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その後に沸き上がった空気、あれは果たして、事件と呼べるものなのか。
次の日になると2人は、まるで何ごともなかったように仲良くしていましたし、私も敢えて
追求をしなかったので、今回の事がその後の私達にどういった作用を実際にもたらしたの
か、私は結局、知る事ができませんでした。
テレビを点けた加護ちゃんはもともと、前回選択されたまま設定が残っていたチャンネル
を、しばらく眺めていました。
その時放送されていたのは、他愛のない、でも割りと人気のあるバラエティ番組のひとつ
です。
なんとはなしに見入ってしまった番組でしたが、その意図にのせられ、私も真希ちゃんも
ひとみちゃんも、小さく吹き出したりしていたんです。
やがて5分程たった頃、次の展開を期待させて、番組はコマーシャルを挟みました。
すると加護ちゃんは当たり前に、(って言うよりまるで何かに憑かれたみたいに)、他の
面白い番組をパチパチと探し始めています。手の中あるリモコンはずっと、握りっぱなしで
いたようでした。
私達が4人でいる時、チャンネルの主導権はたいがい加護ちゃんに集中していて、それが
日常の流れでした。特に見たいモノでもなければ、誰も何も言わない‥、って、言うより、
気難しい末っ子さんの可愛いワガママとして、むしろ好意をもって、迎えられていたんです。
ひとみちゃんも真希ちゃんも、その時の番組にはこれといった未練がないようでした。
2人はすでに顔を見合わせ、ちょっとした談笑を始めています。
時間帯の関係かコマーシャルの局が多く、加護ちゃんのチャンネル選びには、しばらく時間
がかかっていました。
だから私も、真希ちゃんとひとみちゃんの会話の輪に、とりあえず入ろうとしていたんです。
『許さない方がいい、』
冷静ですが、断定的で、鋭い口調が耳に入って、私は画面を向き直りました。
『やはりあの集団は解散、少なくとも教祖を改心させるべきだ。心ある媒体がこれだけ
糾弾をしている状況だと言うのにですよ、彼女は未だ、露出を続けている訳です。なんら
反省もなく。まず憂慮すべきは、安易な人気取りで彼女を持ち上げるメディアが、いまだ
多く存在すると言うことです。また彼女ものうのうと顔を出すんだ‥、未来が不安ですよ。』
出た。
と、私は率直に思いました。
ひとみちゃんの表現を借りるところの、いわゆる、『鼻の下の溝』の、人。彼は最近本当
にこまめに、いろいろな番組へ出演していたから、こんな、真希ちゃんのいる状況で彼の
論調を聞くような日が、いつかきっと来るんだろうな、と、少しは私なりにも気構えていた
たりもしたんです。
芸能評論家(自称です)は、真希ちゃんへの呪詛ともとれる発言を、ひたすら続けていて
いました。
固まった-----私が個人的に、そう感じた、空気。けれどやっぱり、それを破って
ゆける力を、無邪気で純粋な強さのような物を、私は持っていませんでした。一度ひとみ
ちゃんが、私のことを『強い』って言ってくれた事があって、その時は嬉しくて『そうかな』
なんて気軽に笑っていたけど‥。
でもやっぱり、弱い。
加護ちゃん早くチャンネル変えてよ、って、私はひたすら願っていました。けれど、彼女は
いっこうに、まわすそぶりを見せません。
ひとみちゃんに負けないくらい、加護ちゃんは真希ちゃんを真剣に愛していて、そして、
すごく憧れているんだろうなっていうのは、普段の様子から私にも解っていた事です。
画面に見入る加護ちゃんの感情は、私が座っていた位置から、わずかな角度の横顔でしか
窺うことができませんでした。何かを推して計るにはその条件が足りな過ぎたし、実際
いつもの加護ちゃんの様子と、そう変わらないようにも見えました。
「真希ちゃんがさあ、」
おもむろに、呟くようにそう言ったのは、ひとみちゃんでした。
意外に冷静な声が、救世主だと確かに感じられて、私は期待をこめた視線をひとみちゃん
へと向けました。
いつも偉いひとみちゃんの第一声のおかげで、なんとなく場の雰囲気がフッとゆるんだ気が
したんです。
