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バイト中の大半は雑談で過ごしていた。客がほとんどいないのだから仕
方がない。ユウコもその閑散ぶりに諦め気味のようで、今いる私や私より
やや後に入ってきた女の子に積極的に雑談‥というか猥談を持ちかけて
いた。
ユウコは基本的にはセクハラオヤジのようなことばかりを言う。10分間ほ
ど、私はユウコとマンツーマンでその他愛のない雑談に突き合わされてい
た。そんな時、客が来たことを知らせる「ポーン」という音が久しぶりに鳴っ
た。チャンスとばかりにユウコの下を離れようとしたが、ユウコは
「あの子に任せとけばいいいやん」
と、私を引き止めた。逃げの口実にできなかった私はがっくりしながら、半
分浮かしていた腰を落とした。
しかし、そのもう一人のバイトの子はすぐさまやってきて私に声をかける。
「何?」
「友達来てるよ」
「ん? 彼氏か?」
ユウコは邪魔をされた腹いせか囃し立てようとする。
「違いますよ。女の子」
「ああ、わかった」
私は急いでフロントに出た。
「よっ」
フロントの前の待合室の椅子に座っていたのは予想通りマリだった。
今日は6時に”三日月”の前で待ち合わせということになっていた。ちな
みに今日初めてマリにココで働いていることを言ったのだが、マリは何度
か来たことがあったそうだ。名前だけ言うとすぐに場所はわかった。
「早いじゃん」
カウンターの目の前にあるデジタル時計に目をやる。時刻は5時ちょっと前。
「だって暇だったし」
マリは子供みたいに足をぶらぶらさせて、おちょぼ口で言う。
「ふーん」
「それにサヤカの仕事っぷりが見たかったし」
マリは白い歯を見せて言った。大した意味ではない――私はそう自分を
思いこませる。
「そっか。どうせだし歌ってく? タダで歌わせてあげるよ」
私はユウコがまだ奥にいることを確かめてから言った。たとえユウコの耳
に届いたとしても、厳格な性格じゃないから大丈夫だろうが一応そういう優
遇は禁止となっているのでそうした。
しかし、マリは首を横に振る。
「だから、サヤカを見に来たんだって」
「‥‥‥」
ほんの少しだけ黙りこむと、マリは「どうしたの?」と聞いてきた。私はなん
でもないという表情をした後、ただ「そっか」とだけ言うと、お客が入って来
たのでマリとの会話は中断となった。
しばらくしてバイトの子が「おはようございます」と眠たそうな顔でやってき
た。私が無理を言って3時間分だけ代わってもらうことになった子だ。
「おはよう。入ってくれてありがとう」
「ホントですよ。いきなりなんですもん」
「ホントごめん。今度機会があったら奢るから」
機会なんてなさそうな薄い関係だが私は手を合わせながらそう言った。
「はい、楽しみにしてます。それよりも、ちゃんと恋人と楽しんできてくださ
いね」
無垢に微笑む相手に対し、私は慌てた。私はこの子と代わる理由を「恋
人に会うことになって」と言ってしまったのだ。最近彼氏ができたばかりな
子だったので、彼氏に会いたいと言えば、自分のことに投影したりして、理
解してくれると思ったからだ。計画通り、私の願いは受け入れてくれた。
「じゃ、着替えてきま〜す」
バイトの子は私の慌て様にも何も感ずることはなく、更衣室に向かった。
ほっとして顔を横に向けるとマリが目の前にいた。
「うわっ!」
「何よ、驚かなくたっていいじゃん」
目を丸くする私に細い目で冷静に返す。
「だって‥ちょっと仕事の邪魔だよ」
「私のこと恋人って言ったんだ」
「そういうわけじゃないよ。ただ‥あの子が‥」
私はニタニタと笑顔を向けるマリを見て思わず目を逸らした。おそらくマリ
は私が彼女にウソをついたということはわかっている。わかっていて、あえ
てそこを突いてきたのだ。
「とにかく、そこにいても困るし、もうすぐ終わるから外で待っててよ」
「は〜い」
マリは間延びした返事をし、やや大股で店の外に出た。
しばらくして代わってくれる子が制服に着替えてやってきたので、まだ5
