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2週間が経った。
お盆は過ぎたが、残暑が厳しい。外に出るたびに太陽に晒された私は犬
のように舌を出し、体内の熱を発散しようと無意識に努力してしまう。青々
とした緑が時々清冽な風を受け、隣の葉と擦り合わせている。その木々に
つかまっているセミたちは最後の力を惜しまなく出し続けている。
いつも通り、近くのコンビニに寄り、真ん中にバニラクリームが入ったカ
キ氷型の百円アイスを二つ買った。店を出てしばらくしてから、ふと袋の中
を確かめてみると木のスプーンが入っていなかったので、一度コンビニに引
き返す羽目を食らった。
アイスはここ2週間、毎日のように食べていた。大抵、私はコーヒーシロ
ップ、そしてマリはイチゴシロップのかき氷型アイスを食べる。今日もそう
だ。今、私はマリのアイスを食べるシーンを思い浮かべている。そのシーン
は私の迷いを掻き消してくれるものだからだ。
今から4日前、マリの母親から電話がかかってきた。どうやら両親がいる
京都に遊びに来いと言われたようだがマリは「行かない」ときっぱり断って
いた。
レイプの影響ではないと思う。
この2週間でマリは外出をするようになった。
私とキスした次の日、夜遅くに帰ってきたため起きるのが遅かった私は目
覚めたとき、家の中にマリがいないことにすぐ気づく。
”マリは傷の痛手から外出はできない”という思い込みと”マリはこの家に
いない”という事実が寝起きのせいで脳が活動しきれていない状況の私を
大きく混乱させた。いくら小さいマリでもいるはずのない冷蔵庫やタンスの
中を開けるなど、コントまがいなこともしてしまった。
家中をウロウロしている時、玄関の扉が開く音がしたので急いで向かうと
半袖のTシャツを着たマリが立っていた。
「どうしたの?」
息を切らす私にきょとんと目をパチクリとさせるマリ。
「いや‥別に」
「散歩行ってきた。あとで食べよ」
マリはアイスを二つ入ったコンビニの袋を掲げながら恥ずかしそうに言った。
「うん」
ただ頷く私に対し、マリはその横をスーッと通り過ぎようとする。
「マリ」
私はただ名前を呼んだ。マリはアイスを片手に振り返る。
「何?」
「‥‥‥」
何を言うつもりだったのだろう? 「何?」と聞かれても何も言うことが
できなかった。
「どうしたの?」
「いや、何でもない‥」
夏風を巻きつけ、緑や青空の匂いを染みつかせたマリは見た目は変
わらなくとも、どこか違い、輝いていた。私はそんな姿に見とれてしまっ
ていたのかもしれない。
マリは、「ヘンなの」と小首を傾げる。突然、背後の扉が「かちゃり」と小
さな音を立てて閉まり私は思わず背筋を伸ばす。どうやら半開きの状態
だったようで、それを風か空気圧か何かが押し閉めたようだ。
脊髄反射した私をマリは悪意のない冷笑で迎える。
「ちゃんと閉めといてよ‥」
「ごめんごめん。突然サヤカが現れたもんだから、カギ閉めるの忘れちゃ
ってた」
私は玄関のカギを閉めた。
「サヤカ」
その時マリが私を呼ぶ。
「何?」
「太陽って気持ちいいもんだね」
私はマリの腕を見た。そこには太陽のエネルギーを浴びた肌があった。
カラダの傷はもうほとんど消えている。そして、半袖にスカートという格
好は肌の露出を頑なに拒んでいたココロの傷も癒された証みたいなも
のだ。
私は救われた気持ちになった。それは「もう大丈夫だから」「お騒がせ
いたしました」と言っているようなものだからだ。
「そうだね」
この時ばかりはうだるような強烈な熱を放つ夏の太陽に感謝した。
その日は朝食代わりとしてそのアイスを食べた。ちょっと早く食べ過ぎた
せいで頭がキーンと痛んだ。頭をしかめる私を見て、マリが口を大きく開け
て笑っていた。そんなマリを見て、「苦しんでいるのに笑わないでよ」と口
を尖らせながらも笑った。マリの顔色はどうかとかを考えずにごく自然に笑
