小説 『ふるさと』

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 窓外で奏でられる鳥の囀りに促されるように梨華は目を覚ました。
 カーテンの隙間から差し込む僅かばかりの光によって、朝の訪れを
 認識した梨華は、静かに身体を起こして活動を開始する。
 保田が迎えにくる時刻まではまだかなり余裕があったが、厳しい訓
 練所暮らしの中で、すっかり早起きが身体に染み込んでおり、頭も
 体も覚醒してしまっている。
 
 手早く朝食を済ませた梨華は、これまた素早く身支度を整えた。
 テレビを点けてこれといった目的も無くボンヤリと眺める。
 流されている番組はどれも日本という国の平和さを如実に物語る内
 容であった。
 中には深刻なニュースもあるにはあったが、テロやそれに対する軍
 の報復が日常茶飯事となっていた故郷のそれを思えば、平和そのも
 のであると断言して間違い無いだろう。
 同時に、日本人の両親を持ちながらその平和さを享受する事なく育
 った自分とひとみのこれまでの人生を思うと、複雑な心境にならざ
 るを得なかった。
 
 故郷で命を落とした産みの親、育ての親、そしてひとみの両親、み
 んな民族・宗教的対立という自分にとってはあまり価値観を見出せ
 ないイデオロギーの犠牲者である。
 今の梨華はそれら過去のしがらみを全て振り払い、新しい生活を求
 めてこの国へとやってきたはずだった。
 しかし、ここまでやってきた主目的が「ひとみを捜し出す事」であ
 る以上は、むしろ本当の意味で過去の呪縛から逃れる為に、行動し
 ているのではないか。
 ふとした事から、本当の答えから目を背けていた自分に気付き、シ
 ニカルな笑みを浮かべる梨華であった。
55AB-LS:02/03/02 21:56 ID:AvWRVrty
 
 数時間後、梨華は保田の愛車の助手席にいた。
 保田の口利きで働き口の世話になるのだが、その勤め先の話はまだ
 何も聞いていなかった。
「あの、保田さん。
 これから行くところって、どういうとこなんですか?」
 さすがに事前情報ゼロでは不安だった梨華は、隣でハンドルを握る
 保田に尋ねてみた。
「そういや、まだ何にも話してなかったわね。
 これから行くところは、一般の探偵事務所でそこの所長さんと私は
 ちょっとした知り合いなのよ。」
「探偵事務所ですか…。」
 梨華の歯切れの悪さを感じ取ったのか、保田は補足するように説明
 を続ける。
「所長さんはね、元内調の腕利きで…ちょっと変わった人だけど、腕
 の方はとにかく信用していいわよ。
 表向きは他のところとなんら変わらない探偵事務所だけど、裏では
 色んなところからヤバい仕事も受けてるようね。
 かくいうウチもたまに使ってるんだけどね。」
「変わってる、っていうのはどういう意味ですか?」
「う〜ん、あれこれ説明するよりは、実物に会って話してみれば大体
 わかると思うわ。
 それに、変わってるって言っても悪い意味じゃないから、安心して
 ちょうだい。」
「そうですか。」
 正直、まだ不安が払拭されたわけではないが、保田の言う通りで、
 実物を見もしないで文字情報のみで判断する事の危険さを、梨華は
 嫌という程教え込まれていたので、ここは素直に納得しておく事に
 した。
 
56AB-LS:02/03/02 21:58 ID:AvWRVrty
 
 車は都心近くのとあるビルの駐車場で止まった。
「着いたわ、ココよ。」
 逸る気持ちを抑えつつ、梨華は保田の後ろに付き建物の入口へと向
 かう。
 4階建ての洗練されたデザインのビルは、全フロアが件の探偵事務
 所によって使用されているようで、然程の大きさでは無いとは言え
 金回りの良さが窺える。
 保田の言う通り、ヤバ目の仕事を法外な料金で受けているというの
 も納得である。
 
 入口の自動ドアを抜けると、正面には小じんまりとした受付が設置
 されていて、受付嬢と思われる女性が2人座っている。
 向かって左側の女性は印象的なロングの黒髪に、ともすれば冷たい
 イメージを与えかねない程整った顔立ちをしている。
 一見寡黙そうに見えるその女性ではあったが、その反面周囲の目を
 惹きそうな魅力を持ち合わせている。
 右側にいる女性はそれとは対照的で、暖かさを見ているものにも伝
 達しそうな、全体にふっくらとした顔立ちから常時放たれる柔らか
 い笑顔が印象的である。
 右側に位置する受付嬢が梨華と保田の存在に気付いたようで、ペコ
 リと控え目に頭を下げる。
 物腰には無理が無く、それは彼女の持つ独特の空気のせいもあるの
 だろうが、とにかく流れるような自然な雰囲気を醸し出している。
57AB-LS:02/03/02 22:00 ID:AvWRVrty