けれど。
違いました。振り向いた私はひとみちゃんの表情を見て、そのカンが間違いだった事に、
すぐ気が付きました。冷静さを必要以上に、全面へ、押し出そうとしている感じ‥。
だいたいにおいてひとみちゃんはとても穏やかでしたが、ごくたまに、こういうカオをする
時がありました。
「今けっこう暇そうに家にいたりしてるのって、例えば、こういう叩きとかに、関係あるって
感じなワケ? ちょっとさあ、聞きたいんだけど。」
「ん〜。まあそれもある、ちょっとは。 なんてネ!」
細心の注意を払って、気をつかって、重くならない言いまわしを選んでいながら、ワザと
つっけんどんで、冷たい言い方をして見せるのは。
矢口さんを意識して、ちょっとみならっているような。
真剣で、その言葉の裏に悲壮なくらいの覚悟を、じつは秘めてひとみちゃんが投げかけたのは、
彼女なりの渾身な問いかけだったのですが、真希ちゃんは全く気が付かないのか、ニコニコと
笑って答えました。
いつものように、もしかしたらそれ以上に明るくあっさりした物言いだったので、真希ちゃん
の真意がこのときいったいどこにあるのか、私には判断がつきませんでした。
2人の間にある決定的な温度の違いをひとみちゃんは軽く受け流せるほど割り切った考え方
をしていません。もっとウェットで、ナイーブでした。
矢口さんを見習っていても、彼女のような洗練されたスマートさをじっさい手に入れるまで、
まだ少し時間とか、経験などがひつようなのです。ひとみちゃん本人もそれをよく解っている
はずだったけれど、もしかしたらここへ来て、一人で気に病んでいたのかもしれません。
ひとみちゃんはしばらく反応を返さず、真希ちゃんをぼんやりと見つめていました。
そしてやがて我にかえって、画面を見つめ直します。まるで覚醒した暗い目を、悪魔から
いったん反らすみたいにして。
私の目から見ても、あの時の絢爛な居間での光景は少し、異常な感じがしました。
前方に座る加護ちゃんは、微動だにせず、食い入るように画面を見つめています。
きつく腕を組んだひとみちゃんは、高く立てた膝でそれを覆い隠すように縮こまって座って、
神経質な、鬱屈した表情をしている。
テレビの中の男は、声が既に張り裂けんばかりでした。
私の後方の位置からは真希ちゃんの笑い声が、「アハアハ」と、絶えまなく聞こえている
のです。
とにかく我々はG教、なかでも後藤真希の存在が平然と罷り通る世の中を、なんとか
改善しなければいけない。腐っているんだ!存在が、根本的に!
あからさまな悪意で執拗に罵倒され、その存在を、全て否定されているも同然な言葉
なのに、真希ちゃんがそれを聞いてこんなに笑っているのは、経歴から来る余裕や自信の
果たしてあらわれなのでしょうか?
私はなんだかすごくタブーな気がして、真希ちゃんを見れませんでした。
『皆さんが一体どういう見解をお持ちになってるか知らんが、売春、薬物、詐欺!
彼女は必ず、尻尾を出しますよ!いつか、近いうちに必ず!実際もう、ちょっとずつ
見せて来ているんじゃないんですか!?僕はそう思いますね!』
着席した机を叩いて、男は口上を終えました。
いつの間にか番組が終わりに近付いているのか、ディスカッションに参加していた
数人の出演者たちの中から、年長者の俳優が意見を求められて、もっともらしく、
そして公平なコメントをしています。
私が時計を見上げると、2本の針は確かにそういった時刻を示していて、
『後藤真希さんッ、見て居ますかッ?私は君の反論が是非とも聞きたいッ!』
と、司会者の、誠実そうに溜めた言葉を最後に、番組は締められエンドロールが
流れました。
画面にまたコマーシャルが流れ始めたころになって、ひとみちゃんは今度は、吐き
捨てるように言いました。
「反論すればいいじゃん。」
口調には険があり、不快さを、もう隠そうとしていません。真希ちゃんの笑い声は
すでにその時止んでいましたが、でも彼女の顔には笑いのなごりのようなモノが
まだ充分に残っていました。
少しきょとんとして。
「‥なんで?」
「マゾですか?あんなに言われて平気なの?おかしい。真希ちゃんが何も言わないから