えた。
それはマリが前の日の夜のような恐怖にも変わりそうな笑顔ではなかっ
たからだと思う。つららのように冷たく固くとがったココロが先端からゆっく
りと融解するのを感じた。
もしかしたら昨日の夜は考えすぎだったのかもしれない。マリはもしかし
たら私を媒介して本当の光を見つけたのかもしれない。幻想だと思って
いたのは、光ではなく、周りを取り巻く闇のほうだったのかもしれない。夜
という輪郭をかき消すことも可能な時間帯が私を悪い方向に導いていた
のかもしれない。
全体を包む一日の”始まり”の雰囲気が私をそう思惟させた。
少しずつだけどレイプをされたというココロの傷は癒えてきている。
その治療薬が私とのキスだったのかどうかはわからないが、とにもかく
にも快方の兆しが確認できたことは嬉しい以外の何物でもなかった。
だからマリが京都に行かない理由は、レイプされた傷痕が尾を引いて
いるのではなく、両親との確執にあるようだ。
詳しい事情は知らないが、いろいろあったようだ。私はマリの父親と母
親とは面識があるが、およそ癖のある人間には見えなかった。しかし、
親子には親子なりの軋みというものがあるのだろう。
私は深く追求するつもりはなかったが一言、
「両親、喜ぶと思うよ」
とだけ言い、マリに会ってあげな、と促してはみたが、
「サヤカも両親に会うっていうんなら会いにいく」
と毒気たっぷりに返されてしまった。
修復不可能までいった私の親子関係を見透かして言ったものだ。当然
私は会う気なんて全くないからそれ以上、マリに行くよう勧めることはでき
なかった。
「ただいま」
ドアを開ける私を台所の椅子に座っていたマリは私のほうを見ずに「おか
えり」と言う。どうやら新聞を見ていたようだ。
「アイス買ってきたよ」
「うん、食べよ!」
マリは嬉々として新聞を畳んで立ち上がる。
私たちはあの日と同じようにアイスを食べた。シチュエーションは全く同
じ。違うのはあの日より3時間遅いというだけ。テーブルの反対側にはマ
リが赤い氷を美味しそうに食べている。時々、舌を出して真っ赤に変わっ
たのを見せて、「気持ち悪いね」と言いながらケタケタと笑う。
風鈴が音を鳴らす。扇風機が旋回しながら微かな音を立てる。そして、
その風景の中でマリが笑う。こんなありふれた、しかししばらくずっと味わ
うこともなかった光景は私の安定剤となった。マリが季節に溶け、昔のよ
うにただ純粋な笑顔を見せるだけで、これで良かったのか? という不安
は薄れていく。
だから、無理をしてでもアイスを買ってマリと一緒に食べるのが日課に
なった。
私の身辺は大きく変わった。
この2週間で私はケイに”マリア”を辞めることを伝え、ユウコに”三日
月”でもっと長く働かせてほしいと頼んだ。
「彼氏ができたから」
ケイには辞める理由を正直に伝えると、
「その彼氏が憎いね」
と冗談混じりにケイは言っていた。
聞くところによると、ケイは彼氏の存在を何となくながら察していたよ
うだ。というかユウキの存在はケイも知っていたらしい。最初にユウキ
と私が仕事上でエッチをしたときから私は客と接するもの以上の女とし
ての甘い本能が湧出していたようで、そんな私を見た時、ケイは私が
辞めてしまう覚悟はしていたようだ。
私は見透かされたことが恥ずかしくもあり、感心もした。
「ま、今までそういう人間を何人か見てきたからね」
経験値を見せびらかすケイに私はただ負け顔を晒すしかなかった。
2度目にユウキに会った時、ケイはインターホン越しにヤケにニヤニ
ヤしていたことを思い出した。もうあの時私を見切っていたのかもし
れない。
「別れたらいつでもおいで。面倒見てあげるわよ」
ケイの最後の言葉だ。皮肉が入っていていかにもケイらしい。
本当にケイには感謝している。もし、出会い方が違っていたら無二
の親友になれたかもしれない。それくらい信用ができた人間だ。そん