 保田が二言三言受付嬢と言葉を交わすと、受付嬢は素早く手元の受
 話器を取り、恐らくは所長にであろうが、二人の訪問を告げる。
 その間もう一方の女性はほとんど微動だにせず、いや正確には梨華
 がこのビルに足を踏み入れた時点から、ほとんど動きらしい動きを
 見せていない。
 
 (ただの受付じゃなさそうだな。)
 視覚から取得した情報、多くの只者じゃない人物の中で揉まれてき
 た経験、そしてそのような生活の中で培われた勘が指し示している
 結論から、梨華は警戒レベルを一段上にシフトする作業を無意識的
 に行っていた。
 
「お待たせしました。ご案内させていただきます。」
 そうこうしているうちに連絡がついたようで、梨華と保田は先程の
 受付嬢の案内でエレベーターへと導かれる。
 受付カウンターを離れてからの彼女は、着座時と変わらぬ自然体を
 崩さず、相変わらずどこかフワフワとした動きで先頭を歩く。
 受付で見たもう一人の女性の動き(実際にはほとんど動作を見せな
 かったわけだが)や張り詰めた空気からは、ある意味梨華が見慣れ
 た人種・職種の匂いが感じ取れたが、こちらからは全く異質な何か
 が流れ込んでくる。
 それはひとみと過ごした時間とはまた別の意味で心地良い空気でも
 あり、そのような空間を意識せず作り出してしまう彼女に対して、
 梨華は言葉にならない不思議な感情を抱いた。
 勿論、そのような心の揺らぎを表情にはおくびにも出しはしなかっ
 たのだが。
 
58AB-LS:02/03/02 22:01 ID:AvWRVrty
 
 エレベーターは緩やかな上昇を続け、やがて4階で動きを停止した。
 その間、受付嬢がずっと視線を向けていた事に違和感を感じた梨華
 ではあったが、絶えず表情から零れ落ちる不思議な笑顔故か、不信
 感を募らせるまでには至らなかった。

 フロアの入口をくぐり、所員が忙しそうに動き回るオフィスを通り
 抜け、入口から見て最奥に位置するパーテーションで区切られた一
 画へと足を踏み入れる。
 パーテーションの奥にもいくらかのオフィス区画が確保されており、
 数人の所員らしき人物が確認出来た。
 そして、そこで働く人々がパーテーションの手前にデスクを構える
 人々とは、明らかに違う人種である事も、梨華には直感出来た。
 仕事の様子などは何ら変わりはないが、周囲への気の配り方や微妙
 な動き等から、そこにいる人々が自分と同様の、またはそれに近し
 い訓練を受けている事が読み取れる。
 恐らくはパーテーションの手前側と向こう側では、担当する仕事の
 性質が全く異なっているであろう事が、容易に想像できた。
 
59AB-LS:02/03/02 22:01 ID:AvWRVrty
 
 既に頭の中には事務所についての様々な仮説が理論立てて構築され
 つつあったが、結論を出すのは中心人物である元内調の腕利きとい
 う所長と話をしてからという事になるだろう。
 
 監視カメラの位置を気にかける職業病的部分に心の中で苦笑しつつ、
 梨華はパーテーション内側の一番奥にある部屋の前で歩みを止める。
 恐らくはここが所長の執務室という事なのであろうが、想像してい
 たような立派な造りではなく、視覚情報のみで「ここが所長室」と
 識別可能な表示も一切なかった。
 ドア前の天井に設置された監視カメラや、部屋のすぐ横に非常口が
 あるという事実からは、この部屋の中に常駐している人間の用心深
 さが窺える。
 そして、それは同時に用心する必要のある環境で暮らしている事を
 示唆している。
 
 相変わらずのホンワカした雰囲気で先頭を歩いていた受付嬢が、躊
 躇う事無くドアをノックした。
 中からは少し遅れて女性らしき声で返答が確認出来たが、彼女はそ
 の返答が耳に入った時には既にドアを開け放っていた。