小説 『ふるさと』

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68AB-LS
 
「ああ〜、なっちかぁ。
 ちょっと今手ぇ放せへんから、隣で待っといてもらってんか。」
 よくある事なのか、所長と思しき女性は早過ぎるドアの開放は気に
 も留めず、受付嬢(“なっち”と呼ばれているようだ)に冷静な語
 調で答えた。

 (関西地方の人か。多分この声の主が所長さんなんだろうけど、随
  分と砕けた感じの人みたいね。
  それにしても、女性だなんて聞いてないわよ、保田さん…。
  それぐらいは事前に話してくれればいいのに。)
 保田の更に後ろに位置する梨華には姿は確認出来なかったが、短い
 言葉から迅速に人物像の組み立てを開始する。

 しかし、梨華の作業を遮断するかのように、入口から向きを変えた
 “なっち”と呼ばれる女性が隣室への移動を促す。
「申し訳ありません。
 声が大きいのでお聞きになられたかと思いますが、所長は今手が放
 せないようなので、少しの間隣でお待ちいただけますでしょうか?」
 梨華も保田も無言のまま頷くと、隣にある部屋へと案内された。
 
69AB-LS:02/03/10 16:20 ID:J2zdRJ0V
 
 通された部屋はシンプルな内装の小規模来客用会議室といった風情
 で、部屋のほぼ中央に置かれた黒いテーブルの左右、及び奥に揃い
 のソファーが設置されている。
 右隅にはありふれた観葉植物の類が慎ましやかに存在を主張してお
 り、壁には現代風な印象を与える適度な大きさの絵画が、過剰な高
 級感を感じさせない為であろうか、意匠も色彩も大人し目な額に収
 められた状態で掛けられている。
 向かって左側の壁の一部は埋め込み式の書架になっているようだが、
 本は疎らにしか収納されておらず、空間を埋める目的で造花が挿さ
 れた花瓶が複数飾られている。
 全ての家具・装飾品は「どこにでもある接客室」を意図して選別・
 配置されているように感じられ、かつその設計者の意図がここを訪
 れる大部分の人間に伝達するであろう出来映えである。
 
70AB-LS:02/03/10 16:20 ID:J2zdRJ0V
 
 しかしながら、全体を一瞥した梨華はすぐにこの「どこにでもあり
 そうな部屋」に強い違和感を感じた。 
 個々のアイテムも、デザインの総体的な意図も、全体的なバランス
 感も、とにかく目に映る全てが、ともすればあざとさに転化されか
 ねない程のシンプルさであったが、そのようなある意味強烈な個性
 を遥かに凌駕する違和感が、梨華の思考をあっという間に支配した。
 
 (これは…明らかに……。)
 再び花瓶に挿された造花に視線を移した後、梨華はチラリと隣に座
 る保田を見やった。
 保田も梨華と同様特殊な訓練を受けているモサドの一員であり、表
 情に出さないのは当然としても、この部屋の違和感には気付いてい
 るはずだが、梨華の視線に気付いても全く変化が見られない。
 
71AB-LS:02/03/10 16:21 ID:J2zdRJ0V
 
「すぐにお茶をいれますから、もう少々お待ち下さい。」
 そう言って、ここまで案内してくれた受付嬢は部屋を出ていった。
 間髪入れず梨華は保田に尋ねる。
「あのぉ保田さん……なんか変じゃないですか、この部屋?」
「そう?私は別になんとも思わないけど。
 どこにでもある部屋だと思うけどね。」
 視線を外したまま答えた保田の素振りが意図的に見えて、梨華は大
 体の事情が飲み込めたように思えた。
 (私の考えている通りだとすると、何を聞いても無駄かな。)
 
 それ以上の質問・詰問を諦めた梨華は、その他に出来得る限りの作
 業を迅速に開始した。
 再び部屋の内部の気になる部分を観察し、これから起こると予想さ
 れる事態に備えて頭の中で考えを整理する。
 この中には当然予想される外的変化と、それに対するアクションの
 シミュレーションのようなものも含まれてはいたが、過剰なまでの
 決め付けは己の行動範囲を狭める事にも繋がり、予想外の出来事に
 対する対応力を弱める事にもなりかねない。
 梨華にとっては至極当たり前の事ではあったが、あくまで考えられ
 る事は全て考えるが、あとは臨機応変というのが常に危険と隣り合
 わせの世界で生き残る為の行動規範となっていた。
 
72AB-LS:02/03/10 16:22 ID:J2zdRJ0V
 
 保田は先程から言葉を発する事なく、じっと正面を見つめているだ
 けだったし、梨華も自分から沈黙状態を打ち破るような事はしなか
 った。
 
 時計の針が正確に時を刻む音だけが共鳴する部屋で、どれぐらいの
 時間が経過したであろうか。
 このまま破られる事がないかと思えた均衡は、しかし突然のアクシ
 デントによってあっさりと崩壊の時を迎える。
 
 室内を照らしていた唯一の灯りが消えた事によって、外界の光を取
 り入れる設備が一切無い空間は、一瞬にして暗闇に覆われた。
 梨華が先程から感じていた違和感とは、正に完全に外界との窓口が
 全く存在しない空間に対してであり、自分がいる場所の本質を考え
 ると、今起こっている事態そのものは予想範囲内の事であった。
 
 頭で考えるよりも早く、梨華は危機回避の行動に移っていたが、同
 じ立場に身を晒しているはずの保田は、
「ちょっ…なによ、これっ!
 石川!石川、大丈夫?」
 と事態が急転した直後に興奮気味に声を発しただけで、その場を動
 いた気配は感じられなかった。
 
73AB-LS:02/03/10 16:23 ID:J2zdRJ0V
 
 大体の事情を自らの内側で解決しつつあった梨華は、それに対して
 答えを返さなかった。
 既に最初に腰を下ろした位置からの移動を完了していた梨華にとっ
 て、緊張感が増した状況で自分の位置を公表するような真似は出来
 ない、という理由もあったが、それは便宜上の理由でしかなく、実
 際にはこの瞬間にはずっと抱いていた疑問が氷結しており、保田も
 また自分の解釈の中では純粋な味方ではなかったから、というのが
 本当の理由だろう。
 (予想はしてたけど、本当にくるとはねえ……)

 気配を完全に絶ちつつ、暗歩と呼ばれる無音歩行で部屋の左奥に移
 動した梨華は、その間も室内の(この時点では特に保田の)気配を
 注意深く感じ取っていた。
 相変わらず保田に動きはない事を確信した梨華は、視覚が全く意味
 を成さない空間で、普段は見せた事の無いような心からの苦笑を薄
 っすらと浮かべつつ、部屋の片隅で次の変化をただ待っていた。
 
 しばらく真っ暗な世界でいたずらに時間が経過するだけであったが、
 耐えかねたように開かれた入口のドアから僅かながらに射し込む人
 工的な光によって、事態は新しい展開を見せる事になる。