な気持ちをケイに言ったとしたら気味悪がられるだろう。だから言わな
かった。
「ありがとう」
「さよなら」
向こうもこちらも涙はない。
ただ、笑って別れた。
それだけで十分だった。
一方、ユウコは私のお願いに「カラオケも不景気やから」といささか
渋りながらも「できるだけ入れてあげる」と言ってくれた。
しかし、どれだけの時間、”三日月”で働いたとしても今まで以上の
収入は得られないだろう。貯蓄が結構あるから当面は大丈夫だとはい
え、このままの生活水準を保っていけば、いつかは底を尽くわけだし、
ちゃんとした職でも探そうかな? と思った。しかしまだ18にもなってい
ない小娘を正式に雇ってくれる職なんてあまりないだろうから、見つけ
るには時間がかかるだろう。だから、当分はユウコにお世話になり、バ
イトという形でもう一つか二つ、探すことになるのだろう。
ユウキとはほとんど毎日のように会った。会うと必ずむさぼるようにセ
ックスをした。”マリア”を辞め、節約家になった私と中学生で全く収入の
ないユウキにとってはラブホテルの料金はかなり高額なため、利用でき
なくなった。場所としては夜の公園が一番多かったが、川沿いに高く生
える草むらの中や、ビルの非常階段、神社の裏など誰も来ないようなと
ころを狙ってセックスを繰り返した。
私が最初の女であるユウキは技術的にはまだまだ及第点だった。体
位はバラエティには富まず、正常位かバックぐらいしかなかったし、その
一つ一つもお世辞にも上手いとはいえない。
しかし、私はユウキの甘くたるんだ喘ぎ声を聞くだけで、ただ笑うだけ
で、条件反射のように私の理性のタガは外れる。
虚無に満ちた私の愛情の部分を熱病のようなセックスが埋めていく。
幾人もの男と重ねたセックスとは明らかに異質なものだった。
私はセックス中、何度となくココロの中で「愛してる?」とユウキに尋ね
た。しかし声に出すことはなかった。「愛している」と返事が来ることはわ
かっているのに、愛を否定し続けた私は未だ臆病になっているのだ。
同じ理由で一般的なデートというものはしていない。会うと人気のないと
ころを探し、セックスをする。そんな日々だった。
風俗店が出会いの二人にとっては普通のデートを繰り返すより、セック
スをしていた方がお似合いだった。性欲に溺れるくらいしかユウキを愛せ
る手段を知らなかったといってもいい。ココロの連結が愛情だと頭ではわ
かっているのにそれだけでは決して満たされないのでは? という臆病な
面が如実に表れている。
最近、オーガズムが頂点からゆっくり裾野を降りている後戯中に、そんな
臆病な自分を叱責してしまっている。ユウキもその満たされない欲求を渇望
する私に気付きはじめていたようで、私の汗ばんだ髪の毛をついさっきまで
私の内部に潜り込ませていた手で優しく梳きながら、
「やっぱまだまだだよね‥」
と申し訳なさそうに呟いた。どうやら私の悩みを自分のセックスが下手だか
らだと誤解したようだ。
「違う違う。逆だって。気持ち良かったから呆けてただけ」
私は慌てて取り繕ったが、いつかはこの悩みはバレるだろう。だから次に
聞かれたときは、映画見たり、食事したり、遊園地行ったり‥と中学生みた
いなデートをエスコートしてほしいと思い切って言おうかと考えている。
カラオケ店”三日月”に働くことが多くなった結果、ナツミやユウコに会
う日が増えた。
ナツミは田舎臭さがすっかり消え、垢抜けてきた。
それは良い言い方では都会に馴染んできたとも言えるし、悪い言い方
ではケバくなった。髪を栗色に染め、眉は弓の形に整えられ、化粧がや
たら上手くなった。カラダは全体も若干ながら細くなった。化粧で隠されて
はいるが、つるつるしていた肌もくすみかけているようだ。それに何よりも、
作っていたとはいえ、ナツミのトレードマークのようなものだった笑顔が見
られなくなった。
「週何回してるの?」
私がそれとなく尋ねると、こちらを見ずに「3、4日」と欠伸まじりに答える。
