小説 『ふるさと』

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226AB-LS

 フロア内でもエレベーターから最も遠く離れた位置にある中澤の部
 屋だが、そのすぐ脇には非常階段へと続くドアが設置されており、
 またドア自体の重厚な造りから、中澤のセキュリティへの気配りが
 はっきりと窺える。
 仕事上、危険な橋を渡っている事を考慮に入れても、事務所から自
 宅に至るまでのこの国の常識を逸脱した用心深さに、梨華は幾許か
 の疑念を中澤に対して感じつつある事を完全否定出来なかった。
 
 テキパキとドアを開錠し、事務所で何度か目にしたのと同じ様に繊
 細さを微塵も感じさせずに開け放つ中澤。
 まだ会って半日も経過していないが、このような中澤のある種男性
 的なアクションは、彼女のキャラに見事なまでに調和しているよう
 に思えて、梨華は一人こみ上げてくる笑いを堪えていた。

 梨華の変移には全く気付いていない中澤は(常人に気付かせるよう
 な梨華ではないが)、手招きで梨華を室内に導きいれる。
 マンションとは思えないゆったりとした空間が玄関から広がってお
 り、まだ住み慣れたとは言い難い自分の部屋のそれを思い浮かべな
 がら、梨華はそのギャップの大きさに驚きを感じた。
 玄関は割り当てられたスペースは広いものの、そこにある家具類等
 は一般家庭と然程差異は無く、ドア部に大きな鏡が張られた靴入れ
 兼傘立てだけが、相対的に存在感を主張している。
 事務所の例の部屋に見られたような装飾品の類はここには一切無く、
 事務所の方が中澤以外の人間によって内装が決定されたという事が
 推測出来る。
 あの部屋はカメラやマイク等の偽装の為に、用度品を設置している
 とも考えられるが。
 ともあれ、本来の中澤の嗜好が質素というか、外見に拘りが無いと
 いうのは間違いなさそうで、その思いは玄関から先に進んだ際に確
 信に変わる事になる。
227AB-LS:02/05/25 14:22 ID:MYP/xw8W
 
 自分の家なのだから当然なのだが、中澤はスイスイと奥に進み、リ
 ビング兼応接室といった風情の広い部屋に梨華を案内した。
 あまりに殺風景な玄関に比べれば幾分装飾された感はあるが、それ
 でも落ち着いた配色やシンプルな家具の造り、配置からは機能性重
 視な中澤の気質が感じ取れる。

「ちょっと散らかってるけど、そのへん座っといて。
 ちょっと例の姪呼んでくるわ。」 
 
 そう言って中澤は元来た廊下を少し戻り、玄関に向かって左側にあ
 るドアを、壊れるのではないかと思える程強くノックした。

「加護ぉ〜、帰ったで〜!」

 …………

 その呼び声も梨華が驚くぐらい大きかったが、部屋からは何の反応
 も返って来ない。

「こぉ〜らぁ〜加護! 聞いとんのか!」
 数秒後、全く躊躇う事無く、中澤は再びガナリ声を上げながら部屋
 のドアを開け、中へと入っていった。
228AB-LS:02/05/25 14:23 ID:MYP/xw8W
 
 なんとなく心配になった梨華はソファーから腰を上げ、ドアの方へ
 と向かった。
 半開きのままにされたドアは、他の内装と変わらず質素なもので、
 それ自体には何も思うところはなかったが、ドア中央やや上部にか
 けたれた部屋の主を示すカードには、ここに“女の子”が住んでい
 る事を伝達する要素があった。
 なんらかの動物を模したキャラクターの形状をしたそのカード(そ
 のキャラクターがなんなのかは梨華にはわからなかった…)には、
 女の子らしい丸い崩れた文字で「あいのへや」と書かれていた。
 おそらくはこの部屋にいる中澤の姪である加護亜依という少女が自
 分で書いたものであろう。
 一部分だけ突出してメルヘンチックなカードが、ドア全体を眺めた
 場合には何とも言えないミスマッチ感を漂わせてはいたが、それは
 心地良い類の感覚であり、梨華にとっても受け入れ難いものではな
 かった。

 
229AB-LS:02/05/25 14:24 ID:MYP/xw8W
 
 梨華はドアの開放されたサイドに回り、恐る恐る部屋の中を覗いて
 みる。
 部屋にはベッドや机、ミニコンポ等、普通に家具類が設置されてお
 り、残されたスペースのほぼ中央部に、ちょこんと(この表現がこ
 れ程似合う人は他にはいないのではないかと、梨華には思えた)一
 人の少女が座っていた。
 梨華の位置からは中澤が少し壁になっていて、さらに後ろ姿しか見
 えないのだが、髪を左右の高い位置で纏め、ヘッドフォンを装着し
 た少女は、未だ中澤の入室に気付かないのか、リズムを取るように
 小刻みに体全体を揺らしている。
 その仕種が人形のようで、たまらなく愛くるしい。
 