時50分だったが私は帰らせてもらうことにした。
急いで制服に着替え、「おつかれさまでした」とフロントとその奥に向かっ
て叫んでから店を出た。マリは店の前にある料金表の立て看板を背もたれ
にして携帯電話をいじっていた。
「お待たせ」
マリは私の存在に気づくとパタンと折りたたみ式の携帯電話を閉じる。
「早かったじゃん」
「うん」
「じゃ行こっか」
足を一歩前に進めたその時にマリは私の腕を絡めてきた。私は抵抗し
ようとしてのけぞると、マリは下から鋭い視線で胸を抉ってくる。
「何警戒してんの?」
「だって‥」
「これくらい普通の女の子同士でやってるって」
マリはそう言うと「ほら」と横に目配せをする。そこには女の子二人がカ
ラダを寄せ合いながら歩いている姿があった。
「あ‥」
「サヤカさんじゃないですか?」
その二人はリカとヒトミだった。向こうも私に同時に気づいたようだ。
「こんにちは」
リカは私に声をかける。少し動揺している私にマリは「知り合い?」と聞
いてきた。いつの間にか腕はがっしりと巻きつかれていた。
「う、うん‥一応‥」
「バイト帰りですか?」
ヒトミは明らかに私とマリがベッタリと寄り添っている姿を興味深そうに
見つめている。
「うん。二人は?」
「これからカラオケです」
リカは言う。
「建前ですけどね」
ヒトミが付け加えるようにして言う。リカは少し赤くなった。
「あんまりハメを外さないようにしてね。迷惑がかかるのはこっちなんだ
から」
私は早くこの場を離れたかった。ヒトミやリカにマリとのことを誤解され
たくなかったのかもしれない。あるいは、マリにヒトミやリカの関係を察知
されたくなかったのかもしれない。
ヒトミは私が早く立ち去りたいと思っていることに気付いたらしく、
「大丈夫ですよ。ちゃんと後始末をしときますから」
と含羞なく言いのけた後で、すぐ「それじゃ」と私とマリに会釈してリカを
引っ張るようにして”三日月”に入っていった。
「二人ともタイプが違うけど美人だね」
リカとヒトミを完全に見送ってからマリが口を開く。
「まあね」
「なんかいちゃいちゃしてたけど‥恋人同士なの?」
「わかんない‥。けど同居してるみたい」
「ふ〜ん。じゃあ、私たちとおんなじだ」
マリは不審な笑みを浮かべ、さらにカラダを寄り添ってくる。”おんなじ”
は”同居している”ことだろうが、それだけに掛かっているとは到底思えな
かった。
あたりはそろそろ暗くなろうとしているがまだまだ明るい。夕日はいくつ
ものビルに囲まれているせいで見えないが、空はそのオレンジ色を鮮や
かに映し出している。
行く道は仕事帰りの人々で溢れている。もしかしたらピタッと寄り添う私
たちを好奇の目で見ていく人がいるかもしれない。別に晒されるのは慣れ
てはいるが、誤解されるのは少々不満だ。
「どうしたの?」
マリは小難しい顔をしている私に尋ねる。
「ううん、別に」
「じゃ、行こ」
「うん」
私たちは計画していた店に向かった。
マリが「焼肉へ行こう」と提案してきたとき、私は幾分かほっとした。「飲
みに行こう」と言われて私はカクテルバーなどの瀟洒な店をイメージした。
そういうところに行くとなるとそれはマリがしたいのは”デート”なのだとは
っきりわかる。
しかし焼肉だったら、周りはうるさいし、食べたら口が臭くなるだろうし、
ロマンティックのカケラもないところなので”デート”をするにしては不適
当だ。私の悪い予感は外れたことになる。
私たちは近くの焼肉店”京城亭”に入った。昔一度だけそこで食べたこと
があったが、美味しいとか安いとかいう印象はない。誰と行ったのかも忘
れた。”行ったことがある”という事実だけが浮き出るようにして覚えている。
店の中は落ち着いていた。まだピークには早いのだろう。客はちらほらと
しか見えなかった。店員が大きな声で「いらっしゃいませ!」とマニュアルの
ような抑揚をつけて叫ぶ。座敷と椅子とどちらがいいか、喫煙席か禁煙席か
などを聞かれたあと、私たちは4人用のテーブルに通された。
店の向こうの端っこでは10人ぐらいの団体がいるらしく、それなりに盛り