疲れているせいなのか、聞くときも答えるときも何の恥じらいもない。ちょっ
と前のナツミを知っている者ならば信じ難い光景だ。
そんな様子を一番心配していたのは意外にもユウコだった。ナツミの姿
を見るたびに眉をひそめるユウコは私から言わせれば不思議な感じだった。
愛があるセックスに関しては万歳だったユウコ。カオリや私とは時々セッ
クス談義を交わすこともあるぐらいだったが、ことナツミがセックスを口にす
ると妙に顔が歪んでいた。やはりナツミには純朴なイメージがあって、それ
を壊されるのは嫌なのだろうか。例えそうだとしても”らしくない”ことだと思った。
私は9時にバイトを終え(前より2、3時間ほど長くなった)、ナツミのこと
でカオリに電話をかけた。カオリはもうほとんど”三日月”には来ていない。
いわゆる”幽霊アルバイター”になっていた。
「今家にいるから。暇だったら来てもいいよ」
と言われたので、遠慮なく行くことにした。とはいえ場所を全く知らなかった
のでユウコに尋ね、住所と地図を見交わし、大体の見当をつけてからカオ
リの家に向かった。
途中、マリに「ちょっと出かけるところがあるから先に寝てて」と電話した。
マリは不満そうに「え〜」と言ったがその後すぐに「早く帰ってきてね」と付
け加えた。甘く微笑むマリの姿を想像して、何か新婚夫婦みたいだな、と
苦笑した。
ほとんど初めてのところだったが、駅の正面の改札口を降りたところに
地図があって、それを見た瞬間大体の見当はつけることができた。
カオリのいるマンション――これはナツミのいるマンションでもあるのだ
が――は巨大な集合住宅の一つであり、10階ほどのマンションが10棟
ほど同じ形、同じ色をして立ち並ぶ。その敷地に足を踏み入れると公園
や駐車場があり、ある意味一つの町を形成していた。
マンションの間にある公園にはブランコやシーソー、砂場など公園と呼
ぶものには絶対ありそうな遊戯は一通り揃っていた。今はもう暗くて人影
はないが、砂山の形跡から、つい先ほどまで遊んでいたことがわかる。
砂場に落ちていたフォーク型のプラスチック製スコップを手にとり、トン
ネル付きの山の頂上にぐさりと刺す。童心に帰るとまではいかないが、砂
の冷たさやざらざらした感触が少し優しい気持ちを連れてきた。あまり覚
えてはいないが、きっと私もこうやって遊んだのだろう。そして多分、隣に
はマリがいたのだろう。
「さてと」
早くカオリに来てもらおうと思い、砂場にしゃがんでいた私は立ち上がり、
上を見回した。視界の左と右をマンションが聳え立っている。マンションの
あちらこちらで輝く四角形の明かりは、闇夜の不気味さを際立たせていた。
携帯電話に指をかけたその時に、公園を取り囲む低い緑の垣根の間か
らガサゴソと音が立ち、私は飛び上がりそうになる。暗がりの中、初めて
踏み入れた大地での不穏な物音はやはり怖い。その正体は真っ白な毛を
地面に垂らした目の青いネコだった。かすかに鳴き声を上げながら私にそ
のサファイアのように輝く怪しい瞳を向けていた。どうやら飼い猫らしく、皮
製の首輪が巻かれてあった。
ネコ、しかも飼いならされているはずの動物だとわかっているのに怖さは
衰えを見せない。私は狼狽を隠すように、じっとにらみながら、後ずさり、後
ろのブランコを囲む丸パイプに腰を乗せる。私とのにらめっこに飽きたのか
ネコは尻尾を向け、ゆっくりと去っていった。
私は少しほっとし、大きく一度深呼吸した後、カオリに電話をした。
しばらくしてカオリは公園にやってきた。椅子のようにしていた鉄パイプ
からジャンプするように立ち上がる。ふと鼻をかくとパイプのさび付いた匂
いが手に付着していることがわかった。それも少し懐かしい。
「ごめんね、カオリ」
「いいよ。よく迷わず来れたね」
「うん、結構わかりやすかった」
茶色の長い髪は夜のせいで全然目立たない。