 呼びかけに対して気付いているのかいないのか、全く反応しない少
 女に痺れを切らした中澤が、正面に回り無造作にヘッドフォンを剥
 ぎ取ると、漸く事態に気付いた少女は小さな顔をやや斜めにしなが
 ら中澤を見上げ、得も言われぬ笑みを満面に浮かべた。
 
 その理由までは特定できなかったが、少女の仕種一つ一つが何故か
 梨華の琴線を殊更に刺激してくる。
 それは自分には無いものへの憧憬なのかもしれないし、自分でも気
 付いていなかった妹的な少女に対して発現した家族愛のようなもの
 なのかもしれない。
230AB-LS:02/05/25 14:26 ID:MYP/xw8W
 
「おかえり、今日も早いんやな。」
 初めて耳にした少女が発した声は、その外見に違わぬ愛くるしい印
 象を梨華に与えるものだった。
 そして、そのアクセントは中澤のそれと同じく、いや正確には中澤
 よりも人懐っこいイメージを感じさせる関西訛りであった。
 
「おかえりやないやろ、あんたは。
 お客さん来てるから挨拶し、ほら。」
 そう言って中澤は少女の丁度背後に佇む梨華の方を指差した。
 
 少女は突如として殆どノーモーションで立ち上がり、ダンスでもし
 ているかのようにフワリとターンして梨華に正対した。
 先程から梨華の心を擽る微笑みに、初対面の人間に対する興味から
 からくる瞳の輝きが加わり、さらに小悪魔的な魅力に満ちていた。
 顔立ちそのものは歳相応というか、むしろ同年代の女の子よりも幼
 さが色濃く残っているようにも思える。
 
「はじめまして、加護亜依です。」
 さすがに先程中澤に対して発していた声とは若干トーンが違ってい
 たが、それでも独特の絡みつくようなキーは変わっていなかった。
 梨華も小さい頃から嘘みたいなアニメ声を散々揶揄されたものだが、
 その経験がより一層加護亜依への親近感となって発露しているのだ
 と、この時確信した。
231AB-LS:02/05/25 14:27 ID:MYP/xw8W
 
 そのような事をなんとなく考えていたが為に、肝心の亜依へのレス
 ポンスを梨華はすっかり忘れていた。
 自分では時間にしてホンの数秒のように感じられたが、それは待つ
 側(亜依)及びその様子を眺める側(中澤)にはもっと長く体感さ
 れたようで、不自然な静寂に耐え切れず中澤が口を開いた。

「加護、あんたそれだけやのうて、他にもあるやろ、ほら年齢とか、
 趣味とか……ってそれじゃお見合いみたいやな。
 ……あー、とりあえず何でもええから、ほらはよしいやぁ。」
 本来であれば沈黙した梨華に対して発言を促すべきであろうが、こ
 の時点で中澤も梨華のキャラを掴みきれておらず、また突っつく相
 手としては梨華よりも亜依の方が遥かに好都合だったのであろう、
 その曖昧な矛先は亜依に向けられた。
 
「そんなん急に言われてもなあ……。
 とりあえず歳は13歳、中学2年生です。
 趣味は……えーとぉ…シールを集める事かな?」
 たどたどしくではあったが、とりあえずは中澤に求められた最低限
 の答えを返した亜依は、少し困ったような斜め上方を眺めるような
 表情から、一転通常時の笑顔に戻る。
「シールってあんた、そんなんが趣味なんか?」
 これが日常なのだろう、すかさず中澤が横から突っ込みを入れる。
「別にええやろー、趣味が何でも。
 おばちゃんみたいに、年中若い女の尻追っかけ回してるよりもよっ
 ぽどええやん。」
「アホ、誰が若い女のケツ追っかけ回しとんねん!
 ……ってそれより先に、ウチはまだ『おばちゃん』ちゃうって何回
 言うたらわかんねん。」
「おばちゃん、おばちゃん。」 
「このガキャァ…」
 
232AB-LS:02/05/25 14:28 ID:MYP/xw8W
 
 延々と続きそうな仲が良いのか悪いのかわからないやり取りに、こ
 のまま聞いているのも楽しそうだなと梨華は思ったが、いつまで経
 っても終わらない罠かもしれないとも思い、覚悟を決めて割って入
 った。
 
