小説 『ふるさと』

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42AB-LS
 
「着いたわよ。ここが今日からあんたが暮らす部屋。」
 空港から保田の愛車(軽)で数時間、東京の郊外に位置する閑静な
 住宅街に、保田が手配してくれた小綺麗なマンションがあった。
 保田に言わせると、この国では派手なカーチェイスなどは殆ど無く、
 小回りの利く軽が仕事にはベストだそうだ。
 既に時間が遅いせいもあり、周囲は人通りも殆ど無く、静かな空気
 を望む梨華にとっては言う事の無いロケーションである。
「最低限生活に必要なものは揃えてあるから、暫くは困らないと思う
 けど、他に何かあったら言ってちょうだい。」
「何から何までありがとうございます。
 部屋の分も含めて、全部保田さんが立て替えてくれたんですよね?」
「そう。まあいつでもいいからちゃんと払ってね…と余裕を見せたい
 とこだけど、今月ピンチなのよ。
 悪いけど、明細回すからなるべく早く振り込んどいて。」
 わざと苦しそうな表情を作ってみせた保田が窮状を訴える。
「……また、毎日飲み歩いてるんですか?」
「うっさいわね、いいじゃないのよ別に。」
 図星だったようで思いの他保田が動揺しているようなので、梨華は
 それ以上の追求をしなかった。
 
43AB-LS:02/02/27 01:13 ID:Joq9pvSv
 
「それより、これも渡しとくわね。」
 保田はそう言って梨華に薄いピンクの携帯電話を手渡した。
「こっちで生活するんなら、必要になるでしょ。
 あんたのリストにはなかったけど、勝手に用意しといたわ。
 ちゃ〜んと、私の番号がメモリの一番最初に登録されてるから、寂
 しくなったらいつでも連絡しなさい。」
 登録されたメモリを確認すると、確かに先頭に保田のものと思われ
 る番号が登録されていた。
 ただし、その登録名は『圭ぴょん」…。
 
「……これ新手の呪いかなにかですか?
 恐いから…後で消去しておきますね。」
ほぼ期待通りに淡々と語る梨華に保田が反論する。
「失礼ね〜。
 あんた、それが色々と骨折らせた相手にかける言葉?」
「それとこれとは話が別ですから。」
 メモリの消去は冗談としても、登録された名前だけはすぐに変更し
 ようと堅く決意する梨華であった…。
44AB-LS:02/02/27 01:14 ID:Joq9pvSv

「全く、呪いだなんて元エージェントの言葉とは思えないわね。
 とにかく、明日のお昼に迎えに来るから、準備しときなさいよ。」
 その表情にはまだ不満の色を濃く残しつつ、保田は言った。
「はい、わかりました。
 保田さん、本当に色々とありがとうございました。」
 梨華は本当に申し訳無さそうに頭を下げる。
「いいわよ、別に。
 それより振込金額に色でもつけといてちょうだい。
 じゃあ、また明日ね。」
「はい、おやすみなさい。」
 愛車で遠ざかる保田を見えなくなるまで見送った梨華は、疲れた脚
 を部屋へと急がせる。
45AB-LS:02/02/27 01:15 ID:Joq9pvSv
 
 エレベーターを降り、教えられた部屋番号の前で一旦脚を止める。
 入口には表札の類は一切無く、勿論これは梨華が希望した事でもあ
 るのだが、ドア・窓の格子ともに頑丈な作りになっており、セキュ
 リティ面は日本の一般住宅としては申し分無いレベルにあると言っ
 てよいだろう。
 周囲に人影は無かったが、それでも一定量の気を配りながら、梨華
 は鍵を開けて部屋の中に脚を踏み入れた。
 無意識のうちに足音や気配を殺して玄関に入った梨華は、手探りで
 灯りのスイッチを探し当て、やはり神経を前方に集中させ、気持ち
 不測の事態に身構えつつスイッチをオンにする。
 
 急激に明るくなった視界にもすぐに順応した梨華は、まずは部屋の
 構造や設備等を納得がいくまで点検する。
 十数分をかけて一通り見終わった梨華は、先程冷蔵庫の中に確認し
 た紅茶のペットボトルを取り出し、ようやく腰を下ろした。
 (もうすっかり癖になっちゃってるな、こういうの。
  昔と違って、今はもうそこまでする必要はないんだって、頭では
  わかってるんだけどなあ…。)
 