カオリはつい最近髪の毛を茶色に染め、さらさらだったストレートヘアに
軽いパーマを当てた。それはナツミみたいに劇的な変化ではなく、ごく自
然なものだったので昼に会っても全然違和感はなかった。ナツミと同じ北
海道生まれ北海道育ちとはいえ、カオリは根本的には都会気質なのかも
しれない。
「こっちだから」
カオリは背を向けて私を誘導する。さっきまでいたネコだろうか、どこか
らともなく嬌声が聞こえ、私はカラダをビクつかせた。こういうときは夜と
いうのは嬉しいもので真横にいたカオリにそんな私の臆病な面を悟られ
ることはなかった。
それからしばらく歩いた。中は結構ごちゃごちゃしていてカオリがいなか
ったら迷っていただろう。カオリの家は5号棟の808号室。つまり8階。一
方ナツミは810号室。本当は隣同士の部屋にしたかったようだが、ナツミ
が入ったとき(ナツミは一浪なため、上京したのはカオリの一年後だ)、カ
オリの両隣の家は空いていなかったためこうなった。
エレベーターを使って8階まで上がると向かいのマンションがまず目に入
る。隅には「6」という文字が書かれていた。おそらくこのマンションにも同じ
ようなところに「5」と書かれているのだろう。
カオリの家に入る前にナツミの玄関の前を通り過ぎた。今日のナツミは
バイトは入っていないので、今家にいてもおかしくないのだが、扉にあるポ
ストにチラシが挟まっているところを見ると、外出しているようだ。
カオリはナツミが不在であることをわかっているようで、ナツミの家の扉
など見向きもせずに素通りしていた。
「ここだよ」
カオリはそう言いながら、玄関の扉を開ける。近くにいる私を迎えに行く
だけだったから、不用心にもカギはかけなかったようだ。
「お邪魔します」
誰もいないはずの部屋の奥に向かって言う。
「あれ?」
次の瞬間、ついそんな言葉を発してしまう。私は玄関の敷居を跨いだと
ころで立ちすくむ。そしてそのまま私は自分の腕をカラダの前で組んだ。
変にカラダ中の毛がよだったのだ。怖いというよりこそばゆい感じだった。
頭の中の明彩豊かな記憶の輪郭が白くぼやかされ、過去の忘れかけられ
た部分が追憶となって前面にせり出そうとしている。眉間にシワを寄せピ
クピクとその近辺を震わす。
「どうしたの?」
カオリは自分の後ろに付いてこない私に気づくと、そう聞いてきた。カオ
リの声で我に返った私は「なんでもない」と表情を緩めて言いながら、この
不思議な感覚の正体は”郷愁”なのだと悟りはじめていた。
「ヘンな家だけどどうぞ」
「じゃ、もう一度お邪魔します」
私は中に入った。
マンションのしっかりした外装から予想されたことだが、8畳間のフロー
リング、キッチン、ユニットバス、小さなベランダと一人暮らしをする上で、
できたら欲しいものが一通り揃っているまあまあ普通の家だった。この集
合住宅は一人暮らし用から家族単位まで大小様々な部屋が並んでいるら
しい。
カオリの部屋を見渡すと、私の口からは「へ〜」という感嘆の言葉しかし
ばらくは出てこなかった。
人が変われば家の雰囲気は変わるものだ、とつくづく思った。
家が綺麗なのは予想通りだったが、想像以上に個性的な風景が広がる。
部屋の真ん中にあるテーブルは形が中央がくぼんだひょうたん型をしてい
て、水色から青色へのグラデーションが鮮やかで際立つ。あんまり普通の
お店では売っていない、いい意味での”キワもの”だ。もしかしたら自分で色
を塗ったのかもしれない。テレビの上には”たれパンダ”の人形がなぜか直
立して置いてあり、少し間抜けな感じがする。その横の小さなサイドボードに
はおそらく自作のメモ帳や同じく自作のカバーがかけられたコードレス電話
が置いてある。一つ一つの小物がやけに彩り豊かに装飾されている。
そしてなんと言っても目を見張るものは個性ある絵の数々だ。
木炭やポスターカラーで描かれた風景画が安そうな額縁に入って周りの