「あ、あのぅ……まだ私自己紹介してないんですけど……」
 その間も展開されている夫婦喧嘩のようなやり取りに掻き消されそ
 うな程弱々しい声ではあったが、その助け舟を待っていたかのよう
 に、中澤はその声を聞き付けた。
「ああー、そやな、スマンかったな。
 オマエがイラン事ばっかり言うからやで、ったく(ブツブツ)」
「そっちが先にちょっかいかけてきたんやん……」 
 加護もまだ決着はついていないとばかりに不満の声を漏らす。
 
「ええと……いいですか?」 
 徐々に2人の行動パターンを把握しつつあった梨華は、流れを変え
 るべく、未だ燻り続ける亜依と中澤の口論を半ば無視するように、
 話し始めた。
233AB-LS:02/05/25 14:29 ID:MYP/xw8W

「石川梨華です。 
 今16歳だから、亜依ちゃん…て呼んでもいいかな?(梨華はココ
 で亜依が黙って頷くのを確認する)
 亜依ちゃんより3つお姉さんになるのかな。
 来週から中澤さんのところでお仕事をさせてもらう事になってます。
 ちょっと事情があって、ずっと海外で暮らしてたんで、こっちに知
 り合いがほとんどいないから、仲良くしてね。」
 
 梨華の精一杯の笑顔に釣られてか、亜依も見る見るうちに最初の笑
 顔を取り戻し、顔を横に傾け輝かんばかりの瞳で梨華を見詰める。
 
「ほら、あんたもよろしく、やろ。」
 中澤が促すと、亜依は少しモジモジしながらも、
「よろしくお願いします。」
 と礼儀正しくお辞儀をした。
 その仕種は、これまでに負けず劣らず梨華の心を掴んで離さないも
 のだった。
 
234AB-LS:02/05/25 14:34 ID:MYP/xw8W
 
「それと、いつもみたいなしょうもない悪戯はなしやで。」
 中澤はそれがあたかも亜依のライフワークであるかのように言う。
「悪戯なんかしてへんやろ。
 ヘンな事言わんとって。」
 亜依も負けずに言い返す。
「まあええわ、どうせあんたの浅はかな悪知恵が通用する相手とちゃ
 うからな。」
 
 亜依は中澤の言葉の意味するところを咀嚼し切れていないようで、
 ポカンとした表情で若干首を傾げている。 

 梨華は亜依が醸し出す、なつみとはまた違った不思議で和やかな世
 界で、ゆっくりと進む時間を楽しんでいた。
 日本に来るまでは、ひとみは例外としても、その他の周囲の人間は
 多少の振幅はあれ、ほぼ均一と言って良いぐらい単調な人ばかりで
 あった。
 特殊な訓練によって意図的にそのように仕立て上げられたのは、同
 じ訓練を施された梨華には充分過ぎるほど理解出来たが、その原因
 がどうこうではなく、もたらされる結果に対して梨華は退屈さを覚
 えていたものだ。
 そのような環境にいたからこそ、明らかに違う種類の空気を持つひ
 とみに惹かれていったのだとも言える。
 それが、この国に来てからというもの、なつみも中澤もそして今眼
 前で微笑んでいる亜依も、梨華に次々と新しい発見、体験をさせて
 くれる。
 唯一飯田だけは梨華にとっての常識の範疇に収まっていたが、まだ
 一言も言葉を交わした事もなく、彼女とて今抱いているイメージと
 は違う人種なのかもしれない。
 そして、それに近い事は確かなつみから昼間聞いたはずだ。
235AB-LS:02/05/25 14:35 ID:MYP/xw8W
  
 本人が自覚しているかどうかは微妙なところだが、梨華は確実に日
 本での生活に充足を感じていた。
 生活環境や仕事内容などは梨華にとってはあまり問題ではなく、そ
 れよりも出会う人々(しかも個性的)から得られる新しい発見が、
 そして何よりもそのような人々が自分と好意的に接してくれる事が
 純粋に嬉しいのだ。
 ただし、そういう事象に対する免疫、もしくは概念といった方が適
 切かもしれないが、ともかくそのようなものを持ち合わせていない
 梨華には、自らの感情の揺らめきの正体が見極められなかったのだ。
 
「石川、あんたどっか具合でも悪いんか?
 さっきからなんか様子おかしいで。」
 夢想の世界から梨華を引き戻したのは、またも中澤の声だった。

「え? あ…あの、別になんでもありません。
 スイマセン、スイマセン。」
 突然の事だったので、思わず顔を赤らめ、脚元に敷かれている淡い
 ピンクの絨毯に焦点を合わせ答える。
236AB-LS:02/05/25 14:35 ID:MYP/xw8W

「そうか、大丈夫なんやったら別にええけど。
 それより、お腹空いたやろ?
 晩飯にしよか。」
「ウン!」 
 中澤は明らかに梨華に問い掛けていたのだが、梨華に考える間を全
 く与えずに、亜依が歓喜の声を上げた。
 さすがの中澤も呆れ気味だ。