46AB-LS:02/02/27 01:16 ID:Joq9pvSv
 
 部屋には飲み物の他にも、日持ちのする冷凍食品やインスタント食
 品の類が相当量備蓄されていて、保田の言った通りしばらくの間は
 普通に生活していけそうである。
 電化製品や生活雑貨等も一通りは揃っており、中にはこれまで梨華
 がエルサレムでの生活で殆ど目にした事の無いものまであった。
 テレビやビデオは言うまでもなく、オーディオからPC、洗濯機に
 至るまで、几帳面にその取扱説明書とセットで備え付けられている。
 電気製品の取付や配線等も完了しているし、CDやビデオ、果てに
 はDVDのソフトまでが疎らではあるがオーディオラックに収納さ
 れている。
 全て開封されている事から、恐らくは保田の私物も混在しているで
 あろう事が想像されるが、それにしてもよくもここまで取り揃えた
 ものだ。
 短期間ではあるが、保田自身がここに寝泊まりしていたのではない
 かとさえ梨華には思えた。
 (その疑念は数日後に戸棚の奥の方から見つかった開封済のアルコ
  ール類の瓶によって確信に変わる事になるのだが。)
 
47AB-LS:02/02/27 01:17 ID:Joq9pvSv
 
 窓から落ち着いた雰囲気の周囲の景色を一瞥した梨華は、寒風に揺
 れる木々から屋外の厳しい寒さを部屋の中にいながらにして体感し
 たような感覚に襲われる。
 (少し疲れてるみたいだし、今日はシャワー浴びて寝ようかな。)
  
 唯一自ら部屋に持ち込んだバッグから着替え一式を取り出し、無造
 作に寒色系で統一されたカーテンを閉じる為窓際へと向かったその
 足で、浴室へと向かう。
 浴室はいわゆるユニット式ではなく、都会では稀な程ゆったりとし
 たスペースが確保されていた。
 タイルや浴槽等の色彩感も程よく調和を保っており、それは浴室以
 外の部屋のインテリアとも意志統一が図られていた。
 アイテムごとに見ると質素ではあるが、細かい部分への気配りやパ
 ッケージ全体として捉えた際に感じ取れるイメージはいずれも高水
 準にあると思えたし、そこからは設計者の誠実な仕事振りが窺える。
 
 (長く暮らしていても飽きのこないデザインっていうのは、こうい
  うのを言うんだろうな。)
 訓練所で梨華に割り当てられた部屋は、一面剥き出しの灰色のコン
 クリートで構成され、飾り気など皆無であったせいも多分にあるの
 かもしれないが、それを差し引いても正統な評価と思える素直な感
 想であった。
 
48AB-LS:02/02/27 01:18 ID:Joq9pvSv
 
 身体が疲弊していた事もあり、梨華は湯船にゆっくりと身を浸した
 いという衝動に駆られるが、ボンヤリとし始めた思考回路は結局そ
 の選択肢を否定し、当初の予定通りシャワーのみで済ます事にした。
 
 長旅の疲れを癒すように全身を伝う柔らかく暖かい水流。
 その流れに抗うかのように、上方から絶え間なく供給される水流に
 対して目を閉じた状態で顔を正対させ、現在、そして数日単位の近
 い将来の事について漠然と思いを巡らす。
 
 これから始まる日本での生活に対する期待感・不安感、明日の昼頃
 には判明する新たな仕事の事、そこで出会う事になるであろう人々、
 生まれ育った国を捨ててまで日本へとやってきた真の目的、様々な
 思考が梨華の脳裏にある時は鮮明に、またある時は不鮮明に浮かん
 では消えていく。
 
 恐らくは良い事ばかりではないであろうし、自らの生い立ちや求め
 る人の事情から鑑みるに、艱難辛苦も待ち受けているであろう。
 それでも、自分の意志で少しずつでも前に進む道を選んだ事、これ
 までの生活には有り得なかったこの事実が、梨華の心を充足感で満
 たしていた。
 
49AB-LS:02/02/27 01:18 ID:Joq9pvSv
 
 シャワーを終えた梨華は軽く髪を乾かし、オーディオラックに並べ
 られたCDの中からインスピレーションで一枚を掴み取り、プレイ
 ヤーにセットすると、そのままベッドへと向かう。
 ベッドに潜り込み、見慣れない天井を眺める。
 初めて聴くスローテンポのリズムに乗せられた優しい日本語の曲を
 BGMに、目を閉じた梨華が遠ざかりつつある意識の中で考えるの
 は、やはりひとみの事であった。
 
 果てしなく続く暗闇の世界から自分を救い出してくれたひとみ、幼
 い頃からずっと同じ場所に立ち止まり続けていた自分に、しっかり
 と未来を見据え前に進む事を教えてくれたひとみ……梨華の脳裏に
 去来するのは、どれも闇に生きてきた梨華には眩し過ぎる程光り輝
 いた姿であった。
 その光が今も輝きを失っていないのか、梨華には否定的な答えしか
 導き出せそうもなかったが、今の梨華にとってはひとみの存在自体
 が重要であって、もう一度彼女に会えるのであれば、梨華の記憶に
 残る昔のひとみである必要はないように思えた。
 
 ひとみが梨華の元を去って以来、毎日のように反芻されてきた思考
 ではあったが、現実に再会に向けて自らの脚で歩き出したからであ
 ろうか、これまでにない心地良さを感じながら梨華は眠りに就いた。