22 :
AB-LS:
1999年 エルサレム イスラエル
「梨〜華〜ちゃん、梨華ちゃんってばぁ!」
自分の名を呼ぶ、聞き慣れた低目の甘い声で、梨華は現実に引き戻
された。
見慣れた殺風景な内装の部屋、いつも通りの人懐っこい笑顔で話し
掛けてくる友。
何年も繰り返されるありふれた光景なのだが、決して飽きる事はな
く、その都度新鮮で楽しく大切な時間を過ごしているような気持ち
を味わう事が出来た。
23 :
AB-LS:02/02/16 22:28 ID:EXajCZOe
エルサレム某所にあるモサドの秘密施設。
梨華は物心付いた頃から、ここでエージェントとしての英才教育を
受けていた。
彼女には両親の記憶は一切無く、親と呼ぶには少し年配のユダヤ人
夫妻の手によって育てられた。
夫はイスラエルの誇る対外情報機関モサドに所属しており、腕利き
の諜報員としてその名を馳せる程の人物であった。
そして、妻もまたモサドの所属しており、今でこそ第一線からは身
を引いてはいるが、やはり一度はその名を轟かせた女性諜報員であ
った。
梨華に対して親としての愛情を一定量は注いだ夫妻であったが、他
の多数のユダヤ人と同じように、それを遥かに凌駕する民族愛・愛
国心をその心中に漲らせていた。
自らの所属する組織で極秘裏に進められていた、諜報員養成の秘密
プログラム。
夫妻が梨華の名を所属者リストに刻むのは、至極当然の流れだった
のかもしれない。
言語・国際情勢・情報収集方法・暗号・武術・武器の扱い方、数え
上げれば暇が無いほど、ありとあらゆる事を、梨華はその小さな身
体に否応無しに叩き込まれた。
幼い梨華にとって、それは受け入れ可能な限界値を超過していた事
は疑いようも無く、それでも外部から流入し続ける、侵食性の強い
情報から己を防衛する為、自ら人間的な部分の感情を閉ざすように
なるまで、そう時間はかからなかった。
24 :
AB-LS:02/02/16 22:32 ID:EXajCZOe
夫妻と過ごす時間は、几帳面なまでに正確な一定間隔で手配されて
いたが、これまでに構築された関係はある時にはほぼ終着点を迎え
ており、それ以上の前進も後退も発生し得ない事はお互いが認識し
ていたようだ。
もっとも、母親はエージェント養成プログラムの武術指導担当員を
務めていたので、あくまで訓練という名目ではあるが、ほぼ毎日顔
を合わせていたのだが。
それでも、元々にして生みの親の記憶の無い梨華は、子宝に恵まれ
なかった夫妻を本当の親と思って生活してきた。
おそらく梨華の側から夫妻に向いた愛情という名のベクトルは、夫
妻の側から梨華に向くそれよりも、値が大きかったようで、定期的
に訪れる家族との時間は、梨華にとって比較的心が和む一時であっ
た。
25 :
AB-LS:02/02/16 22:33 ID:EXajCZOe
夫妻と血のつながりが無い事は勿論わかってはいたが、梨華にとっ
ては、血や民族の違いが、夫妻との関係を必要以上に稀薄ならしめ
るファクターにはならなかった。
『パレスチナ組織のテロ行為に巻き込まれ、梨華が幼い頃に亡くな
った。』
いつだったかに聞かされた、飾り気の無い簡易な説明。
生みの親に関して梨華が保有している情報は、ほぼこの一言に集約
されていた。
その後、死んだ両親と親交の深かったユダヤ人夫妻が梨華を引き取
る形となったのだ。
モサドの腕利きエージェントと親交のある人間、或いは梨華の両親
も同じ仕事を生業としていたのかもしれないが、それに関しては夫
妻が語る事はなかった。
ただ、かつて武術(合気)の訓練中に育ての母がこう言った事があ
った。
「さすがに上達が早いわね梨華。やっぱりこれも血の成せる業かしら。
あなたの母親は日本でも指折りの使い手だったようだから。」
スポンジが水を吸収するかのごとく、教えた事を悉く、いや教えた
以上の事を身に付けていく梨華に感心する余り、うっかり漏らして
しまったのだろうか。
いずれにしても、母が合気の達人クラスの使い手であった事は間違
いなく、それはモサドと関わりのある人間であった可能性も高い事
を示唆している。
だが、それ以上の情報を望む気持ちは当時の梨華には湧いてこなか
った。
両親の事について、夫妻に対して梨華の側から能動的に尋ねる事は
なかった。
26 :
AB-LS:02/02/16 22:33 ID:EXajCZOe
日々連綿と続けられる訓練漬けの毎日に埋没するように、徐々にで
はあるが、確実に梨華の精神は蝕まれていった。
破綻という名の終着点への一本道、誰もが予想し得る明白な負の結
論を払拭したのは、梨華と境遇を近しくして、唯一の“友人”(梨
華にとってはそのような使い古された陳腐な言葉で表現出来る存在
ではなかったが)といえる訓練生、吉澤ひとみの存在であった。