「……あんたはこんな時だけしっかり返事すんねんなぁ。
 まあええわ、裕ちゃんも腹減ってきたし、今日は裕ちゃん特製ワン
 ダフル水炊きや。
 加護ぉ、オマエはお手伝いな。」
「ええぇ……」
 一転腰が引け気味の亜依だったが、中澤には容赦という言葉は無い。
「働かざるもの食うべからずや。
 それでもイヤやったらええねんで、残念やなあ、奮発してええ地鶏
 の肉を仕入れたのに。
 いや、ホンマ残念やわ。」
「わかったわ、手伝えばええんやろ、手伝えば。
 人使いの荒いオバチャンや……」
「余計な事は言わんでええねん。
 さあ始めるで。」
 
237AB-LS:02/05/25 14:35 ID:MYP/xw8W
 
 渋々の亜依を引き連れ中澤はキッチンに向かう。
 亜依はこれから行う労働への倦厭感と、その直後に控える食事への
 期待感が入り混じって、複雑な表情、というよりもはっきりヘンな
 顔と表現した方が適切な、そんな顔をしている。
 
「あのぅ中澤さん、私もお手伝いします。」
 特段気を遣ったわけではなかったが、他人の家で一人でジッとして
 いるのも退屈そうなので、梨華は恐る恐る申し出てみた。
 
「気持ちはありがたいけど、石川はお客さんなんやから座ってテレビ
 でも観とってや。」
 概ね予想通りの反応だったので、梨華はすかさず予め用意してあっ
 た次の言葉を声にする。
「いえ、待ってるのも退屈なんで、是非手伝わせて下さい。」

「……そうか、そこまで言うんやったらしゃあないなぁ。
 じゃあ、悪いけど手伝ってもらおか。」
「その割には顔は嬉しそうなんやな……」
 亜依が鋭い突っ込みを入れる。
「あちゃ〜、顔に出んようにしたつもりやけど、バレてもうたか。」
「予定通りみたいな顔して、よう言うわ。」
 
 3人は和やかな雰囲気でキッチンへと移動した。

−−−
238AB-LS:02/05/25 14:38 ID:MYP/xw8W

 室内の他の施設同様、キッチンスペースも広く取られていた。
 見た目の派手さや、驚嘆に値するような高機能があるわけでは無い
 が、大抵の要望には答えられるだけの機能が慎ましやかに備えられ
 ており、梨華は特に痒いところに手が届くような、何気ない機能性
 に溢れたシステムキッチンに感心させられた。
 
 中澤は先程から奥でワンダフル水炊きとやらのの仕込みに注力して
 おり、リビング寄りの位置で食器類の準備をしている亜依にも、野
 菜の皮剥きや刻むのを担当している梨華には全く注意を払っていな
 いようである。
 何やらお呪いのようにブツブツ呟いているが、梨華の位置からは良
 くは聞き取れなかった。
 自ら手伝いを名乗り出た事もあり、梨華も慣れない作業ではあった
 が一心不乱に野菜の仕込みを続けていた。
 そんな梨華の背後から忍び寄る人影にも、素人目には全く気付かぬ
 ように……。
 
239AB-LS:02/05/25 14:39 ID:MYP/xw8W
 
 足音を完全に消し去り、どこから持ってきたのか頭には漫画に出て
 くる泥棒のように布を巻きつけた亜依が、あからさまに怪しげな忍
 び足ながら注意深く、梨華の背後にゆっくりとだが確実に忍び寄っ
 て来た。
 梨華が振り返らない事を入念に確認しつつ、亜依は梨華の丁度後方
 で歩を止め、低く腰を落として両の手を合わせ、左右の人差し指以
 外を握りこんで、予備動作を始動させた。
 乾坤一擲、梨華のふくよかな臀部を目掛け亜依の手が力強く突き上
 げられた。
 
 亜依は勝利を確信したような笑みを半ば浮かべ、計画完遂の時を迎
 えようとしていた。
 そこには先程まで対梨華という局面で見せていた控え目な少女の姿
 は無く、純粋にこれから起こるであろう出来事に瞳を輝かせた悪戯
 な少女の一面だけが、亜依の全てを支配していた。
 
