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185- 44 - 『平穏な一週間』

-44-

 この一週間の平穏な日々は何か風雲急を告げる前兆だったのだろうか?
 あまりにも穏やかで、ただゆっくりと流れる白い雲を眺めるだけの時間が
大半を占めた。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
 客らしき2組のカップルの一人が私を見ることなく4本の指を私に向ける。
「4名様ですね。ではこちらにお名前と電話番号をお願いします」

 今日、私がカラオケ”三日月”で働いているのは予定外だった。
 ホントは今日もその穏やかな時間の延長線上にいる日になるはずだった。

 まだ連絡を取っていないけど、ユウキと会ってセックスしてもよし。
 マリと手の込んだ料理を作ったりしてずっと家に閉じこもっていてもいい。
 もし二人とも用事があるのなら、一人で読書に耽ってもいい。
 とにかくそんな何にも囚われないような日になる予定だった。
186- 44 -:02/03/24 13:31 ID:fzD/xBB2

 しかし、一本の電話がそんな安息の日を壊す。
 正午前に目を覚まし、トースターにパンを入れて、あくびをしながらテレ
ビを見ている時だった。
「ナッチが無断欠勤しよってん。代わりに入ってくれへん?」
 ユウコは早口で私に懇願する。電話の向こうでは声が飛び交っていた。
今日はまあまあ忙しいようだ。
 「電話したの?」と聞くと「出ない」と言っていた。私は最初渋っていたが、
結局はため息をつきながら了承した。
 ユウコとの電話を切った後、試しにナツミに電話を掛けてみたが、電源を
オフにしているのか圏外なのかわからないが「留守番電話接続サービスに
接続します」と流れた。私は怒気混じりに「無断欠勤しないでよ。今日は代
わりに入っとくから」と入れておいた。

 基本的にマジメなナツミが無断欠勤なんてちょっと前までは考えられない
ことだったが、最近のナツミを見ていると納得せざるをえない。
 もしかしたら彼氏にそそのかされたのかもしれない。「優しい」なんて当の
ナツミは言っていたがやはり私はその彼氏には良いイメージを持っていない。

 一週間前の酔っ払って帰ってきた日から二日後、私とナツミはシフトが一
緒になったのだが、そのナツミは今まで以上に虚ろでまどろんだ表情を見
せていた。大きくてクリクリとしていた目は夜更かしが過ぎているからか瞼が
腫れたように常に半目しか開いていない。かわいらしいと思っていた笑うと目
尻が一本引かれるところを私は久しく見ていない。ユウコをはじめ、バイト
仲間の間でも「ナッチどうしたの?」「何かヘンだよ」と囁き合っているようだ。

 一度ユウコは私の目の前で「しっかりしぃや!」と一喝していたが、その言
葉は何の影響も及ぼさず、耳の中を右から左へと抜けていったみたいで、
「うん」とうなずくその声は空疎に包まれていた。それからはユウコも呆れた
のか、態度を改めないナツミに怒鳴るところを私は見たことがなかった。
187- 44 -:02/03/24 13:34 ID:fzD/xBB2

「バイト?」
 支度をしようとする私にマリが声をかけた。
「うん、何か無断欠勤した人がいて。急遽」
「ふ〜ん。大変だね」
 マリは起きたばかりでまだ血が循環していないのか、必要最小限の言葉で
話を済まそうとしていた。
 私はとにかく急ごうとTシャツにジーパンというラフな格好に着替え、半焼け
した食パンを手に取った。
「じゃあ行ってくる」
「ねえ、サヤカ」
 「いいとも」が流れていたテレビを消してマリは私に声をかけた。

「ありがとね」

 軽く受け流そうと身を玄関の方に乗り出していたカラダをマリに向ける。
 昼だというのに何か、夜の気配が染み出しているようだった。
 ”始まり”ではなく”終わり”――マリがはじき出した結論がたった5文字に
凝縮されているような、深い言葉。
188- 44 -:02/03/24 13:39 ID:fzD/xBB2

「何? いきなり」
 一瞬間前の眠たそうなマリはいない。
「幼なじみでいてくれてありがとう」
 何気ない一言にのしかかる重みは私を大きく戸惑わせる。
「居候させてくれてありがとう」
「‥‥‥」
「傷ついた私を救ってくれてありがとう」
「‥‥‥」
「許してくれてありがとう」
「‥‥‥」
「そして、私をフってくれてありがとう」
「マリ‥」
 マリはまばたきの回数を増やす。
「サヤカには数え切れないほど、『ありがとう』って言いたい」
「‥‥‥」
 そしてマリは間を空けてから言った。

「サヤカが幼なじみでホントに良かった」
189- 44 -:02/03/24 13:42 ID:fzD/xBB2

 私は何も言えなかった。時間が差し迫っていることを忘れて、その場
に立ち尽くした。
 ヘンな話だがマリとの思い出が走馬灯のように流れた。
 苦しみ、痛み、喜び、迷い――いろんなマリと共有した感情がフィルムと
なって焼きつく。
 私はそんな思い出をしっかりとポケットにしまいこんで、またマリに出会
ったのだ。新しいマリはずっとずっと輝いてた。