上がっているようだが、この周りは落ち着いている。私たちと同じように2、
3人の組や親子連れがいるようだ。
椅子に座るなり、マリは肩にかけていたハンドバッグを横の椅子に置きな
がら、案内してくれた店員に「とりあえずビール2つ」と言う。いいよね、と目
で合図されたので、私は何も考えることなく頷いた。店員は一瞬惑っていた
がマリの方をじっと見てから納得したような顔をして去って行った。
「何あれ?」
そんな店員の背中をマリは訝しげに見つめる。
「多分、子供っぽく見えたんだろうね、マリが」
「‥んでじっと見たら納得したってか」
マリはヘソを曲げながら手を頬に添える。
「まあまあ、身分証明証見せてって言われないだけ良かったじゃん。未成年
には変わりないんだし」
「う〜ん‥」
まだ納得しないマリ。でもよく考えたら、マリより年下なのに疑いもされなか
った私のほうが可哀相なのではないか? と思った。
「さてと‥」
私はテーブルに肘をかけ、カラダの前で手を組む。マリはテーブルの端に
立てかけられたメニューを広げている。
「サヤカと外食なんていつ以来だろう?」
「う〜ん、どうだろ?」
再会したときに、レストランで食事をした。もしかしてそれ以来では? と
思いながら、それ以降の記憶を早送りする。
「私がサヤカん家に押し入ったときにご飯食べたじゃん。それ以来?」
「あ、やっぱり? 私もそうなんじゃって思ってたところ」
「じゃあ結構前だね」
「うん。1年ぐらいか‥」
私たちがいかに薄かったかを改めて感じる。
「おかしな関係だよね。幼馴染で同居もしてるのにお互いのこと何にも知ら
ないんだもんなぁ」
「そうだね」
「サヤカは私のこと知りたい?」
焼肉の煙があちらこちらで立ちのぼり、ジュージューと音を立てる場はや
けに濃い日常感をもたらしていた。そのせいかマリの言葉を軽くとらえてし
まう。
「う〜ん、いいや。今さら知って、すごいギャップがあったらイヤだし‥」
「ふーん」
マリは明らかに不満そうな表情を浮かべる。横の『火曜日はレディースDay!』
と手書きで書かれた紙に顔を向けるマリを見ながら、私はマリは重い意味
を含めて聞いたのだと気づいた。そして気付かなくてよかったと思った。
案内してくれた店員が生ビールを二つ持ってきた。泡の立ち方が全然違
うところを見ると不慣れな新人が入れたのだろうか。マリは持ってきた店
員にメニューを指差しながら次々と注文していく。途中、「サヤカは何か食
べたいものある?」と聞いてきたが私は「任せるよ」と言った。
「じゃ、とりあえず乾杯しよっか?」
マリは店員が必死でオーダーを受け付けるリモコンを操作している中私
に言った。
「うん」
「それじゃあ、二人のこれからに乾杯」
「乾杯」
二つのジョッキを重ねる。マリの手に持つジョッキからは泡がこぼれる。
それを見たマリは慌て気味にビールに口をつけた。
私はお酒が好きでもキライでもない。ジョッキの6分の1ほど飲んだあと、
口から離す。
マリは「ぷはーっ」というオヤジのような声とともにドンと音を立てながらジ
ョッキをテーブルの上に置いた。見ると半分ほど飲み干していた。マリは結
構お酒に強いようだ。
肉がやってくるとマリは目を輝かせた。横長の大きな皿の中央にはタン塩
が5人前も盛られている。
「さて。食べよ」
割り箸を二つに割り、マリは即座にそのタン塩に手をつけた。金網に乗せ
るとジューという音が立ち、赤色からこげ茶色に変色していく様をマリはツバ
を飲み、割り箸を行儀悪く動かしながら見る。まだ赤いかな? と見ていた
肉にマリは箸を伸ばした。
「まだ早いんじゃない?」
「いいって。肉は半生が一番!」
マリは小さな口を大きく広げ、タレに付けた肉をほおばる。私がそんな様
子を見つめているとマリは、肉を飲み込んだ後、「おいしい」と幸せ満面に
言った。
それからは二人とも食べることに専念した。
食べている間は大したことは話していない。先日見たドラマがどうとか、
コンビニに売っている紙パックのお茶は不味すぎるとか、今年の秋から冬