240AB-LS:02/05/25 14:42 ID:MYP/xw8W
 
 しかしながら、亜依の完全なる計画は最後の最後で覆された。
 亜依の手が梨華の体に届く寸前、梨華は右脚を軸に時計周りに素早
 く体を反転させ、造作も無く亜依の手をキャッチし、さらに勢い亜
 依の脚を後ろから払い、その小さな体を宙に浮かばせた。
 相手が誰なのかは梨華には全て、それも足音を消して忍び寄ってき
 た時点でわかっていただけに、このまま硬いフローリングに激突さ
 せる気は無く、亜依の手をキャッチした逆の手をお尻のやや下のあ
 たりに滑り込ませた。
 亜依は未だ自分の身に起こった事象を咀嚼しきれてなくて、最初の
 歓びの表情・かわされた際の驚きの表情が入り交じったまま固まっ
 ている。
 その後の出来事については、ただ自分が宙を舞っている事だけは理
 解しているようだが、何故そうなったのか、そして自分が今どのよ
 うな角度でどれぐらいの高さにいるのかまで考える余裕はなかった。
 
 亜依はほんの僅かな間自然落下し、梨華の腕に無事収容された。
「悪戯しちゃダメでしょ!」
 梨華の生来のアニメ声のせいも多分にあるが、それ以上に実際に怒
 っているわけではない為、その言葉は構成される語句のみを見た字
 面の印象よりも、ずっと柔らかいものであった。
 そして、その表情も柔らかな笑顔であった。
 
241AB-LS:02/05/25 14:43 ID:MYP/xw8W
 
 亜依はまだ前後不覚の状態で、梨華の言葉にも全く反応できず、な
 すがままに梨華に床に脚を降ろされ、食器の準備を続けるように指
 示されたが、その場に突っ立っているだけだった。
 
 こちらの様子に気付いたのか、丁度鍋の仕込みが一段落ついた中澤
 がやってきて、茫然自失の亜依を確認する。
「やっぱりな。
 こうなると思っとったわ。
 だから、しょうもない事すんなて言うたのに。」
 半ば呆れ気味に言い放った。
 
「ちょっと…やり過ぎたでしょうか……」
 フリーズしたままの亜依を見て心配になったのか、梨華が不安そう
 に中澤に聞く。
 
「ああ、ええねん、ええねん。
 たまにはこういう事がないと、このあふぉは全然言う事聞かんから。
 ええお灸やわ。」
 梨華に気を遣っている様子ではなく、事も無げに言い放つ。
 そのまま今度は亜依の眼前に立ち、軽く両の頬を叩き、反応を確か
 める。
 ここで亜依は漸く我に返ったようで、一連の出来事についてはなん
 とか理解できたらしく、必死に何かを言わんとしているが、ただ口
 を魚のようにパクパクさせているだけで、声にならない。
242AB-LS:02/05/25 14:46 ID:MYP/xw8W
 
「はいはい、言いたい事は大体わかるから、何も言わんでええよ。
 後で飯食いながら、ちょっとずつ説明したるから。」
 
 亜依はまだ少し納得し切れないという表情をしていたが、食事の魔
 力もあったのだろうか、中澤に従い大人しく食事の席に着いた。
 
 梨華も中澤も、その奇妙な様子に堪え切れず、亜依に気付かれぬよ
 うに笑った。
 いや、中澤のそれは明らかに亜依に聞えていたように、梨華には思
 えたが…
 
 −−−
 
243AB-LS:02/05/25 14:47 ID:MYP/xw8W
 
 中澤が豪語するだけあって、鍋は素晴らしく美味しかった。
 正直半信半疑であった自分が恥かしくなる程のレベルだ。
 梨華が体感したその鍋の味には、実際には気の合う人と一緒に楽し
 く食べたから、という鍋独特の理由での上積みがあったのだが、梨
 華にはこの時そのような概念は無く、さらにそれを差し引いて単体
 として捉えても、このワンダフル水炊きとやらは抜群である。
 
 梨華がしつこいぐらいに絶賛する為、中澤はすっかり良い気分に浸
 っているが、亜依は楽しみにしていた食事の事なんかよりも、梨華
 の特異な能力の方に興味をシフトさせていて、止まらない梨華の水
 炊き讃辞と、それに対する中澤の蘊蓄話の間隙をついては疑問を投
 げかけてみたが、一向に取り合ってもらえず、ただ流されるだけだ
 った。
 
244AB-LS:02/05/25 14:47 ID:MYP/xw8W
 
 亜依のイライラは結局食事が終わるまで続いた。
 女3人でそんなに大量に食べられる訳が無い、と梨華に思わしめた
 食材は、きっちりと3人の胃袋の中に納められた。
 中澤が後片付けの為席を立つと、亜依はもう待ち切れないといった
 表情で梨華に詰め寄り、何故か梨華の膝の上に座り、マシンガンの
 ように質問を投げかけてくる。
 