「な〜んてね。一度言ってみたくって」
 いじわるをした天使の顔をマリはする。入れてあったコーヒーをフーフー
と吹きながら口に含む。私は肩を透かされた気持ちになった。
「ヘンなの」
 内心を隠そうと私はぶっきらぼうな言い方をする。
「まあ、これが私なりの新たなスタートラインってことで。クサかった?」
「うん。何か、結婚式の父と娘みたいだった」
 私は言った。ちょっとした照れ隠しが入っていた。
「じゃあサヤカが父親で私は娘?」
「ってことになるのか。それはイヤだな、そんなの」
 いつの間にか、マリはプププと含み笑いをしている。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと‥サヤカがこう口にくるんくるんの髭をたくわえている顔
を想像しちゃって」
「何よ、それ」
 私はふてくされたが、それを見てさらに想像を膨らませたのかマリは
さらに笑った。

「人の顔で遊ばないでよね」
「ごめんごめん。でも想像させたのはサヤカなんだからね」
「はいはい。じゃ、行ってくる。今日のご飯当番マリだったよね。豪勢
な料理、よろしくね」
「は〜い。行ってらっさ〜い」
 マリは手を上げて見送ってくれた。

 こんな日々がもうしばらくは続くと思っていた。
190- 44 -:02/03/24 13:46 ID:fzD/xBB2

 こうしてナツミの代わりに入ったわけだが、ユウコが私に電話をかけて
いる時がピークだったらしく、全体的には今日は全然忙しい日ではなく、
ボーッと突っ立っていることが多かった。もしかしたら私がヘルプに来な
くても全然平気だったかもしれない。

「ごゆっくりどうぞ」
 私の言うことにほとんど耳を傾けず、やたら大きい声でぺちゃくちゃと喋っ
ていた4人組がマイクと部屋番号の書かれたプレートを持ってフロントを去
っていく。私応対した客は、この組でちょうど10組目だ。
「どうや?」
 去っていくのを見計らうようにして、ユウコはフロントに顔を覗かせた。
「ダメっしょ。あんまり食べそうにない」
 カラオケ店と言っても近年の価格破壊によってルーム代だけでは大し
た収益は得られない。オプションとしてのドリンクやフードをいかに頼ん
でくれるかが収益の焦点となっている。当然、カップルなどはこんなとこ
ろでご飯をがつがつ食べたりしないし、あまり”おいしい客”とはいえない。
それにさっきみたいなイマドキの若者は大抵近くのコンビニで食料を買
い込んでくるから(禁止はしているが注意をする程度しかできないため
抑制力は小さい)、注文はほとんどない。
191- 44 -:02/03/24 13:51 ID:fzD/xBB2

「まあ、昼間は週末ぐらいしか忙しくないやろうな」
 ユウコはため息とともにそうグチる。
 忙しくても暇でもユウコはため息を漏らす。そんなユウコがいとおしい。
何といったらいいのかわからないが、人間ぽい感じがするのだ。

 エゴといったらキツイ言葉になるかもしれないが、それをもうちょっとや
んわりとした、誰にも影響を受けない――人が人であるための優しい理
不尽――ユウコはそういう人間だった。

 17時にバイトを終え、私は着替えを済ませたあとにユウコに尋ねた。
「それで‥ナッチはどうなるんですか?」
 ナツミの話題は禁句のような雰囲気が蔓延していたが、私はあまり気
にしないし今日はナツミの代わりに来たのだから、それくらいは聞いても
いいと思った。
 予想通り、ユウコは「ああん?」とヤンキーみたいな声をあげて、私を見
る。眉の間には年季の入ったシワがしっかりと作られていた。
「そうやなぁ‥。事情を聞いて、もししょーもないことやったらコレやな」
 ユウコは爪の長い親指を立てた右手を首のところに持っていき、頚動
脈を切る振りをする。私はツバを飲み込んだ。
「でも‥初めてだし‥」
「今回のことはともかく、ナッチのあの陰気臭い態度は前から気に入らん
かったんや」
「はぁ‥そうですけど‥」
 そう言われると私も言い返せない。

 ここ最近はまるで未来がないかのような沈んだ表情ばかりがナツミの印
象の全てだった。私だってあの態度は許せなかった。店員はこうあるべき
だ! みたいなマニュアルを押し付けるつもりは私はもちろんユウコにもな
いだろうが、ナツミはそれ以前に人として――生きる意思を失ってしまった
ような人間に見えた。
 それはユウコが最も嫌う人種の一つだろう。
192- 44 -:02/03/24 14:18 ID:fzD/xBB2

「まあ、その事情ってやつは十分考慮するけどな。ナッチは本当はイイコ
なんやから」
 同調するように沈む私を見てか、ユウコは慌てるようにそうフォローした。
私はいつの間にか俯き加減だった顔を上げ、不思議そうな顔をする。
「どうしたん?」
 どこかユウコらしからぬ曖昧な態度が気になった。最近、そういうところ
が目立つような気がする。

「いえ。じゃあ、帰ります」

 私はユウコに挨拶をして別れた。
 ナツミの家に行ってみようと思った。
 行ったところでいない確率は高い。それにもし会ったとしても、何を話せ
ばよいのかわからない。「しっかりして」なんて言葉はもう幾度となくバイト
中にかけているし、その言葉はムダだということもよくわかっている。

 でも私は行く必要があった。
 再び進展しようとする運命の芽が、まだしばらく続くと思っている平穏
な日々の中に隠伏している。それは萌芽にもなっていないごくごく初期
のもので、実体さえつかめてはいないものだが確実に存在している。認
めようとはしない気持ちとは裏腹にその正体に怯えつつあることに気付く。

 そして、その運命はナツミが握っているような気がした。