「お腹空いちゃった。なんか食べない?」
そう言って矢口さんはメニューに手を伸ばした。その、なかなか泣き止まない
友達をなんとかなだめて矢口さんはいったん家に戻り、そして、着替える間も
なく車と荷物を持って、ここまで来たそうだ。
‥と、いうことは。
「矢口さん、ここまでひとりで来たんですか?」
この店まで矢口さんは、運転を誰かに頼んだのだと私は思っていた。または
あらかじめヒトに頼んで、車(と荷物)だけ先にこの辺りまで運んでもらって
いたとか。今までの矢口さんのやり方からして、てっきり。
「そうだよ。フフ。」
矢口さんの目に俄な輝きが宿った。
「言ってなかったよねそういえば。ヤグチも取ったの。免許。」
「嘘、スゴーイ!!」
ぱちぱちと梨華が手を叩く。
「ホントですか!?早くな〜い!?」
「うん。まあね。なんていうか、花嫁修行の一貫? あ〜んなんか照れるケド。」
運転、なんかワタシ、置いてかれちゃったカンジだなー。
そう呟いた梨華はそれでも自分の事のように微笑んでいる。
「花嫁修行って、他にはどんなコトしてるんですか?」
続けてそれも楽しそうに聞いて、そっちにも興味があるみたいだ。はしゃいで瞳を
輝かせた梨華をあからさまに焦らすように、矢口さんは息をゆっくり吸って答えた。
「聞きたい?」
「聞きたい聞きたーい!」
「お茶、お料理、お花、免許。それから作法。‥それと、避妊。育児、授乳。四十八手。
‥ プッ、その顔!!」
矢口さんの冗談に梨華は顔を赤らめていた。ということはつまり知っている
ということだ。破廉恥。
うまくやりこめられたかたちの梨華にそ知らぬ振りをして(けれど本当はすごく
得意げに意識して)、矢口さんはメニューを眺めていた。ここに来るまで私は
気持ちが張り詰めていたから、食欲などはどこか頭の隅の方へと押しやられて
いたのだけれども、無事、矢口さんに会って緊張もだいぶほどけて来た頃から、
じつは空腹を感じ出していた。矢口さんと同じで、梨華も私も、夕食をまだとっ
ていない。けれど、それでも何かを頼もうと自発的にしなかったのは、先程羅列
された数々の習い事に加え、勉強でもそれなりに成績を取らなければいけない、
忙しい矢口さんの身を案じての事だ。
「矢口さん。これから、時間あるんですか?」
だから気を使って、メニューに目を落とす飄々とした矢口さんに訪ねると、
「うーん、そんなにはナイ。でも食事ぐらいしようよ?」
と、肩をすくめ、なんだかくすぐったそうな笑顔と返事が、矢口さんからかえっ
て来たのだ。
チキンとサラダと揚げたじゃがいもを私達はそれから頼んだ。空気の良くない
店内は更に客数が増えている。料理を運んで来たウェイターがあの頃の私に
よく似ている。と、粗い喧噪を聞き分けながら私は思っていた。暗いフロアを
颯爽と横切り、乱暴でもなく、そして丁寧でもない、良くなれた手付きで目の
前に皿を置いてゆく。
「カッコいいですか?」
と、聞いたのは梨華。大味で量が多いアメリカン料理を真剣にそしてもぐもぐと、
私達がおおかた、食べ終えようとする頃だった。私達は食べるのに集中して
いたし、それでなくても梨華はあの後、発言を控えている感さえあったのだけれど。
「え、なんのハナシ?」
「 ン? だ・か・ら。矢口さんの婚約者。」