 さすがに全てを正直には答えない方がいいと梨華は判断し、差し支
 えのない部分だけを上手くその他の部分とリンクさせながら説明し
 てあげた。
 亜依は常時興味津々といった表情で、この時だけは真剣に話を聞い
 ていたように思える。
 大体の説明を終えた後(と言っても、聞かれた事の半分以上は誤魔
 化したのだが)も、完全に懐いてしまったようで、亜依は梨華の傍
 を離れない。
 梨華にとっては可愛い妹が出来たような感覚であり、家族愛を渇望
 していた梨華にとっては、素直に嬉しいと思える事であった。
 
 しばらくの間梨華と遊んでいた亜依であったか、疲れ果てたのか徐
 々に瞼が下がり始め、梨華に寄りかかったままウツラウツラとする
 ようになった。
245AB-LS:02/05/25 14:48 ID:MYP/xw8W
 
 亜依の世話を梨華にお任せにしていた為、束の間の休息を満喫して
 いた中澤だったが、遂に寝始めた亜依を放置しておくわけにもいか
 ず、仕方ないなといった表情で重い腰を上げる。
「こらっ、アンタこんなとこで寝たらあかんで。
 寝るんやったら、ちゃんと部屋行って寝〜や。」
 
 亜依は眠い目を擦りながらなんとか身体を起こし、一言呟いた。
「…シャワー浴びてくる。」
 
 言うが早いか、そのままバスルームへと歩いていってしまった。
「ええ加減な子やけど、ああいうとこだけはきっちりしとるんや。
 風呂入らんと寝られへんらしいわ。」
 
「ホントに可愛い子ですね、亜依ちゃん。」
 亜依がいなくなり突如として静けさが増したせいか、梨華の声も今
 迄以上にはっきりと部屋中に届き渡る。
 そこに素直な感情しか存在しない事を感じ取った中澤は、少しいつ
 もよりトーンダウンした声で、やや俯き加減で話を切り出した。
 
246AB-LS:02/05/25 14:53 ID:MYP/xw8W
 
「そうやろ、石川やったらそう言ってくれると思てたわ。」
「別に気を遣っていってる訳じゃなくて、正直な感想ですよ。」
「ああ、それはわかっとる。
 ……でもな、みんながみんな、そう言ってくれるわけやないみたい
 でな……」
 中澤の声が一層暗さを増す。
 
「…今日、私を呼んだのもそれと関係あるって事ですよね?」
「……石川には、隠し事でけへんな。
 あの子な、学校で周りの子らと、なんちゅうか、その上手くいって
 へんみたいやねん。
 別にな、あからさまなイジメを受けとるわけやないみたいやねんけ
 ど、あ、みたいいうのは直接あの子に聞いたんやなくて、担任の先
 生からちょっと聞いた話やからやねんけど、つまり、なんや、無視
 いうんか、みんなに口聞いてもらわれへん、そんな状況らしいんや
 わ。」
 普段ハキハキと力強く喋る中澤が、この時だけはところどころ言葉
 が詰まり気味で、その口調は消え入りそうな程弱々しかったのが印
 象的だった。
 
247AB-LS:02/05/25 14:55 ID:MYP/xw8W
 
 梨華は瞳を閉じて、亜依の身に起きている惨劇について考えてみた
 が、その愛くるしい表情が苦しみに歪められるのは、想像するだけ
 でも耐え難いものであった。
「どうして、そんな事になってしまったんですか?
 まだ、会って数時間しか経ってないですけど、私には亜依ちゃんが
 そんな目に遭う原因が全く見つかりません。」
 梨華はあらためて亜依を初めて見てから今までの事を事細かに思い
 出してみたが、惹かれる点はあっても倦厭する点は見つからなかっ
 た。
 
「これが全部なんかどうかはわからんけど、言葉みたいやわ。
 あいつ、見事なまでの関西弁やろ?
 あれがどうも評判悪いみたいでな……」
 中澤自身が関西弁なせいなのか、より一層落胆の色が随所に見受け
 られ、悲愴感が増したように感じられる。
 
「私には、日本語の方言に対する偏見のようなものの知識は殆どあり
 ませんけど、亜依ちゃんがそんな仕打ちを受けるほど、大きな問題
 なんですか?
 もし、もしそうだとしても、私には納得できそうもないですけど。」
 梨華は既に亜依の苦しみを自らの苦しみのように感じ始めていた。
 
248AB-LS:02/05/25 14:55 ID:MYP/xw8W
 
「関西弁にガラ悪いイメージがあんのは否定せんけどな、ウチもそん
 なしょうもない事が原因やとは思いたないな。
 ホンマはウチが学校乗り込んで、片っ端からシメたろか思うんやけ
 ど、子供の事に大人が出てくんは、ええ事やないからな。
 そんなん何の解決にもなってへんし、そもそも加護自身が望んでへ
 んやろから。」
 中澤の瞳には薄っすら涙が浮かんでいるようにも思えるが、俯いた
 ままの態勢だったので、はっきりとは確認出来なかった。
 