にかけての流行りの服のこととか、お互いの生活に介入しない差し障りの
ない会話が続いた。
大抵はマリが話しかけ、私が反応するという繰り返されてきたパターンだ
った。薄っぺらいものだと気付いていても、自分の内面を防御する必要が
なかったことで気を張らずに済んだ。
マリはビールを中心にお酒を大分飲んだ。私の3倍は飲んだだろうか。と
もかく一度「飲みすぎなんじゃない?」と諌めたほどマリは大量に飲んだ。化
粧で白くなった顔が飲む前に比べ、随分と赤くなっている。口もロレツが回
らなくなりかけていた。
「サヤカ、今日はありがとね」
一杯になった腹をさすり、箸を揃えて置いてからマリは言った。目の前に
ある網の上にはコゲしか残っていない。私がそのコゲを下に落としている
時だった。
「うん。美味しかった。また来よっか」
「うん、また二人でね」
ちらりと腕時計に目をやると時刻は8時を10分ほど回ったところだった。
周りは肉を焼いている音や酔っ払いの高らかな叫び声などが飛び交いう
るさい。
「そろそろ出よっか?」
酔いがかなり回っているのか挙動不審に周りを見た後で、マリは言う。
「うん」
私は食べる前に着けた紙のエプロンを脱ぎ、隣りの椅子の上に置いた。
ここでの飲食代は二人で8千円だった。一人4千円か‥と考えていたら
「私が奢るよ」とマリは言い出した。「割勘でいいじゃん」と言ったら「私が誘
ったんだから‥」と出そうとする財布を抑える。そんなまるでサラリーマン同
士のやりとりを店員の目の前でしてしまった。結局、マリの酔いに任せた強
情さに押されて奢ってもらった。
店を出ると喧噪は深みを増していた。この歓楽街は当たり前だが夜が深
くなればなるほど活気が増す。
人はなぜ夜を好むのだろうか。
今の先進した社会に生きる人間にとっては昼の輝く太陽は眩しすぎるの
かもしれない。夜のような少し存在がとぼけたところでないと自分を発揮で
きない。
それは臆病であり、卑怯だ。しかし、自分を偽っていないと――そして夜
にその仮面を剥がさないと生きていけない。夜の賑わいは歪んだ社会の
象徴なのでは? と思う。
ふと隣りにいるマリを見た。マリはそれと似たような仮面を脱ごうとしてい
る。社会の最も腐った部分に身を浸されてしまった自分を解放しようとして
いる。
もっと夜が深くなってほしいと思った。
臆病であっても卑怯であっても私はそれに縋るしかなかった。
マリは大分飲んでいたためか、かなりフラフラとした足取りになる。私はそ
の腕をつかみ、一緒に歩いた。
「うわ‥やべ‥まっすぐ進まない。へへへ‥」
マリはかなり酔っているとはいえ意識ははっきりしているようだ。思い通り
に動かないカラダを逆に楽しんでいる。”ほろ酔い”をちょっと超えたぐらい
の周りには少し迷惑で、自分としては最上級に楽しい状態だ。
時折、「きゃははは!」と高い声を上げたり、いつも以上の大きな声を出
しながら街中を進む。途中、強面の男と肩がぶつかり、喧嘩を吹っかけら
れそうになったが、向こうもグダグタに酔っていたようで、大事にはならな
かった。
また同じことがあったらイヤだな、と思った私はマリを連れて賑わっている
街中を外れた。
「ねえ、あそこで休まない?」
先にはちょっとした広場があった。マリはフラフラのカラダを支えるのが精
一杯らしく、返事はなかったがどう見ても休憩すべきだと思い、その広場に
向かった。
そこは待ち合わせ場所に使われそうなところで中央には噴水付きの人工
池があり、丸い形の外堀に囲まれている。ちょうどその掘の高さは椅子に
するのにちょうど良かったので私はマリをそのタイルの外堀に座らせた。お
そらく昼時にはOLやサラリーマンがおにぎりや弁当を持参して、ここに座っ
て雑談したりする場所なのだろう。
私は視界に入っていた自動販売機に行き、ウーロン茶を二つ買ってきた。
「はい」
少し吐き気があるのだろう。マリは蒼ざめた顔でそのウーロン茶を受け
取るが、すぐには飲まず大きく深呼吸する。
「大丈夫? 吐きそうになったら言ってね」
