どどこをどう走ったのか覚えていない。悪意のたちこめたステージから
解放されると、私は逃げ出すように走っていた。
舞台裏にあるスタッフ専用のトイレ。個室に鍵をかけると、私は床に
ぺたりと座り込んでいた。
息が弾むのを抑えられない。肩を上下させるたびに、着慣れないきらび
やかなステージ用の衣装がざわざわと耳障りな音を立てる。こんなもの
今すぐ脱いでしまって、トイレに流してしまいたかった。
寒くもないのに、歯がかちかちと鳴る。私は震えていた。震えながら、
自分はなんて孤独なんだろうと思った。ひとりっきりでトイレの床なんかに
座り込んでがたがた震えている自分が、ひどく惨めでちっぽけな存在に
感じた。
洗面所の蛇口から落ちる水滴の音だけが、トイレのなかに響いていた。
そのほかには何の音も聞こえなかった。ぴちょん、ぴちょん、ぴちょん…
そんなふうに規則正しくはじける水の音を私は放心しながら聞いていた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。早くみんなのいる場所へ戻らなくて
は、と自分をせかした。きっと先輩たちも断りなく消えた私を怒っているだ
ろう。
のろのろと立ち上がり、鍵に手をかける。でも、どうしても鍵を開けて、
外へでていくことができなかった。今この扉をあけたら、さっき自分を
飲み込もうとした圧倒的な悪意が、たちまち流れ込んできそうな気がした。
ステージの記憶がフラッシュ・バックのように自分のなかに蘇る。
実際にはあそこにあった何倍ものの大きさの無名の憎しみが、私には向けら
れているんだ…そんなふうに考えると胃がはげしく痙攣して、吐き気が急激に
こみ上げてきた。我慢できずに私は便器に吐いた。苦しくて、涙が出た。吐く
ものがなくなっても、私の胃は何かを吐き出そうとするのをやめなかった。
苦い胃液がぽたぽたと唇から流れ落ちた。
誰かに愛されたいと思っていた。そんな漠然としたイメージが私を
モーニング娘に入りたいと、そう願わせた。でも、愛されるってどんなふうに?
愛されたことなんてないから全然わからない。そんなこともわからないくせに
私はないものねだりをしていたんだろう。なんて馬鹿だったんだろう。
「じゃあ、いいじゃない」私は涙を手の甲で拭いながら心の中でつぶやいた。
「これまでと何も変わらないってだけ。それだけだよ」
「りさちん…、りさちん…」扉を叩く音がする。
鍵を開けると、そこにはあさ美ちゃんが立っていた。膝に真っ白な包帯が
巻いてある。怪我した足で、ここまで心配して探しにきてくれたんだろう。
あさ美ちゃんは目にいっぱい涙をためていた。あさ美ちゃんは私より一つ
上だけど、なにかの動物の仔のようでとても可愛い。
あさ美ちゃんなら、いつかモーニング娘としてみんなに愛されるように
なるんだろう。でも、私は…、私はこれからどうなるんだろう。
私はあさ美ちゃんの胸にすがって泣いてしまいたかった。わんわん泣いて
しまいたかった。でももう一人の自分がそれを押しとどめた。
「勘違いしないで」私はあさ美ちゃんに言った。「緊張のしすぎでちょっと
具合が悪くなっただけだから。泣いてたりしてたわけじゃないから」
あさ美ちゃんは唇を噛んで、何も言わないで、じっと私を見つめていた。
私は彼女に精一杯笑いかけた。そうでもしないと、涙がこぼれてきそうだった。
「ごめんね。早く戻ろう。きっと怒られちゃうね、飯田さんに『なにやってん
のっ!』って」