「…それで、中澤さんは……私に何を期待してるんですか?」
「別にな、石川に今の状況を変えてもらおうとは思てへんよ。
 ただな、普通にあの子と仲良うして欲しかっただけなんや。
 あの子な、ホンマは凄くツラいんやと思うけど、ウチの前では全然
 そんな素振り見せへんのや。
 母親になったつもりで接してきたつもりやったけど、こんな大事な
 時にどうもしてやれへん自分が情けのうてな……。
 そんで、自分勝手もええとこやけど、ちょっとでもあの子の苦しみ
 を和らげられるんやったらと思って……」
 それ以上は声にならないようで、更に俯く首の角度がキツくなった
 ように見える。
 
249AB-LS:02/05/25 14:56 ID:MYP/xw8W
 
「私には亜依ちゃんが抱えている問題の本質を変える事は出来ないか
 もしれませんが、可愛い妹が出来たと、そう思ってます。
 これは中澤さんに頼まれたからとか、そういうの一切抜きにして、
 私自身が考えて出した結論です。
 勿論、今の話を聞いたからでもありません。」
 
 中澤は終始俯いていた顔を上げ、突如梨華を正視した。
 その表情には今迄の中澤には無い真剣さが溢れていた。
「十分理解してもらえたと思うけど、あの子は、加護はな、身内が言
 うのもナンやけど、ホンマにエエ子なんや。
 ホンマはなんかツラい事があったら相談してもらいたいんやけど、
 それもあの子なりに考えて、ウチに心配かけんとこって思てるから
 やと思うねん。
 子供やねんから、そんなしょうもない気遣わんでもええのにな。」
 
250AB-LS:02/05/25 15:03 ID:MYP/xw8W
 
「ええ、ちょっとの間でしたけど、それは私にも良くわかりました。
 頭の回転も速いし、憎めないとこのある、ホントに良い子だと思い
 ますよ。」
「なんか、あれやな。
 表向きは加護の為に石川に来てもろたって言うてるけど、ホンマは
 ウチがツラかったから、ウチが背負ってるモノを石川にシェアして
 もらう為に、呼んだんかもしれんな。
 スマンな、石川にはホンマに悪いと思っとるけど、それでも来ても
 らって良かったと思ってる。」
 ここまでは半信半疑だったが、中澤が涙を瞳に浮かべているのは最
 早疑いようも無く、そこまで自分を追い込んでしまう中澤もまた、
 亜依と同様に自分で何でも背負い込んでしまう人なんだなと、梨華
 は思った。
 
「私は、別に気にしてませんから。
 むしろ、亜依ちゃんや中澤さんの為に、私に何が出来るのかはわか
 りませんけど、とにかく何かお手伝いがしたいです。」
 しんみりした空気を払拭するべく、梨華は意図的にただでさえ高い
 声のトーンを更に上げて答えた。
 
251AB-LS:02/05/25 15:04 ID:MYP/xw8W
 
「ありがとお、あんたに相談してホンマに良かったわ。
 別に無理せんでええから、たまに遊びに来てくれるだけで十分やか
 ら、よろしく頼むわ。」
 中澤の表情に少し安堵の色が窺え、そしてそれは徐々にいつものニ
 ヒルな笑顔に変化していった。
 
 同時に部屋中を支配していた悲哀に満ちた空気が消え去り、再び緩
 やかな時間が流れ始める。
 バスルームから発せられていたシャワーの音が消え、亜依がもうす
 ぐ出てくる事が予想された。
 
「亜依ちゃんがシャワーから戻ったら、私も帰りますね。」
 ふと梨華は随分と長居してしまった事に気付いた。
 
252AB-LS:02/05/25 15:05 ID:MYP/xw8W
 
「なんやったら泊まっていってもええんやで?」
「いえ、そこまでしていただくのは申し訳ないので。
 それに、中澤さんは明日もお仕事でしょうし、私も身体に染み付い
 た嫌な習慣なんですけど、寝る時は少しでも慣れた場所の方が安心
 出来るみたいなんです。
 たとえそれが1日の差であっても。」
 魅力的な提案ではあったが、今日始めて会った人にそこまで甘える
 わけにはいかない、という梨華のMYルールというか、倫理観のよ
 うなものが働き、本能的に危機回避の計算も行ったのか、やはり自
 分の部屋で就寝するのがベターだと判断した。
 