「うん‥。でも大丈夫。吐きたくなったらココでするから」
とマリは後ろの池を指差す。
「それはまずいって」
池は少し汚れていて、生物らしきものはいない。私はマリの横に座った。
するとマリは頭を私の二の腕に凭れかけてきた。私はその小さな頭を優し
く撫でる。
「もうマリとは飲みたくないなぁ」
ダランと前に落ちる前髪の向こうに見えるシャインリップが輝く唇を一瞥
しながら私は呆れ口調で言った。
「だってだって‥。久しぶりだったんだもん」
マリは甘えた子供のような顔と声で口を尖らせる。ただ吐く息は少し臭い。
私は顔を背けようとするとマリは顔をさらに近づけてきた。私はものすごくイ
ヤな顔をする。
「だからって飲みすぎだよ」
「だって酔ってないと、ちゃんと話せないもん‥」
マリはポツリと言った。注意していないと聞き取れないほどの小声だっ
たが私は運良く拾えた。
「何?」
「‥なんでもない」
マリの身が硬くなるのを感じた。アルコールで少し火照っていた私のカラ
ダが冷たくもない晩夏の風により急速に冷やされる。そして、マリのカラダ
も私以上に冷たくなる。
美味しい物を食べて、飲んで、笑って‥そんな日常から一変した瞬間。
「‥なんでも‥なくないよ」
低いトーンが私の口から発される。マリの顔を見た。少し化粧の崩れた顔
からは決然とした意志が見える。
きっとマリは酒の力を借りたかったのだと思う――次からの言葉を言う
きっかけを作るために。
「私‥前に進みたい」
ちょっとした間のあとで、喉の奥を鳴らすような低い声が私のココロの底を
揺さぶる。ついさっきまでの高らかな酔狂声とはてんで異質だ。
「前って?」
「このままだったらいつまでたっても止まったままだから‥」
「‥‥‥」
「ちゃんとスタートラインの確認をしようと思う」
声を呑む私に対し、マリは潤んだ瞳を向けた。息遣いさえ聞こえてこない。
時が止まったような静寂が私を硬直させる。
時間を動かしたのはマリだった。突然、私の頭をつかみ自分のほうに手
繰り寄せてきた。私はあまりに突飛なことだったので、身構えることもでき
ずマリにカラダを預ける形になった。
そのままマリは抱きかかえるようにして強引にキスを奪ってくる。柔らかい
とか温かいとか甘いとかそんな感覚はなかった。ただ唇が押し付けられた
という行為だけを理解した。
私は力一杯にマリを引き剥がし、叫ぶ。
「マリ! もうこんなことはしない‥って‥」
顔を上げ、マリから少し離れると私は絶句した。
仰向けになったマリは私の叫び声に耳を貸さずに煤けた空気の先にある
であろう遠い銀河をぼんやりと見つめている。その姿は青白く、目は白く虚
ろで生気が闇に溶け出しているようだった。
――何も変わっていない。壊れたままだ。
わかっていたことだが、あらためてそう思ってしまう。
いや、私はわかっていたのにわかっていないフリをしていたのだ。ここまで
追い詰められていたマリを無視してきた自分を恨む。
「月ってキレイだなぁ‥」
マリはうわ言のようにボソリと呟いた。
マリの後頭部の向こうには、表面をくすぐる風により小さい波が生まれ、
ちゃぷんとかすかに音が立つ水面がある。その中には月が浮かんでいた。
ゆらゆらとした虚像の月だ。
目を空にやると、漆黒の空に斜め上半分が欠けた月が曖昧な微笑みを浮
かべてぶら下がっていた。もう一度マリに目を向ける。
マリの目は潤んでいた。きっとマリには彼方の月は後ろの虚像の月のよう
に揺らめいているのだろう――この世界の全てが虚構であってほしい、と願
わんばかりに。
「そういやあ、あの時も見えてたなぁ‥。あんな感じに‥」
まぶたに溜まっていた涙は薄紅色の頬を伝う。
私は胸に針を突きつけられたような感覚で聞いた。
「あの時って‥?」
「レイプされた日」
胸元を針ではなくのみでえぐられたような凄烈な言葉をマリははっきり
と口にした。マリがその言葉を口にするにはあまりにも残酷すぎる。マリ
はゆったりとした動作で自分の胸に手をやる。そして、服越しにあのゴツ
ゴツとした感触を確かめている。
マリはレイプという事実を認識し、自分を痛めつけている。涙はいつの