先程の失敗(?)にもめげず、再び反旗を翻した梨華は、テーブルに両肘をついた。
そしてそのまま、ニコニコと矢口さんを見つめている。無邪気なのか、計算なのか。
私にはわからなかったけれど、そんな梨華の姿はとても好ましいと思った。
「どんな人なんですか〜?気になる〜。ね、ひとみちゃん。」
「ウン。」
(梨華と私は‥、結婚なんて出来ないんだろうなー。どう考えても。)
そんな事を考えつつ。
(というか、人並みのシアワセなんて、ウチらにはもったいないっすよ。)
「べつにいい!ってゆうかけっこう幸せ!」
脈絡も気にせず、思わず口に出してしまう。
私達のそんなやりとりを、すました笑顔で矢口さんは見ていた。且つそのすました
笑顔の矢口さんを、ひそかに私が見守っていた。
(どんな人と、結婚するのかな‥。)
今では私の一番の興味も、そこへ移っている。何故、結婚をするのか、と、いう
ことについてはきっと私にはわからない、矢口家の由緒正しき事情のような
ものがおそらくあるのだろうと、すでに納得している。
本当のことをいうと私は、こんな質問を矢口さんはいつもの声で笑い飛ばすだ
ろうと考えていた。こういった一歩踏み込んだ質問に、矢口さんはこれまで、
答えた事がなかったから。
けれども違った。矢口さんはきちんと答えた。
「かっこいいよ?頭いいのに、けっこうワイルドでね? あと、すごい優しい。」
(特有の視線は混乱を促す。意地悪で可愛くて、スマートで瀟洒な。)
店を出る直前、店内の雰囲気にすっかり慣れた梨華は、一度手洗いへ立った。
店は一応IDをチェックしているし、なにより矢口さんが安全と何度も太鼓判を
押した。いくら安全とはいえ通路の奥までひとりで行かせるのはやっぱり少し
心配だったけれども、矢口さんと2人きりになったこの機会を利用して、私は
矢口さんに、ひとつ頼みごとをした。
「あの、クスリが欲しいんです‥、使ってみたいんです‥、一度。」
「ハァ?」
あの時矢口さんの顔には、一瞬だったけれど、明らかな蔑みの表情が浮かんだ。
考えてみれば矢口さんにあんなふうに見られたのは最初で最後だった。間違いなく。
「ちょっと待って、なんで?」
それでも一応は理解してくれようとして、笑顔を作って、諭すように。
「はっきり言って、くだらないよ?カッコわるいし。」
「お願いです。こんな事はこれっきりです。」
「あれ、矢口さんは?」
なにくわぬ顔をして無事戻って来た梨華は席に矢口さんがいないことに気がつき
不思議そうに尋ねた。
「ん、トイレ行った。会わなかった?」
私はシラを切る。そのついでに、隣に手を伸ばして、梨華の椅子を引いてあげる。
「うん‥。会わなかった、けど。」
すぐに矢口さんは帰って来て、また席についた。表情はいつもと同じだったし何も
知らない梨華は気がつかなかったと思うけれど、そんな無表情の仮面の下で矢口さん
が苛立っている事が私にはわかった。
「おまたせ。」
梨華に向けて笑顔をつくりながら、矢口さんはテーブルの下で小さなプラスチック
バッグを私によこす。
梨華には、黙っているつもり。
「ひとつ、聞いてもいい?よっすぃ達今、一体どこで暮らしてるの?」
店を出て車を停めてあるという近くの立体駐車場へ私達は向かっていた。暗い通りを
先導し、先に立って歩いていた矢口さんが視線を前に向けたまま聞いた。
うーん‥、ひとみちゃん‥?