「そうか、まあ無理強いするのもナンやから、石川がそう言うんやっ
 たらしゃあないな。
 じゃあ、加護が出てきたら車で送っていくわ。」
「すいません。」
「ええって、別に気にせんでも。
 それより、石川は免許は持ってんのか?」
「あ、はい。
 車もバイクも大抵の車種は運転できますし、勿論、国際免許です。」
「なんとなくそんな気はしたけど……ウチより凄いな。
 今後車なりバイクなりが無いと不便やろうから、もし石川さえ良か
 ったら、事務所で車手配するけど、どや?」
「す、凄くありがたいんですけど、さすがにそこまでしていただくの
 は悪いような気が……」
「気にせんでもええんやって。
 仕事の関係でな、車もバイクも新車やないけどほとんど無料同然の
 値段で仕入れるルートとかあるんや。
 今でも事務所所有で浮いてる車両が何台かあるし、所長としては石
 川には車ぐらい持っててもらわな困るぐらいの気持ちやからな。
 なんやったら、石川の家の近くで駐車場も手配するで。」
253AB-LS:02/05/25 15:06 ID:MYP/xw8W
 
「ええっと…でもやっぱり……」
 それでも決断しかねていた梨華だったが、その言葉を遮るように中
 澤が畳み掛ける。
「どうせやから、車も駐車場も纏めて任せときって。
 別にウチもウチの事務所も懐はちっとも痛まんし。
 て言うか、むしろそれで石川の仕事がしやすくなったら、益々ボロ
 儲けモードが…くっくっく、こら笑い止まらんなあ。」
 
「……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「裕ちゃんに任しとき。
 明日事務所行ったら早速手配しとくから、多分明日の夕方か明後日
 の朝にはなんとかなると思うわ。
 あ、車種とかスペックに関してなんかリクエストあるか?」
「車種は、異常に大きいとか目立ち過ぎるとか以外なら、別に何でも
 結構です。
 あとは、可能な範囲でいいんですけど、オートマチックは出来れば
 避けたいのと、パワーはあればある程いいですね。
 ハンドルの重さなんかはなんとでもなりますから別に拘りはありま
 せん。
 あと、サスペンションはやはり柔らかい方がいいですね。」
「ふんふん、ま大体そんなもんか、意外と普通やな。
 って、誰に聞いても大概一緒になるか。
 大丈夫、事務所で使てるのは車種はバラバラやけど、スペックだけ
 はどれも一流やから、なんとかなる思うわ。」
254AB-LS:02/05/25 15:10 ID:MYP/xw8W
 
 そこに、眠い目を擦りながら、亜依がバスルームから出てきた。
 赤いチェック柄の、身の丈よりも幾分大き目のサイズのパジャマに
 身を包み、もう眠る事しか考えていないのか、髪を乾かした様子も
 なく、表情もどこかぼやけていた。
「ウチ、もう寝るわ。」
 心なしか声からも眠気が伝わってくる。
 
「わかった。
 ウチは今から石川を家まで送ってくるから。」
「ええ〜、梨華ちゃん泊まっていかへんの?」
「梨華ちゃんてあんた、ちょっと油断してるうちにエラい馴れ馴れし
 くなったんやな。
 石川にも色々と事情があるんやから、それぐらいはわかるやろ?」
 亜依は完全には納得し切れないといった様子だったが、だからと言
 って筋の通らない我侭を言う事もなかった。
 
 その様子が梨華の目には堪らなく寂しげに映り、救いの手を差し伸
 べずにはいられなかった。
「また今度遊びに来させてもらうから。
 そうだ、今度は亜依ちゃんを私の部屋に招待するよ。」
「ホンマに?」
 亜依の瞳の輝きが突如として戻った。
 
255AB-LS:02/05/25 15:10 ID:MYP/xw8W
 
「ウン、だからまたいつでも一緒に遊べるよ。
 あ、でも私の部屋は別に何にもないんだけど……。
 それなら、どこかに一緒に遊びに行く方がいいかなあ。」
「じゃあ、じゃあ、ディズニーランド行こっ!」
「ディズニーランドかあ、私も行った事無いし、いいよ。
 じゃあ、今度一緒に行こうね。」
「いつ、いつ行く?」
「あ、ええっとぉ、私は明日から1週間は特にやる事もないから、亜
 依ちゃんさえ暇だったら、別にいつでもいいよ。」
「今度の土曜日は?」
「大丈夫だよ。」
「じゃあ、決定!」
 亜依は先程までの眠気が吹き飛んだかのように、小躍りして喜んで
 いる。
 
 既に時間も遅かった為、とりあえず詳細は後程決める事にして、携
 帯番号だけを交換して、梨華は帰宅の途に就いた。
 亜依の喜ぶ顔だけが、妙に印象的で、中澤から聞いたネガティヴな
 話についても、この時だけは頭から離れ、ただただ幸せに満ちた不
 思議な気分を満喫できた。
 
 そして、梨華にとっては、本当にこの時が今後しばらくの生活の中
 で、最も幸せな瞬間だったのかもしれなかった。
 
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