アイツら調子にのるんでしょう!?」
「よっすぃー。」
ひとみちゃんはその激しい憤りのせいで、顔の色を反対に失くしています。
対する真希ちゃんは苦笑していて、やさしい声音でひとまず、なだめようとしました。
「相手にするだけ、無駄なんだよ? てかヨッスィ〜知ってんでショ?わかってて
ブリッ子してんなよ? きゅ〜ん?」
途中から剽軽な、いつもの調子に真希ちゃんが戻ると、ひとみちゃんは、また黙った。
けれどこの噛み合わせてもらえない状態に、ひとみちゃんがずいぶん苛立っているのは、
一目瞭然だったんです。
真希ちゃんだってそんなひとみちゃんの心理を、本当は解っているはずなのに。て、言うか、
わかっていなかったらちょっとおかしいと思います。
背後で起こっている事態に、一体気付いているのかどうか、加護ちゃんは一度もこちら
を振り返らず、次の番組を見始めています。
居間にある、大きいけれど一枚板のテーブルに、私達4人は、着いていました。
ニコニコとあくまで罪のない顔で真希ちゃんが笑っていて、その正面のひとみちゃんは
激昂で唇を震わせている。
加護ちゃんはそれを完全無視。そういう密室だったんです。
私はでも、その雰囲気を無理に立て直そうと思いませんでした。
ひとみちゃんの言うことは全然間違っていないと思うし、かといって真希ちゃんの
----- 挙動はともかく、言葉は現実の正当性に、みちあふれているんです。
この衝突の行き着く先、それを最後まで見続ける事が、ここで私に与えられた最大の役目
だと思いました。2人は妥協することなくもっと仲を深めて欲しい、と、思ったのは、
ひとみちゃんを思う親心なのでしょうか。
万が一決裂したとしても、それはそれで私達のさだめで、仕方がないなと思っていました。
「あのねー、ヤなんだよね。あんだけボロクソ言われて、それをヘラヘラ笑って見てる
アンタが。具合悪くなる。そのうち皆信じちゃうよ?いろいろ叩かれて書かれてる事。」
「だっていいもんそんなの。なに言ってんの?有名税だってば。ん、有名って、自分で
言っちゃッた。ワハハ。」
ひとみちゃんが体制を立て直してもう一度議論を再開しても、真希ちゃんは決して土俵
に上がらず、受け流しているばかりでした。真希ちゃんにとってひとみちゃんは、やっぱり
本気を出す相手では、ないのかも知れませんでした。
少なくともこの時点では、ひとみちゃんが一方的に、振り回されていました。
それでも、食い下がること30分。
そして。
「私、知ってるんだよ。」
とうとうかなわないと思ったのか、ひとみちゃんが弱々しく呟くと、真希ちゃんはとても
楽しそうに、ひときわ大きく笑いました。
「も〜〜〜、なにを?ワタシの何をよっすぃ〜が知ってるの? ありえね〜〜!」
ひとみちゃんは首を振って。
「違う‥、そういう訳じゃ、ないけど‥、」
「じゃあナニ?」
真希ちゃんは目を細めて、笑顔のままで尋ねました。
「ここに来る前、バーで、働いていたんだけど‥。」
ひとみちゃんの言葉と同時に私も頷いたりしました。
ひとみちゃんがこれから言う事、私にはもう、だいたいわかっていた。
(言っても、どうにもならないと思うけど、それでも言いたいなら、言えばいいと思うよ。)
そう考えていました。
「うん、知ってるよ‥。」
いつのまにか真希ちゃんは、どこか労うような、優しげな表情になっています。まるで聞く
姿勢を積極的に示すように。
「そこにはさあ‥、」
「うん。」
「マリファナ吸ってる人が、たくさんいたんだ‥。」
「‥それで?」
やさしくて、あたたかな声。真希ちゃんは続きを、待ち望んでいました。
「それにもっと、ツヨいのをやっているヒトもいたよ‥。だから知ってるんだ‥。ああいう
のを長く使い続けて‥、そのヒトたちが最期に、どうなってしまうのか‥。」
ちょうど一瞬だけ舞い降りた、真希ちゃんは幸福を自覚したみたいに。
ひとみちゃんが言葉を区切ると、微かに、でも本当に、やわらかく笑ったのです。
けれど。
「で、なんの関係があるんだろ、ソレ。ワタシと?」
それはすぐに消えてしまった。ひとみちゃんはあの顔を、きちんと見れたのでしょうか?