まにか消えていた。涸れたのではない。きっと涙という表面に出てくる生
理現象なんて意味を有さないほどの自虐なのだろう。
「私‥忘れようとしてた」
「‥‥‥」
「でもできなかった」
「‥‥‥」
「だから死のうとした」
マリは左手をぶらんと宙にあげ、手首を返す。マリが私に何を見せよう
としたのかはすぐにわかった。
「マリ‥」
「果物ナイフって手首の骨を突きとおすにはやわすぎなんだよね。ちょっ
と痕が残っただけだった」
私は一度目をつぶる。傷痕が物語る事実から背けたかったのではない。
ぼそりと口にしながら微笑むマリは乾きすぎていて、後ろの月と合わせて、
虚像に見えたからだ。
どこまで痛めつければいいのだろう。
どこまで自分を追い込めばいいのだろう。
――マリはどこへ向かおうとしているのだろう。
「死んだら‥負けだよ‥」
私は目の前にあった手を両手で優しく掴む。冷たかった。
「ねえサヤカ‥」
マリは遥か遠方に目を向けたまま私を呼ぶ。
「何?」
「だったらずっと一緒にいてくれる?」
二つの声が重なるようにして聞こえてきた。共鳴したのか二次元の縦波
を三次元に変える。
その声はマリと――今日幻覚の中で出てきたパーカーの子だということ
はすぐ気付いた。そして、次の瞬間、その子が誰だったのかようやく気づ
いた。
あの幻覚は幼い頃のマリと私。
オレンジの服の子がマリで、水色パーカーの子は私。
私は昔、マリに同じように懇願した。
『それは昔サヤカが言った言葉なんだよ』
きっとマリはそう言いたいのだろう。あの虹色の粒子が誘った世界はマ
リが作ったもの――私を狂った世界に引きずり込もうとする一アイテム。
昔の記憶という曖昧なものを私の脳内から引きずり出し、混乱させ、魔
法をかけようとしているのだ。
マリは眩暈がするほどの内なる迫力に満ちていた。それは気圧すよう
なものでなく、引き込むような冷たいもの。
答えに窮する私からマリは目を離す。遠いリアリティのない世界が再び
眼球に映っていた。
「私はレイプされた」
カタカナで表現されそうな感情の欠けた言葉は鋭い角部を有し、何の減
衰もなくココロに突き刺さる。
「トシヤに裏切られた」
マリは私のほうを見ているが私を見てはいない。ただ私を媒介して、マリ
自身の内面の影と向き合っている。
「ココロもカラダもボロボロ」
「‥‥‥」
「だからもうサヤカしかいない‥」
「マリ‥」
本当はマリは信じたくなかったのだと思う――レイプされたことも、彼氏
に裏切られたことも。しかし、その事実は確実に、そして残酷に記憶に埋
め込まれる。
もし、それを単なる悪夢だと自分を防衛しても、その悪夢はある日突然、
目の前の現実にせり出してくる――一生涯をかけて、その現実を少しず
つ噛み砕いていかなければならない。
「お願い‥ずっと私の側にいて」
幼い頃から蓄積された二人の思い出が甦り、感情の欠けた今の二人を
晒しものにする。
突然マリに”生”の色が帯びた気がした。それは月の光を十二分に吸
収し、何かが腐食されてできたものだ。きっとつらさや悲しみなど感情の
負の部分が昇華した形なのだろう。
「それは‥」
私は何か言おうとして口が止まる。喉から出かかった言葉はマリにとって
あまりにも残酷だ。
――ずっと一緒にはいられない。
マリの願いはどこまで深いか、そしてどこまで破滅的なものであるか、私は
マキとの経験を通して知っている。
マリが私に求めているのは、かつて私がマキに求めたものと同じようなも
のだ――生とか死とかは関係ない。カラダなんていらない。ともすれば好き
とか嫌いとかいう対人感情さえ、幸せとか不幸だとかいう自己感情さえもい
らない。
ただ一緒にいる――それだけに全てを費やす。
その現実をマリは受け入れてくれるだろうか。
「ずっと一緒にいよう」とウソをついたところで、この場は何とかなるかもし
れないが、それは今まで通りの逃げであって明日以降の生活は何も変わ
らない。
私は声を呑みこみ、すぐにウソでも真実でもない都合の良い言葉はない
か必死で探した。