白の壁にいくつも掛けられてある。また部屋の一角には書きかけのキャン
バスが木造りの三脚の上に置いてある。素人目には誰でも描けそうな気が
しないでもない稚作っぽい絵たちだが、それは眼力のない私の見方であっ
て、もしかしたら奥が深い作品たちなのかもしれない。それに、こうやって何
枚もの絵が壁に並べられているせいか、小さくて温かな美術館に入ったよ
うな感覚を覚える。
私はそんな壁を見回し見とれながら、きっとさっき身震いするほど感じた
”郷愁”はこれなのだろうと感思した。言うなれば、小学校の美術室。私が
まだマキに出会う前の人格とかココロがどうとかそういう概念を考えたこと
もなかった純粋な時代を私は無意識に反芻したのだと思う。
図画工作の授業には大したエピソードもなく、賞を取ったこともないし、ズ
バ抜けて絵が下手だったわけでもない。たとえ図画工作の時間の記憶を物
理的に強引に消し去ったとしても、今の私には何の影響も生じないほどの
無味乾燥なものであるはずなのだが、やけに懐古的な情緒として意識の
前面にせり出されている。
「カオリが描いたんだよね?」
「当たり前じゃん」
「こういう趣味があったんだ」
背後にいたカオリに顔を向けながら言うと、カオリは表情を緩めながら
あまり恥ずかしくなさげに、「なんか恥ずかしいべ」とちょっと訛りを含めな
がら言った。
「でもホントすごいよ」
「一応、勉強中ですから」
「もしかしてカオリの学校って美大?」
「今まで知らなかったの? 言わなかったっけ?」
不思議そうに聞くカオリに私は正直にうなずいた。
「画家になるの?」
絵を描く職業が全て画家になるわけではないだろうが、私にはそれしか
思いつかなかった。
「うーん。とりあえず、絵を描いて認められるように頑張ってる。まだまだだ
けどね」
一呼吸置いてカオリは微笑んだ。私は再び周りの壁に目を向ける。
純粋に感心した。もしかしたら自分の見つけた道を見つけ、しっかり歩い
ている同年代の人間を見たのは初めてかもしれない。突然カオリが輝いて
見えた。それは幻ではなく現実だろう。
「で、今日はどうしたの? ナッチのことだっけ?」
カオリは冷蔵庫から出した冷たいお茶をコップに入れて、ひょうたん型の
テーブルに置き、座布団に座る。
「うん。最近のナッチをカオリはどう思ってるのかなぁ? って思って‥」
「どうって?」
私はナツミのことが心配であることを端的に告白した。
「別にそれで幸せっていうのならいいんだけど‥」
最後にそうため息混じりに言う。沈む語尾には”それでいいワケがな
い”と付加しているのがあからさまになってしまい、少し苦笑した。
「何かサヤカのイメージが変わったなぁ」
しばらく黙っていたカオリは私の相談をは的外れなことを嬉しそうに言う。
「イメージ?」
「うん。私、サヤカってもっと他人には無関心な人間だと思ってた。働きは
じめてから全然話し掛けてくれなかったし、目とかずっと睨んでいるみたい
で怖くって‥」
「そりゃ、どうも‥」
カオリだって目は怖いよ、と言いたかったが言わなかった。しかしカオリ
が感じていたことは概ね正しいだろう。
私はずっと人と付き合うことは避けてきた。それはマキ以外の他者との
接触なんて本質的には無意味なことだとみなし、私はマキと届かない会
話だけを交わしていたから。
しかし、自分が不思議でしかたない。
たとえ私に人間臭さが生まれたとしても、なぜこんなにナツミのことを心
配しているのか? ナツミを見たり話したり考えたりする時、私には根拠も
ない不安がおとずれる。ナツミは都会の生活にようやく溶け込み、ただ”美
しくなった”だけだ。純朴なナツミを知っている私から見れば、その劇的と
もいえる肉体的かつ精神的変化が危うく見えるだけで、カラオケに来るナ
ツミと同世代の客と客観的に比べれば、擦り切れ方は何ら変わりはない。
だから本来ならば「ようやく都会に慣れてきたね」と誉めてやってもいいく
らいだ。
嫉妬?