言いにくそうに目を伏せていたから、やっぱり無理だったのかな‥。
ひとみちゃんは、続けました。
「だから、週刊誌とかに、書かれているコト‥、あの評論家が言っているコト‥。」
「クスリ‥、やめなよ。」
「ぶ〜〜〜〜ッッ!なんだそりゃ〜〜〜〜!!??」
すると、真希ちゃんはおおげさにおどけて、ひっくり返ってみせたんです。
「なにソレ?なに言ってんの?ヤメテヨね〜〜〜。」
でもひとみちゃんは、ちっとも笑わない。
「腕を見ればわかるよ‥。もう、そういうのも、やめよう。真面目に、答えて欲しいよ。」
真希ちゃんは本当におかしくてたまらないみたいで、目の涙を拭っています。
「あーもう。コレの事でしょ?もしかして?」
そうして真希ちゃんは軽々とソデを捲りあげ、私達へと突き出しました。至近距離で見た
痛々しい腕に、私は思わず、息を殺した‥。
「あたし、こないだ病気してさー。だから点滴なんだってコレ。病院で、辛かったよ。
注射なんてキライだもん。小っちゃいトキからず〜っと!ほんとカンベンしてよね〜。」
って、また笑いはじめたけど、ひとみちゃんはやっぱり、かたくなに黙ってしまって
いるのです。
2人がこれ以上続けるコトに、もう私は、意義を見出せませんでした。あの腕は確かに
疑わしいし、真希ちゃんを思うひとみちゃんの気持ちもわかる。でも現場を見たわけでは
ないから、もしかしたら本当は、真希ちゃんの言う通りかもわかりません。アヤしいケド。
でも、コトの真偽はともかく、真希ちゃんのような立場の人に私達が本当に意見をすること
などできないのかも知れないし、そもそもひとみちゃんの頭に、こんなに血が上ってしまっ
ては、望んだようなよい成果など、得られるはずないと思いました。
(そろそろ仲裁なんかに、入ってみた方がいいのかしら‥?)
上手くおさめる自信なんて、毛頭なかった。けれど。
それでも私なりになんとかやってみようと、思い立った時でした。
真希ちゃんの素直そうな笑顔が、いつもと変わっていた訳ではありません。
口調だってやわらかだったし、どちらかと言えばのんびりしていた‥。
なのにそのときの一連の動作は、支配者たる誇らしげな威厳と風格を、何重にも
纏わせていたのです。
オイオイよっすぃ〜。信じるべきはアタシ?それともアイツら?どっちなんだよ、ん?
ゆっくりと身を乗り出して真希ちゃんが掴んだのは、目の前に座ったひとみちゃんの胸ぐら。
引き寄せる腕はむき出しでちからづよく。
「とりあえずマキちゃんて、呼ぶのやめるトコから始めな。」
ぶつかるくらいに顔を近付けた真希ちゃんはさらにそう言ってから、ゆっくりと手を離し
ました。ひとみちゃんは迫力にのまれ、瞬きを忘れているようでした。それでも肯定も否定
もせずに、ただ緊張していました。
「は〜いよっすぃ、じゃ、仲直りしよ? ね?ここにチューして。チュッて。」
突然、真希ちゃんがそう言ったから、更に私は呆気にとられて。
かわいくって、甘えた声。
一瞬、出遅れてしまったから、止めるのがぎりぎり間に合わなかったんです。
「それはダメ!」
って思った時、ひとみちゃんの唇は、もう真希ちゃんのバラ色の頬へ‥。
悲しいね‥。
ちょっとひとみちゃん!何つられてんのよ!
って、私がムッツリしていると、真希ちゃんは今度はなんと、私のほっぺにキスをしました。
「これでだいたいOKじゃない? 梨華ちゃんも、ありがとうね。」
ほとんど口を挟まずに、じっと2人を見守っていた私への、それは真希ちゃんの気持ちなので
しょうか。
クチビルのカンショクはやわらかかったけれど、それどころじゃない気が、もの凄くする。
これで決着して良いのか。
わかりませんでした。
一連のできごとは真希ちゃんのペースで進んでいたし、最期にはひとみちゃんもやり込め
られたカンジだけど、どうかな‥。正確には‥。
そういう事を考えていた時、加護ちゃんがいまさら振り返りました。本当に興味がなさ
そうでしたが、眉間に皺を寄せていました。
「ジョニーがウンコなんが悪いんやで。」
加護ちゃんが顔をしかめている時、それが必ずしも不機嫌を指しているとは限りません。
そんなトリックスターは、またひとつ謎めいた言葉を残し、立ち上がって、部屋を出て
いってしまった。
「じょにーちゃんはウンコじゃないよ〜!何度言ったらわかるのよ? ちょっと加護!!
訂正してゆけ!」
と、言った真希ちゃんの叫び声が、ウサギみたいな加護ちゃんの後ろ姿を廊下のほうまで
追い掛けましたが、でもやっぱり無駄でした。