そういった感じで梨華が私を覗きこんでくる。居場所を言うか言わないか、判断を私に
まかせるつもりだ。
「G教です。」
ことのほかあっさりと私が言ったので、梨華は少し驚いていた。矢口さんの表情は
影になって見えない。
「そっか。じゃあ、安全なんだね‥。警察も、入って来れない‥。」
「ハイ。」
「でも気をつけて。いろんな噂を聞く‥。テレビとかだけじゃなく、実際に、元信者
のコとか‥。うつろな目で、そのへん彷徨してるよ‥。」
「わかって、ます。」
駐車場は無人だった。暗い裏通りにそのうす緑色のライトが寒々しく際だっていた。
無音の音を辿っていると遠くでクラクションが鳴った。ぼやけている空には星がいく
つか。三回建ての駐車場の天井のない最上部に、見慣れた赤い四駆はポツリと停まっ
ている。
そこから私達は飛び出し、明るい方、つまり駅を目指しアクセルを踏んだ。駅で矢口
さんを降ろす為に。
本当は、
「家まで送って行きますよ?」
と、何度も誘ったのだけれど
「いいって。無事に帰らなきゃいけないんだから、遠回りなんかすんなよ。ホントなら
ヤグチが送ってってあげたいぐらい。」
と、矢口さんは頑に断る。
「本当にいいんですか?ウチら平気ですよ?」
「いい。タクシーで帰る。」
矢口さんを家まで送っていってあげたかった。私の運転で。
梨華、矢口さん、ごっちん、そして自分。生きて行くうえで優先順位をつけなければ
ならないのは仕方のないことだけれど、それはほんとうに辛く悲しい事だ。
「じゃ、せめて駅まででも‥。」
あくまでも笑って拒む矢口さんを私は無理矢理座席にのせた。ナンバーも、しっかり
変えられている車。けれど間違いなく私の車。
結論からいえばその外出は滞りなく終わり、私達は真希ちゃんの元へ無事帰り
着いたのだけれど、特筆すべきことがあるとすれば帰り道、検問をやっていた
ことだ。
「梨華ちゃん、やべぇ!」
と、思った時には既に遅く、私達の2台先ではもう審問が始まっている。
「や、ちょっ、なにこれ?」
「怖え〜‥!」
今から逃げても逆効果。必ず捕まってしまう。
「どうしよう!?」
と、2人して青い顔でジタバタしているうちに、若いカンジの女性警官が2人、
コツコツとこちらに近寄って来る。その髪の長い方の合図に従い、私はドキドキ
しながら窓を開けた。
「シートベルト、良し。お手数ですが、免許証を拝見。」
「ハイ‥、」
低いのに、どこか明く響く声に好感を覚えながらも私はぎこちない手付きで免許
をさし出す。
緊張しながら待っていると、女はいきなり笑い出した。
「ギャハハハハハ。なにこれマジ!?ちょっと来て〜〜〜!!」
そう言って、車の後ろに回っていたもうひとりの仲間を呼ぶ。
ハッとして私は顔を上げた。そう言えば‥、その写真‥。
『ヨユーよッ、むしろイケイケよッ!!』
あの時保田さんが言った通り、その普通じゃない写真は効力を発揮した。
「やべ〜、コレ。超ウケル。良くこんなん通ったねー、免許とる時。」
「ほんとー。マジブス。考えた方がいいよ〜?」
などと、その2人は口々に言いながら、結局そのまま通してくれた。
やけにほっそりとしている足。2人とも制帽で、顔がよく見えないけれど。
「行ってよし。」
私はミラーに充分気を配りながらしっかり右にウィンカーを出し、2、3度点滅
させてから、慎重に発進した。
付近に停まっていた一台の白バイ(白いスカーフをまいたそれも、どうやら女性
だったみたいだ)と、数台のミニパト、検問を構成するそれら組織の姿が完全に見
えなくなってから梨華はようやく口を開いた。
「焦ったー。本当。」
「ね。マジで。あいつらがバカで良かった‥。」
私も息を吐く。とても大きく。
「けどさー、見た?」
「何?」
「あの警官、鼻にピアス開けてたよ?いいのかね?」
「本当?でも、そう。そういわれればあの人たち、スカートやけに短くなかった?」
「うん‥。本当にいるんだね‥、ああいうの、いいのかな。公務員なのに‥。おっと。」
赤信号。車にあわせて、なぜか黙り込む私達。
やがてすぐに、青に変わった。
「まあいいよ。なんともなかったじゃん‥。」
「そうよ、ね。」