それは違う。
私がずっと一人なら、常識的にはそれを考えてもよさそうだが、私にもつ
い最近恋人ができたのだからありえない。
大体、人の色恋沙汰への関心なんて私が最も遠いところにあるものの一
つのはずだ。
きっと表面上には見えない何かが私のココロを乱しているのだ。
どうもナツミはある特殊な匂いを放っているような気がする。それは理屈
では説明できない。私の脳に黄色の点滅信号を与えるようなちょっと危う
い色彩が刻まれている。勘が鋭いというワケではないので自分のこのモヤ
モヤしたものを絶対的に信じることはできず、今まできた。
カオリは瞬間的な交信でもしていたのか、やや間を空けてから口を開く。
「前にもさあ、ナッチが心配なんて言っていたし、今も心配していることは
確かなんだけど、私はナッチにずっと過保護になりすぎてたって最近思う
ようになってさ。もうナッチも大人なんだし、自分のやることに責任を持っ
て行動ぐらいできるだろうから、あんまり口出ししないようにしたの」
カオリの口調にはナツミの成長を妨げたのは自分だと自嘲している含み
があった。何も言わず、ただ呼吸を刻む私を一度見て、カオリは続ける。
「あの子ってずっと男の子のことを知らないで生きてきたんだよね。それ
で突然、彼氏ができたんだから反動でのめりこむのも仕方のないことな
んじゃない?」
カオリはナツミの保護者のような言い方をする。私は”反動”という言葉
に大げさに反応した。
私がこんなに心配するのも、今までの生き方に対する”反動”なのかもし
れない。
今まで―――それはマキの存在が全てだった。マキがいればそれでよ
かった。マキが笑ってくれたらそれでよかった。生も死も、住む世界が違
おうと関係ない。もしマキが死の世界にいるのだったらそこに飛び込んで
も良かった。あらゆる状況下においてマキという無の存在を欲した。
そういえば、最近マキは夢の中で姿を現さない。昔もよくマキが現れなく
なることがあった。その時は親を失った雛鳥のように慟哭し、現実界に見
るもの全てがマキを邪魔するものだという憎悪に変えたものだが今回は
違う。
マキの手を離したのは私の方からだからだ。ユウキという人間は今まで
の生き方の全てを否定させた。世界を180度変えた。
今まで存在自体をマキに律されてきた私は、ユウキの登場によりその呪
縛付きの鎖から解き放たれようとしている。しかし、それはいいことなのだ
と自分自身を納得できない自分がいる。
少なくともマキを想うとき、それは献身的な幸せがつきまとった。マキが
いなくなろうとしている今、私の精神は解放された分、自我の置き場を失い、
亡者のごとく彷徨っている。
天秤にかけているのは”幸福な束縛”と”浮遊した自由”。
私は今その狭間に立つ不安定な状態だ。
この究極の選択のどちらを採るかは決まっている。マキはもう私を束縛
するつもりはないのかもしれない。それにそんな束縛に矛盾を感じつつあ
る今、私はどんなに痛みを伴おうが自由を選択するしかないのだ。結果生
じるのは様々なものを完全否定した過去に対する”反動”。
そんな状態の私が自分の身を襲う不安などの感情を理解するのは不可
能なことなのかもしれない。
ナツミを心配する理由はその反動に耐え抜き、自由が安定になったとき
にわかるのかもしれない。もしくはその心配すること自体が愚かなことだっ
たと気付かされるのかもしれない。
「考えすぎかな‥?」
私は頭を掻いた。カオリは「そうそう」と静かにうなずき、冷たいはずのお
茶の表面を何故か一度フーフーと吹き、熱そうにしながら口をつけていた。