気付くとマリの右手はポケットに入っていた。そして私が掴んでいた左腕
はいつの間に逆に掴まれていた。目には迫力のある悲しみと決心の文様
が彩られている。
息を呑んだ。
何かが起こる――長い付き合いだからこそ感じられる直感が神経網を急
速に伝播する。
――生とか死とかは関係ない。
しかし、直感は遅すぎた――。
「それが叶わないんだったら―――」
深遠の空をもがいていた透明な眼差しは恐ろしいほど冷徹に私一点に
向けられた。掴まれた右腕は振りほどくことができないほど強く握られて
いる。そして、ポケットの中の右手がもぞもぞと動く。
マリは私やこの世界を炎のような昂然とした激しさではなく、月のエネル
ギーに満ちた青白いレーザー光の激しさでもって刃向かった。
マリは突然起き上がり、横にいた私に襲いかかった。無防備だった私は
なす術なく、仰向けにされ肩を押さえつけられる。
「マリ!」
私は椅子代わりにしていたコンクリートに頭と肩をしたたかに打った。
しかし痛みを気にする暇はない。仰向けにさせられ、いきなり視界に広が
った月を中心とした夜空をマリのカラダが邪魔をしている。そしてマリが右
手に力強く握られているものにぞっとする。
「マリ‥やめて‥」
「サヤカ‥どこにも行かないで‥」
マリは涙を口に含みながらそう哭し、右手に光る果物ナイフを私の眼前
に突きつけ、威嚇する。きっとマリの手首に残っている傷痕をつけたナイ
フと同じものだろう。
私の左手は空いている。押さえ込むには不十分な体勢だ。タイミングが
よければそのナイフを持った右手は振り払える。しかし、そんなタイミング
をマリは許さない。生きるために必要なものさえも削ぎ落とした鋭敏な感
覚が私だけに向けられる今、不穏な動きは瞬時に捉えられるだろう。
「どこにも‥って‥」
「今日サヤカがいないって知ってすっごく怖くなった。もうサヤカは帰ってこ
ないんじゃ? って思った。もうあんな寂しい思いはしたくない!」
「だからって‥こんなこと‥」
頬にはナイフの冷たい感触が走る。
「この2週間、サヤカのことだけを考えた。サヤカのことだけを想った。そし
てわかった。もう信じられるのはサヤカしかいない。笑顔を見せられるの
はサヤカしかいないって!」
マリは私の目の前でナイフの刃の向きを変える。漆黒に淀む中で怪しげ
にキラリと光る。
「じゃあ‥なんでこんなことをするの?」
「どうせ断るんでしょ?」
「え?」
私はその目と言葉にマリに対する勘違いを指摘された気がした。
侮蔑の目は私だけじゃなく、きっとマリ自身にも向けられている。最後
の言葉はマリのこれまでの葛藤が如実に現れている。
――生とか死とかは関係ない。
”ずっと一緒にいる”ための方法は一つだけ。
「‥‥‥」
マリの冷たい薄氷の意識が思考下に舞いこんでくる。
『サヤカを求めるとき、この生命という偶然の負荷でさえ邪魔なんだ』
マリは生きることが”現実”なのだと知っている。
その現実には耐え難い事実が刻まれていることを知っている。
全てを浄化し、幻想の世界に堕ちることを望むマリはその願いに反し、
濃密な真実というシリコンチップをボロボロに欠けたココロに埋め込まれ
ている。
逆だったのだ――マリは深い闇に落ちたのではなく、闇に腐食された
カラダを持ったまま、光輝く”現実”で晒されていたのだ。
マリは現実世界に棲んでいる。しかし、カラダは醜く腐乱し、ココロは
ドライバーでその中心部を無理矢理ねじられた。
ここは自分の居場所じゃない、と半死体のカラダやココロは訴える――
求めるのはマリと私だけの桃源郷。色彩も濃淡もない、光も闇もない、
生命なんていう負荷もない、無次元化された世界。
「だったら‥」
「マリ‥」
説得することも抗うこともできない。
マリは小さな唸り声とともにナイフを振り上げる。
空気を切り裂くような音が聞こえた。
ここまで追い詰められても自由なはずの左腕は言うことが聞かなかった。
ただ残忍なまでの透明な微笑と瞳の奥にある虚像の月を焼きつけながら
目を閉じた。
眼球の裏には死の空白が広がっていく―――。