の顔を
見ても表情を変えることはなく、両手を深くポケットに突っ込んだ態勢を保っ
ている。
まるで、たまたま目が合ってしまった見ず知らずの人間のように扱われ
た気がした。私はカオリの隣りにいる男に軽く会釈した。
カオリと隣りの男はこっちのほうにやってきた。近づくにつれて、私とカオ
リは全く目が合っていないことに気づく。私はカオリの大きな瞳を見つめる。
しかしカオリは私の存在を全く無視するように私の背後のカオリの家の扉
を見ていた。
カオリは無言のまま私の横を通り過ぎていく。細い風が通路に吹き込んだ
ようで茶色くて長い髪がフワッと浮いた。横顔の輪郭のはっきりした顔立ち
には柔らかい輝きはない。いつものカオリではないことを認識した。確実に
何かに対する嫌悪感を見せていた。
「カオリ!」
遠ざかるカオリに小さな恐怖を感じながら、私は急いで呼びとめる。もし、
このまま呼び止めなかったら、私が密かに感じていた友達という糸を溶か
されてしまうような気がしたからだ。切るならまだ何とかなるかもしれない。
でも溶かされたらそれは永遠に修復しない。
カオリは一瞬反応したがこちらを見ることはなかった。絡まない視線がカ
オリと私との間を実際の距離より遠く感じさせる。
「誰?」
代わりに男が私を一瞥した。そして、カオリに問いかけている。しかしカオ
リはそれさえも無視し、家の鍵穴に鍵を挿そうとしていた。利き腕のはずの
右手をポケットに突っ込んだまま左手を使っている。その動作は当然ぎこち
なく、鍵を入れるのにもちょっと時間がかかっていた。
私はその場に立ち尽くしたまま大きな声をあげる。
「ナッチが今日”三日月”を無断欠席したんだ。今も携帯、全然繋がんない。
すっごく心配なんだ。心当たりない?」
鍵を回す手が一度ピタリと止まった。男は私の方を見ているが表情は薄暗
さと帽子のせいで読み取れない。しかし、カオリはすぐに鍵を回し、男に「気に
しなくていいよ」とつぶやき、中に入ろうとしていた。
あからさまな無視をしつづける態度に今度は腹が立ってきた。
ナツミと何があったのかは知らないが、私を嫌う理由にはならないはずだ。
私は駆け寄り、閉めようとする扉に足を挟み、それを防いだ。
激痛が足から駆け上ってきたがそれより、カオリに何があったのか説明して
ほしいという半ば怒りの意志のほうが上回っていた。
「開けて!」
私は強引に閉めようとするカオリに逆らう。私のほうが若干力は強かった
ようで、扉は開く方向に動いた。
「何で? 何で私を―――」
問い詰めようと身を前に乗り出しながらカオリのほうに目をやると、私は
絶句した。
ずっとポケットに入れられたままだったカオリの右手が私の目の前に現
れていた。
その手には痛々しく包帯が巻かれていた。
「‥どうしたの?」
右手を見せたのは本意ではないようだ。恥ずかしそうに、そして、悔しさ
を滲ませながらコートのポケットに手を引っ込める。
「ケガしたの‥?」
包帯は何重にも巻かれているようで手が醜く膨らんでいるように見えた。
カオリはこんな状況にも関わらず私を無視しようとする。だから、私は強い
口調で問い詰める。
「ねえ!」
「友達にやられたんだよ。カッターでバッサリとな」
語気が荒くなった私に上から被せるような低くて押し出す声が飛ぶ。私は
カオリの後ろで生意気そうに見下ろす男を見た。
「友達って‥?」
「お前もさっき言ってただろ? カオリの幼なじみだよ」
「ナ‥ッチ‥?」
カラダの芯から震えが襲った。ウソでしょ? という狼狽を添えた思いに
反し、カオリの色褪せた唇は信じることができない真実へと誘う。
「そうだ。そいつがやってきて突然暴れたんだ。カオリは大事な右手を傷
つけられたんだ。そのせいでしばらく絵が描けないんだぜ」
「シンゴ‥もういいから‥」
背後にいたカオリがかすれた声で言った。玄関のドアの向こうのわずか
な光彩はカオリを照らし、沈黙に潜む轟然とした感情を浮かび上がらせる。
「ダメだ、こいつ信じてねぇよ」
男は嘲るように言った。しかし男の言うとおりだ。態度や表情がどうであれ
カオリが「ナッチがやった」とはっきり言わなければ私は決して突きつけられ
ようとしている真実を認めはしないだろう。
「こっちに来いよ」
男は私を部屋に入るように促した。カオリはハッとしながら男のほうを
見た。「いいよな?」と尋ねる男に対し、カオリは無言で首を縦に振った。
男は私を部屋に連れていった。カオリが玄関の扉を閉めるとカーテンが
しっかり閉められているようで、何も見えなくなるほど暗くなったが、私は前
に来たときと同じ匂いを感じ取っていた。小学校の美術室に近い郷愁を引
き連れるあの匂いだ。
ここはカオリの部屋――私たちのような部外者には侵すことができない
カオリのエネルギーが作った世界なのだ、と鼻から襲う優しい刺激で改め
て認識した。
夢、希望、未来。
明確な道を持ち、その方向に疑いもせず進むからこそ生まれる煌々とし
た世界。
しかし、しばらくすると、前に来たときとの違和感を感じるようになった。
何滴かの毒素を垂らしたような――背けたくなるような刺激臭が優しさの
一部に含まれていた。そのことに気付こうとしているときに男は電気をつけた。
何度かのチカチカとした点滅は狂った歯車が軋みながら動き出すシグナル。
そして目に飛び込む情報は直感を小さく逸れて身を襲う真実。
部屋が泣いていた。
玄関に立つカオリが苦痛に滲む泣き声を微かにあげた。
四方の壁に立てかけられていた絵はぐちゃぐちゃに切り刻まれていた。
書きかけのキャンバスが”へ”の字に曲げられていた。
机の上にはノートや本がバラバラに置かれていた。
”世界”がゴジラの過ぎ去った後のように荒廃していた。
残されたのは――あの郷愁の匂いはもう過去の遺物であると告げる余
韻だけだった。